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中条遺跡 土偶A 29:石の上にも1300年

刈谷市小垣江町(おがきえちょう) 神明社の表参道を戻って、鳥居から外に出ると、社地内ではあるが外れた場所に2棟の社殿が建っていました。

●中条遺跡 土偶A

鳥居に近い方の社は長くはないものの、参道が設けられており、高くはないものの土壇も設けられ、基壇の上に本瓦葺入母屋造棟入の社殿が南西を向いて設置されていた。

2MAP小垣江町 神明社金毘羅社行者堂

社殿の前面は全面に格子戸が立てられている。
屋根だけが火災にあったかのように木部も瓦も煤けており、屋根部分だけ旧社のものを流用して、躯体部分だけを新築した建物のようだ。

9小垣江町 神明社金毘羅社

柱には「金毘羅社(こんぴらしゃ)」の表札が掛かっていた。
祀られた社内の位置からすると、後から神明社に合祀されたものだろう。

白壁の社内を見ると、さっき見てきた秋葉神社とほぼ同じ、金と墨で漆塗りされた厨子が設置されていた。

10小垣江町 神明社金毘羅社厨子

厨子はこちらの方が新しく、金の輝きが鮮やかだ。
金毘羅社の総本社は香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮(ことひらぐう)で、大物主神を主祭神とする。
大物主神の神格は蛇神とされているが、それは箸墓古墳に関する伝承に由来している。
『日本書紀』に記されている箸墓伝説は以下のようなものだ。

百襲姫(ももそひめ)は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。

迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は旧名を勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)と言った。
旧名に含まれる「陀」の文字の部位「ヒ」は「キ」と発音し、中近東では蛇女神を示す記号だ。
つまり、蛇女神の百襲姫が夫が小蛇の姿で現れたからといって驚き叫ぶのは妙な話ということになる。
箸墓伝説が『日本書紀』にしか記されていないのは、そのあたりの事情があるからかもしれない。
もう一つ、勢夜陀多良比売の名に含まれるタタラ(陀多良)は勢夜陀多良比売が製鉄族の系譜であることも示唆している。

金毘羅社の右隣には小さな丘陵の頂上に瓦葺切妻造妻入で扉を持たない社が設けられていた。

11小垣江町 神明社末社行者堂

社内には中央に1体のみ、岩の上に椅像の石像が乗っている。
役小角(えんのおづぬ)だ。
社の手前両側には前鬼・後鬼を暗示するような凸型の石と球形の石が対になるように置かれている。

役小角を観ると、膝小僧が出ていないので、密教寺院に祀られていたものである可能性があると思った。

12小垣江町 神明社末社行者堂役行者

小角像と基壇になっている巨石はここに持ち込まれた時に組み合わされたもののようだ。
社内は土壁になっている。
よく観ると、小角像の両腕と右の膝小僧に修復痕があり、両爪先は破損したままだ。

13小垣江町 神明社末社行者堂役行者

寺院内に奉られていたところ、廃仏毀釈となり、前に倒されたものと思われる。
首も一旦は落ちた可能性があるようだ。
役小角の祀られた丘陵の裏面麓にはアベマキのドングリやドングリから外れた殻斗や葉が落ちていた。


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小垣江町 神明社からもう一ヶ所、行者堂のある今岡町の臨済宗 洞隣寺に向かったのですが、その行者堂に奉られていた木造の役小角像は無残なことにセットになっていたと思われる岩屋から役小角像だけが剥ぎ取られ、盗み去られていました。
明らかに役小角のことがよく解っていない人物の仕業だと思われます。
その残骸が、まだ整理されず、そのままになっていました。
すごく気分が悪くなりました。
やむなく、もう一ヶ所行者堂のある曹洞宗 東境山 永源寺に向かいました。
永源寺の行者堂には着彩された大きな役小角像があったのですが、縁日にやって来ないと開帳されないようで、撮影は不可でした。


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