「娑婆に出る」vol.4

今回は、入社2~4年目くらいまでをざくっと書きましょうか。
正直言って、自分のことながらこの辺りは時系列的に追えていません。。
なので、ドカッとまとめる形で書きます(なので、長くなりそうな予感がします。すみません。)

いよいよ、後輩社員が入社、配属してきました。
関東にあるTS大学大学院卒のOくん。彼は今もこの会社で頑張っています。じき、役員ポストまで行くのでしょうね。
そういう生き方もあります。私のような生き方もあります。どっちが正解でも不正解でもない。本人が納得のいく人生を送ることが大事。
彼も実は純粋な技術者ではなかったと思うんですよね(それにしても私とは比べ物になりませんでしたが、笑)。
それもあって今のポジションで会社を牽引しているのだと思います。

で、そんな彼に私が指導するということなどないと早々に気付き、「一緒に学ぼう!」というスタンスに変わります。
こういうときは先輩面しなきゃ!と頑張っちゃうのが一番よくないのです。
彼もおそらくそれに気づいたのでしょう。そのほうがうまく回るし、「この人なんかおもろいな」と感じてくれたような気がします。
私のレポートラインはN課長、彼のレポートラインはK課長代理だったのですが、主な開発テーマは違えながら何故か一緒に働いていました。
上の方々も「コイツら噛み合わせがいいからしばらく泳がせてみよう」とでも思ったのでしょうか。

二人で本当に泥まみれの毎日。
「ダメだー!!!!」とか言いながらめっちゃ笑顔で現場から帰ってきたりするので、K課長から「また泥遊びしてきたのか」とよく笑いながら言われていました。
そのうち私の同期の設計屋Nくんや謎の秀才バイトKくんも交じり、4人で鶴見の町を泥だらけの作業着でよく闊歩していました。
おそらくその辺の居住者からすると「やーね、あの小汚い連中」などと見ていたと思いますが、「まさか、この4人の出身校がK、TS、W、Wなんて誰も思わないよね」なんて誰かが言い出してめっちゃ笑っていました。
今までの価値観とか全部取っ払って、とにかく今やっていることに夢中になる、ということを覚えたのがこの頃かもしれません。

確かこの頃ですね、金曜日まで試験をやって「片づけは明日俺がやっておくから」ということで土曜出勤。車で鶴見にあった事業所に出向き、午前中に片づけを終えて、午後から本社で業務を開始した途端になんか具合が悪くなり、1Fの駐車場に停車しておいた車で休憩。ところが体調が一向に戻ってこないので彼女に電話したら「聖路加に行きなさい」と言われ、仕方ないかと車を出して聖路加へ。そうしたら、「極度の疲労ですね」と点滴を打ってくださいました。自分の限界を初めて知ったのがこの時。これ以上の「ムチャ」は今後この会社ではしませんでした。

そしてあるときは、同期の設計屋Fと一緒にある超難関な開発テーマに挑みました。Fの先輩のIさん、Yさん、Aさんなどの力を借りながらの検討で結構夜中まで図面を引き直していただいては試作品を作り直し、テスト、テスト、テストというかなり緊迫した日々でした。Fの「絶対に大丈夫!」という鋼のメンタルには安心というか感心しました。うまく行かない日々が延々と続いていたのです。並みの人間なら「こりゃダメだ」と投げ出してもよい状況。彼は弱音を一切吐かず、へこたれませんでしたね。そんな彼は私よりも先にこの会社を離れるのですが、先輩方とも私ともいまだに良好な関係を続けています。彼は彼でその後破天荒な人生を送ることになります。

この会社には本当にいろんな社員がいて、最近の言葉で言えば「ダイバーシティ」に富んでいて本当に面白かったです。学校歴じゃないんですよ。
その瞬間に輝くのは誰か、人生のどこにピークを持ってくるか。
受験戦争で勝ち上がって、(国内であれば)「T大、K大に入学しました」なんてことは一瞬で過去の出来事になります。あの僅か4年、6年のあとに待ち受けるのは30年以上の社会人生活ですよ。始まる前のことでえばっても何の意味もない。
今、価値を出しなさい。
まあ、過去にそういう実績を得た方々に伝えるとすれば「それをうまく使いなさい」としか言いようがない。
もはや「ネタ」でしかないのです。時には役に立つことは事実です。そういうとき以外は頭の中から消し去ったほうが得です。とにかく今の自分を見よ!そして磨くべし!

