マガジンのカバー画像

明智光秀 近江出身説

17
明智光秀が 近江 多賀 佐目の出身であるという事を前提に 今まで研究されてこなかった地域の伝書、多賀大社、本願寺番方 法蔵寺佐目道場、六角氏との関係など、マニアックに検証したいと… もっと読む
運営しているクリエイター

#本願寺

13.仏敵信長め!近江戦国山の道と光秀

上のトップの画像は、石山合戦がはじまる直前に、左女谷(佐目)道場に本願寺から届いた文書と、十兵衛屋敷跡から見える「陣屋の山」。白い三角あたりが「信長陣前桜」があったあたりかと思われます。 今回は、佐目と本願寺と光秀の関係を追いたいと思います。 1. 09.明智神社と、光秀近江出身説 これに続く話しを書こうと思って、色々とつなぎ合わせてきたら、13.まできてしまいました。 1575年 (天正3年) 越前、東大味の明智神社の伝承は、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、兵を送り

07.本願寺と佐目道場と光秀

『淡海温故録』に 明智十左衛門が土岐成頼に背き、六角高頼を頼って2~3代もの間、佐目に住んだとあり、息子である明智十兵衛光秀・・・とあります。『淡海温故録』がウソかマコトかは、わかりませんが これを元に いつやってきたかは、こちらのサイトで検証しています。一応、1480年と仮定してみました。 今日の本題は、浄土真宗 本願寺と 明智家の関係についてです。1470年 近江をほぼ二分して戦っていた佐々木京極と佐々木六角高頼。六角高頼は、京極氏が内乱をはじめた期を見てか、まずは佐目