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麻生田町大橋遺跡 土偶A 41:ウズグモと大岡越前

豊川市大崎町の住吉神社から西北西8.4km以内の豊川市長沢町に位置する巓神社(だけじんじゃ) に向かいました。巓神社はレイラインAM上に位置する10社の中でも、もっとも山岳部に位置する神社です。「巓神社」という、誰も読めない社名が強い存在感を示していて、個人的に10社の中でももっとも気になる神社となり、ワクワクしながら長沢町に向かいました。

愛知県内レイラインAM

巓神社のある山の南側には東名高速道路と国道1号線が通っており、国道1号線を東から長沢町に接近し、南側から北側に向かって東名高速道路をくぐりました。
山の南の麓、東名高速道路脇には曹洞宗寺院の正寿院が存在し、おそらく神仏習合していた場所なのだろうと、正寿院脇から巓神社に登っていく通路を探したのですが、それらしき通路は見当たらなかった。

そこで、神社のある山の尾根の東側の一般道路からアタックしたところ、下記地図の鳥居のある南側の通路に出た。

巓神社地形図

しかし石造明神鳥居はすぐ先に見えるものの、その鳥居に上がっていく石段はバリケードで封鎖されていました。
そこで、表参道以外の通路を探したのですが、この神域は全体がワイヤーネットを張り巡らして立ち入れないようになっていた。
参道が、何らかの危険な状況になっていのか、通行できなくしてあるようだ。
『東三河を歩こう』というサイトには「鳥居からは250段を越す石段を上って行かなくてはならず、豊川市の神社では最長の石段か?」という情報があった。

鳥居の周囲も寂れていて、巓神社を祀る氏子が揃わなくなったものと思われる。
上記サイトには以下の情報がありました。

創建は明らかでないが、社蔵の棟札に宝徳元年(1449)12月25日源教兼の名があるという。
祭神は大山衹命(おおやまつみのみこと)、 大山咋神(おおやまくいのかみ)、闇龗神(くらおかみのかみ)

ウェブサイト『東三河を歩こう』

日源(にちげん)とは日蓮の愛弟子で、後に天台宗の実相寺の学頭を務めた人物であり、曹洞宗寺院は天台宗からの改宗が多いので、正寿院も前身は天台宗寺院であった可能性がある。
となれば、巓神社はその天台宗寺院の鎮守社であり、正寿院の前身の寺院の奥ノ院が同じ場所にあった可能性も考えられる。
巓神社の拝殿の写真を見ると、一対の仏教系の大型の石灯籠がありますが、ほかに顕著なものは見えない。

巓神社 拝殿

大山咋神は大山衹命の曽孫にあたる神で、共にこの山の地主神だと思われます。
闇龗神の存在は湧き水、もしくはその水路があったことを推測させます。


楽しみにしていた巓神社はあきらめて、巓神社の西北西6.9km以内に位置する岡崎市の桑谷日吉神社(くわがいひえじんじゃ)に向かうことにしました。
国道1号線で西北西に向かい、県道326号線を経由して桑谷日吉神社の南側に出て、表参道の入り口に向かった。

桑谷日吉神社地形図

326号線から70m近く農道を北上すると、変速の6差路に出ましたが、入ってきた道はそのまま石橋を渡って石鳥居に向かっています。

桑谷日吉神社社頭

石橋と石鳥居の間には「桑谷日吉神社」の社号標、幟柱、常夜灯が無舗装の表参道の両側に並んでいる。
地図で見ると、表参道の右手には表参道並行して棟数の多い市営住宅が並んでいた。

6差路脇に愛車を駐めて、徒歩で石橋を渡り、「日吉神社」の社頭額の掛かった大鳥居の前に出ましたが、細かな砂利の敷かれた表参道は社叢に向かい、奥で左手にカーブしており、先は見通せない。

大崎町 住吉神社鳥居

大鳥居をくぐり、檜の並木の並ぶ表参道に入っていくと、左手に複数の樹種不明の巨木の切り株があった。

桑谷日吉神社表参道 切り株

切り株には榁(むろ)ができているので中を覗いてみると、ギザギザ模様に見える特殊な蜘蛛の巣ができていた。

桑谷日吉神社表参道 切り株の蜘蛛の巣

このタイプの蜘蛛の巣は豊川市でしか見たことがなく、これで3度目だ。

前2回は通常の蜘蛛の巣に白い砂や粉が付着してできたものと想像していたのだが、異なった環境で3回目となると、さすがにこういう蜘蛛の巣を作る蜘蛛の種類が存在するのだと考えるようになった。
そこで調べてみると「蜘蛛の巣図鑑」が何冊も出版されていることが判った。
そして、このギザギザ模様の蜘蛛の巣を造るのはウズグモ科に属するカタハリウズグモであり、こうした蜘蛛の巣の目立つ(糸が束ねてある)部分を「隠れ帯」と呼ぶことを知った。