そんな中、周囲に刺激される形で単独テーマも結構頑張りました。
とある自治体からの受託研究では化学大手のTS社と共同研究。当社の代表として妥協を許さず、先方の研究員とやり合いました。ポイントは「技術とビジネスの線引き」でした。私たちの部署は純粋開発をする訳ではなく商品開発をする部署だったので、オーバースペックというのは許されないのです。TS社の研究員(私より年長者)は研究者として優秀でした。ですが、ビジネスの表舞台に立ったことがない。彼のプロポーザルの趣旨は理解できる、だがこれじゃあ売れない。N課長に相談し、「ないな」ということで、プロセスをひとつ落とす提案をしました。そうしたらTS社の研究者はプライドをへし折られた形で相当憤慨したらしくその後最後まで打合せに出てきませんでした。ある意味これは私たちにとって賭けでした。そして、これは今だから話せますが私自身もこれはあくまで委託調査止まりで、実装する前にもう一度検証もしくはスケールアップ試験をすべきだ(じゃないと危ない)と思っていました。

その後、私がこの部署にいる間で最大の技術開発テーマを言い渡されます。
基礎試験を社内の研究所で終えてプロポーザルを書き、こういう実証試験をやらせてくださいと先方の上役に対して上司、営業さんと一緒に説明しに行きました。場所は福岡。進取の気性に富んだその方は二つ返事でOK。約1年半の戦いの火蓋が切って落とされました。
K課長代理のサポートのもと現場の試験設備のラフスケッチを行い、業者と詳細を詰めていきます。ざっと3.5m高くらいの試験塔がメイン機器なのでプレハブ2F建て(一部貫通)。1Fはデータ取得&調整がメインのフロア、2Fはデータ整理・解析の場と並行してベンチ試験を行えるように設計。これを構内の関係ポイントと繋ぎ、フレッシュな試験体を用いてパイロット規模の試験を連続的に実施するのです。試験結果が良好であれば、数10億円はくだらない受注になります、数100億円かな?
そんな開発ですから、福岡支店の営業さんも最初は菓子折りを持って応援に来てくださいました。時折り、先方の上役も様子を見に来ます。なお、こちらの現場体制は私プラス現地バイトさん8名くらい(交代制)。まあ、この規模の試験を社員一名で回せるようになったのですから、新入社員のときと比べるとかなり成長していたのでしょう。
研究所での試験とは勝手が違うので、メカ的なトラブルが起きても、電気的なトラブルが起きても基本的に自分で対応、ケリが付かない場合は業者を呼んで対応していただきます。ホームセンターにもかなり通いました。工具が足らないとか部品が合わないとか。完璧というのはあり得ないのでとにかく現場合わせ。思わぬところで時間が取られます。

現場の体制構築も重要です。バイトさん達はおおもとの施設の維持管理をやっておられる方々で、現場知識はありますが、中には「ガラ」の悪い方もおられます。その方々にいかに興味を持っていただくか。最初からこの8人が決まっていた訳じゃないのです。その会社の窓口担当の方に話をしたところ候補者が数名挙げられました。で、その方々に現場、といってもプレハブ2F建てですが、「こんな感じの設備で、これこれこういうことをやろうとしていて、お任せしたいのは●●」といった説明をしながら、「あー、この人がバイトリーダーに就いてくださるといいな」、「あー、彼は一見『ワル』に見えて一番の切れ者だな」などと思いながら、この仕事のやりがいを訴えていきます。すると、なんとなく「おもしろそう!」という評判が周辺に広がり「俺も」、「俺も」という感じで集まったのが計8名。この陣容でシフトを組んでいくことになりました。指揮系統も「できれば伝達事項は●●さんにお願いしたい」と本人に直接伝えて、8人全体が集まらずとも、また当時はSNSなどない中で如何に情報共有をうまく行うかを徹底しました。

そういった前捌きはうまくできていたのでしょうね。試験データもそのうちに順調に取れるようになり、現場がうまく回り始めました。私にも若干余裕が生まれ、バイトさん達とも会話が弾みます。
そういえば、人生でこの出張時にのみ「喫煙」しました、うまく吸えませんでしたが(笑)。
コミュニケーションは本当に大事。彼らの協力なしには成り立たないプロジェクトですから。
タバコ吸いたいなら「いいよ」と言い、「俺も吸うよ」と返します。
ちゃんとわかり合わない限り、相手からしたら一部上場企業で技術開発をしている人、という印象なのです、きっと。私だったらどう思うかをふと考えて、延髄的に反応しているんですよね。
打算じゃないのです。彼らのことが好きだから、私が仲間になりたいから、自然とそういう発言、行動をしてしまうんですよね。だって、こんな訳のわからないバイトに挙手してくれたんですもん。本当だったら家に帰って寝たり、遊んでたりしたっていいのに、夜勤明けで入ってくれたりしてましたから。
その代わり、PCのデータをほうほうと眺めていたりしたら、「今度から入力お願いしてもいい?」と返します。彼らにはPCスキルがほぼなかったのですが、一番の若手の兄ちゃんはセンスがあると何となく見込んでいたから。
地頭の良さや手先の器用さは瞬間的に判断できます。こういうときは誰にお願いするのがよいか。誰にどこまでお願いすることが許されるか。今がそのタイミングか。
そういうチームビルディングを徹底すると、チームがどんどん強くなる、レベルアップしていくのです。

とまあ自分なりに頑張って外形的にはうまく行ってるんですが、肝心の試験結果がついてこない。データが増えるたびに「うーむ」とうなる日々が続いて帰宅(といってもホテル泊まりですが)が遅くなっていきます。この頃はだいたい最後に守衛さんに挨拶して帰宅していましたね。しかも現場で土日遊んでいる暇はないので週休1日制。とはいえそれで十分でした。福岡という未踏の地で1週間に1日はフルで遊べる日があるのです。あるときは免許の更新にも行きました。地元に戻って更新する暇がないので、博多からバスで一時間くらいのところにある免許センターに行って講習を受講。それがその週の唯一の休みの日、だったり。このあと数年間は免許証上の住所が「博多駅前」でした。レアものです(笑)。

まあ、そんな日々が続く中で、なんとなーく疲れてきた訳です。「出口」らしきものが見えていればいくらでも頑張れたのですが、まったく光が見えてこない。
なるべく本社に心配をかけたくなかったのでポイントを押さえて状況説明と相談をしていたのですが、煮詰まっている様子が電話越しに伝わっていたのでしょう。