カタハリウズグモ

しかし、カタハリウズグモは日本列島から南西諸島のどこにでも生息しており、特に三河に多いわけではないようだ。
だけど、ほかの地域で見た記憶が無いんだよな。
カタハリウズグモは体長(脚を除いた部分)4~6mmで体色は平均的な蜘蛛より淡く、昆虫を餌にしているというが、個人的に体色の淡い蜘蛛って、生理的に気色が悪い。
カタハリウズグモの活動期は6~8月頃で、前に見た時は活動期だったが、体長は蜘蛛の巣のサイズからの予想よりはるかに小さく、マダニとほとんど変わらないから、撮影した時にも居て、隠れ帯に隠れていたのかもしれない。
「ウズグモ」の「ウズ」は渦巻き状に隠れ帯を造ることに由来しているようだ。
隠れ帯は同心円だとばかり思っていたが、いくつか写真で隠れ帯をチェックしてみると、最後の外側部分は円を閉じて“終わり”にしていることが判った。

縄文人にとって蜘蛛はどんな存在だったのだろうか。
少なくとも蜘蛛をモチーフにした縄文期の装飾は見たことが無い。
日本では現代でも蜘蛛で縁起の良し悪しを判断する習慣が残っているが、古代から天孫族は一部の先住民を「土蜘蛛」とか「大蜘蛛」と呼んで異族視してきた経緯があるが、縄文期の文化の記述とされる『ホツマツタヱ』38文にはツチクモの個人名として、アオクモ、シラクモ、ウチサル、ヤタ、クニマロ5名の名前まで記述されている。
この場合の「ツチクモ」は単に「蜘蛛」だけではなく「雲」とのダブルミーニングとみられている。
また、鎌倉時代以降の記録に現れる、狩に毒を使用する民族アイヌはトリカブトの毒に蜘蛛などの毒を持った虫をスリ潰し、混入して使用したという。
薬学的な効果というよりも呪術的な効果を狙ったものだろうか。
アイヌと違い、日本人は狩に毒を使用する習慣は無いし、『ホツマツタヱ』にもそうした記述は無いから、縄文人も使用していなかったと考えていいだろう。
東南アジアではミャオ族のシャーマンが蜘蛛を人の魂の乗り物とみて儀礼に使用するが、別の地域のシャーマンは蜘蛛を飼って、天候の判断に利用した例もあるという。

ほかに参道に見るべきものと遭遇することなく、最初の石橋から220mあまりで2基目の石橋に到達した。

桑谷日吉神社 石橋/二ノ鳥居/拝殿

石橋の向こう側には境内が広がっており、ニノ鳥居が設置され、鳥居の正面20mほど奥に瓦葺の拝殿が設置されている。
社殿の背後には標高差90mの小山が立ち上がっており、桑谷日吉神社はこの小山の麓に位置している。

石橋を渡り、石鳥居をくぐり、入母屋造平入で板塀の中央に格子窓の付いた板戸が立てられた拝殿前の石段の最上段まで上がって参拝した。
境内に板書の類は見当たらず、『神社名鑑』に以下の記載が存在する。

御祀神・【大山咋命】【天照大御神】【須佐之男命】【白山姫命】
    【豊受姫命】【加具土命】【市杵島姫命】【猿田彦命】8柱

社殿に、松平弘忠の長男・松平右京太夫忠正が桑谷村在住の頃、天正7年(1579)岡崎城内より移し社殿を再建し祀る、と云う。享保9年(1724)9月・石鳥居を建立し、文政6年(1809)拝殿を再建する。又、大岡越前守忠相、社領・三石六斗を寄進する。明治5年10月12日・村社に列格し、同40年10月26日・供進指定をうけた。同42年9月13日・字山側の神明社・字岩鼻の桑谷社・字西浦の市杵島姫社・字森下の白山社・字新座山の秋葉社・境内社の池鯉鮒(ちりゅう)社と御鍬社の7社を本社に合祀した。大正3年8月・社殿を改築し社務所を新築する。昭和60年・神饌所を造営した。