「一回帰ってくるか」

そうN課長から電話で言われたのが3か月半ほど経った後だと思います。ある種ホッととしました。逃げ出す訳ではないのですが、少し距離または時間を置く必要があると感じていたのです。
という訳で、現場でのオペレーションをすべて紙に書き起こしたり、機器にも注意書きなどを一機ずつ書いて目立つところに貼るなどしました。そうやって、誰でも運転管理できるように処置し、バイトのリーダー、サブリーダーに装置を回りながら説明していきました。
「お任せして大丈夫ですかね」
「え、まあたぶん。何かあったら連絡しますよ。っていうか早く帰ってきてくださいね、hello!さん」
いざとなったら止めてもらおう、そう単純に思っていたのですが、私は彼らの力を完全に見くびっていましたね。彼らはその後一度も試験装置を止めることはありませんでした。その間、実に一年半です。
怪我の功名?で現場への張り付きが不要になりました。その後は確か基本的に電話・メールで指示・相談、毎月1週間くらい様子を見に行くという体制に切り替えたはずです。会社的にもコスト低減かつhello!を他の開発テーマにも加えられるので一挙両得です。
実は一度だけハプニングがありました。ひとつだけケアレスミスがあったのです。ちょうど年末のタイミング。年始にバイトさんが出てみたら「あっ!」ということで慌てて電話がかかってきました。ラッキーだったのはメイン機器ではなく、ベンチスケール機器のほうだったので、1,2週間進んでいた試験がパーになったのは残念でしたが、現場に急行したところ機器にも異常なし。試験を再スタートして、「また頑張っていきましょう!」と新年のご挨拶です。時には叱ることも必要かもしれませんが、試験機器がゆえに生じやすい人為的ミス、そこを徹底しておかなかった私の責任です。なおかつ、彼らの反省の度合いは福岡に向かう前から痛いほど伝わっていましたし、ミスをしてしまったのがバイトのリーダーだったので彼の自信を損なうのが私としては一番怖かったのです。
ここは何もなかったかのようにリスタートする。それが最善の策だと私は判断しました。
叱ったところで試験結果がよくなる訳じゃないですからね。叱るなら結果を出せない自分を叱れ、という訳です。

東京と福岡のダブルライフを開始した頃、技術開発の組織も形態変化していて統合があったのです。前に出てきたTS大学のOくんの同期が同じ組織に来ていました。
彼は学者肌だったのですが考えることが大好きで行動に移すのが遅いというキャラでした。私とは真反対なので上司は敢えて私を彼のサポート役に回してみたんでしょう。本当にスポット的なものです。
「とりあえず実験してみようよ」
彼の作りかけの実験計画書を読んで、何の根拠もなしに、「まだ無理だよな、笑」と思いながら彼に仕向けてみると「そうですね」という話になり急遽その足で研究所へ。
すると「あれ!あれあれ!?」という感じでできたんです、それも再現可能。
あのテーマがその後どこまで膨らんだのか追えていないのですが、フットワークとかモチベーションマネジメントとか、この頃にはずいぶん身についていたような気がします。
入社1年目の苦悩が嘘のように自分の持ち味を最大限に発揮していました。
そして気付いていました。私は「技術者」ではないな、と。

確か、この辺りで結婚して子宝に恵まれるのですが、何と何が有機的に結びついているか今ひとつ判然としません。
ただひとつ間違いないのは、前述のTS社との共同開発によるプロポーザル。これが受注してしまったんです。
喜ぶべきことなのですが、前述したように結構なスケールアップを必要とします。
「え、これいきなり実機にするんですか!?」
計画(基本設計)の方から初めて内容確認の依頼があった際にびっくりして叫んだのですが、もう時間的に相当厳しいとのこと。確か補正予算がついたとかそんな感じなんですよね。
まあ何度か話すうちに私も冷静になり、「あの作業を工業スケールで再現できればいい訳だから」と破砕機や混錬機の選定にも首を突っ込んでいきます。
で、気が付けばだいぶん調達関連や現場工事も進んで、少なくとも試運転には立ち会ってほしいと依頼が来たわけです。
現場は大阪でしたが、なかなかの壮観でした。
「おー、あの作業を機械でやるとすると確かにこういう機器構成でこういうシーケンスを組んで......」
この一件があるとないとでは私の技術開発人生はずいぶんと違ったでしょうね。実験室でごちゃごちゃやっていることが社会に実装されるということがどういうことなのか身を以て知ることができました。
正直怖い、でもめちゃくちゃエキサイティング!
そして初めての受注貢献です。これは何より嬉しい。
うちの部署は道楽部署と思われていましたからね。どんな形であれ、受注に結び付いたということは喜ぶべきことです。めちゃくちゃラッキーでした。

もちろん試運転が終わるまで最後まで見届けるつもりだったのですが、「明日でいよいよ終わり!」という金曜日の昼に妻から電話がかかってきました。
「何、産まれる!?」
プレハブ待機している皆さんに状況をお伝えすると、「この現場は俺たちに任せて早く帰れ!よく来てくれたな!!」となんとも男気ある言葉が(涙)。
皆さんに心から感謝し、「なんてすばらしい会社に入社させていただいたんだろう」と喜びをかみしめ、東京行きの新幹線に慌てて乗り込みました。
そして、子供が生まれたのは当日でも翌日でもなく日曜日だったんですけどね、超難産(苦笑......)。

そういえば、結婚式でのエピソードとかいろいろ思い出しましてきましたが、まあいいや。気が向いたらまた書きます。

そんなこんなでいろいろよいサイクルで回っていきました。福岡での試験も結果こそ振るわないものの、特許を2件出願し、学会発表も行いました。
どうやらこの技術分野で身を固めていくことになるのか。
学部卒だったのであまりアカデミアの経験がない私に後輩のOくんがこのときいろいろアドバイスしてくれました。

しかし、一年を経過する前にこの試験の中止の声が出始めます。結果が出ない現状。実は現場に近い計画サイドの課長は最初からこの技術にフィージビリティがないと見抜いていたのです。
これは嫌がらせでもなんでもなくてS課長(その後役員まで昇られます)の英断。しかし、私もそうですが指導役のK副部長、そしてN部長が「まだ可能性がある」と主張してくださり、「もう少し様子を見るか」という結論が出て、半年間ほど期間延長していただきました。

この一件からさすがに私も焦り始めました。当時、全世界的に見ても実用化すれば初の技術。そして時代は追い風でした(今だったらエネルギー消費の観点から見込みなしと評価されると思います)。
「何とかモノにしたい!」とない知恵をひねりまくり、試験条件を変えたり、もうひとつ別プロセスを加えてみたり、やれることは全部やり切ったような気がします。いや、まだ何かあったのかなぁ、思い付かなかっただけで。
効果がない訳ではないのです。いや確かに効果はある。ただ、(あくまで机上検討ですが)明らかにフィージビリティがないのです。
どうしたものかとプレハブの2階で思案する日々が続きました。考えては現場へ、考えては現場へ、という感じで汗だらけ、泥まみれ。
今考えたら、当時は相当ムキムキだったと思います。オッサン、痩せなきゃ!、じゃなくて(笑)。

で、半期に一度の開発会議で結審。実証試験の中止が正式に決まりました。
K副部長が顧客トップへの事情説明に立ち会ってくださり先方にご了解いただいた後、ひとり現場に残ってバイトの皆さんと撤去作業開始です。悲しいことに結構さくさくっと片付いていくんですよね。
試験機器などが全部なくなって更地になった最終日、1年半の間いっしょに戦ったバイトさん達と現場に立ち尽くし、そして健闘を称え合いました。
もうその頃には次に入る施設が実は決まっており、我々のリベンジ機会は敷地制約等の関係からもう断ち切られていました。

もう、ここへ帰ってくることはないのか。

「第■の故郷」になった博多の地で築いた御縁(バイトさん)はまだ細く繋がっています。あの頃みたいに一緒にもつ鍋を食べに行きたいなぁ。

この実証試験で思い知りました。売れない商品をつくっても誰もハッピーにならない、と。
試験を始めて数か月後から福岡支社の営業さんがパタッと現れなくなったんです。ここには当社の機器が結構入っているから、更新工事等の関係で挨拶回りとか営業訪問で来ていらっしゃるはずです。それが現場に顔を出さないということは「売れないものに付き合っている暇はない。売り物であれば他にいくらでもある。」ということだと私は理解し、その通りだと思いました。
実はこのときのこの教訓が、今新たな人生に旅立とうとしている私に大きな影響を与えた次第です。

そんな感じの入社4年目までを書かせていただきました。そして翌年度からまた潮目が変わります。

いやあ、えらく長くなりました(笑)。すみません、誰も読まないだろうなぁ、こんなの・・・。

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