『神社名鑑』

市杵島姫命が桑谷日吉神社に祀られていたのは予想外だった。
市杵島姫命が祀られていたという「字西浦」は現在は岡崎市井内町に存在する。
井内町西浦の場所を調べてみると、桑谷日吉神社の西北西7kmあまり離れた地に位置しているが、やはりレイラインAMが通過していた。
同じレイライン上で祀られる場所が移動する確率はいかほどだろうか。

      

●大岡忠相の実績

『神社名鑑』から大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は豊川稲荷を信仰しただけではなく、桑谷日吉神社にも社領を寄進していたことが明らかになった。

大岡越前守と言えば江戸で活躍した名奉行のイメージが強いが、越前守に任官した大岡家は忠相だけではなく、忠相の子孫5名が着任しており、名前は異なっていても6名が「大岡越前守」と呼ばれたことになる。

また、大岡忠相は徳川吉宗の享保の改革に伴って町奉行だけではなく、都市政策に携わり、奉行所・防火体制・風俗取締・賭博などの取締りに関する改革、小石川養生所の設置、サツマイモ栽培法を確立させることになった青木昆陽を登用した書物奉行の設置、貨幣改鋳に関わった後、旗本でありながら、大名の役職である寺社奉行に任官し、大名となった。
大名となったことで、三河国西大平(にしおおひら:現岡崎市)1万石を領することとなり、領内の桑谷日吉神社や近隣の豊川稲荷を援助することとなった。

江戸時代に旗本から大名に出世したのは大岡忠相が唯一の例であることから、どれだけの実績を上げた人物であったのかが判る。
また、そのために古参の大名から虐めにあい、吉宗がそれに気づくまで我慢したエピソードがあるという。
寛延4年(1751年)6月20日に忠相の後ろ盾になっていた吉宗が没したが、忠相も
前年から体調が不順になっており、寛延4年11月2日には寺社奉行を辞任し、12月19日には吉宗の後を追うように死去したという。
吉宗の享年68才、忠相の享年75才だった。

大岡忠相の業績の中で現代人に貢献している実績がある。
それは書籍の最終ページに「奥付」を記載することを義務化したことだ。
青木昆陽に公文書と旧徳川家領の古文書の収集整理をさせたように、忠相は書類の整理をすることが重要であることに気づき、対応した最初の日本人であると言ってもいいのかもしれない。

もう一つ面白い大岡家のエピソードがある。
大岡家は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えたが、第14代大岡家当主大岡忠輔がクノール食品の社長を務めている。


話を桑谷日吉神社に戻すと、この周囲には日吉神社が集中しており、ざっと地図を眺めただけで、実に6社の日吉神社が存在していた。

拝殿の両袖には社殿や回廊が延びており、拝殿の奥には立ち入れないようになっている。

桑谷日吉神社 拝殿

しかし、拝殿左手(西側)の社殿を西に辿ると、社殿の外側に干上がっているものの深い水路があり、橋が架かっていて、境内外に出られるようになっていた。

それで境内の外側から本殿の様子を観ることにした。

桑谷日吉神社 本殿/渡殿/社殿

本殿の真横から眺めることができたが、漆喰塀に囲われた本殿は拝殿と同じ瓦葺入母屋造平入の建物だったが、本殿後部(上記写真左側)の屋根をカットしたかのような変速の入母屋造だった。
社殿の正面を見ていなければ、寺院かと思うような建築物だ。

境内に戻って拝殿の東側に向かうと、参道から外れた場所に手水桶が置いてあり、隣に3色の三つ巴紋を装飾した井戸があった。

桑谷日吉神社 井戸

その神紋はカタハリウズグモの隠れ帯と同じく、渦を巻いていた。

桑谷日吉神社神紋

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2回続けて記事に蜘蛛が関係してきました。レイラインAMを辿ったは10月の中旬のことだったので、カタハリウズグモの活動期、つまり餌である昆虫の活動期は過ぎていたから、巣を造った当人は姿を消していたのだろうか。
それにしても大岡忠相の業績を調べてみて、その大きさには驚かされました。忠相は吉宗が死去するまでいわゆる『大岡日記』を記述していましたが、フィクションである『大岡政談』が講談化、歌舞伎化されたことで、大岡越前守としての庶民の間での人気が大したものだったのに比して、享保の改革の立役者の一人であるのに、歴史家の誰も官僚としての忠相の実績を庶民に知らしめることに成功していません。
複数の作家に小説化されている渡辺崋山と大岡忠相は庶民の間では、江戸期の三河の二大スーパースターと言ってもいい存在です。


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