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佐目03-歴史探索 古墳時代と犬上縣主

○○天皇(※○○年)の西暦は、便宜的に「炉辺談話より引用」しているので公式な年代ではありません。今回は特に、読むのが辛くなるややこしい神様の名前がいっぱい出てきます。

01-前回までのまとめ

さて、佐目01、02の歴史探索では

佐目の和気殿は、皇室出身だろう事。

・11代垂仁天皇から12代景行天皇およびヤマトタケルが日本を支配した時期、上記(※○○年)で表すと、西暦283年~323年(50年位後だという説もある)の間に佐目近辺の領土が与えらた和気殿が、地名から佐目和気氏と名乗った。

・多賀大社の御祭伸 伊邪那岐大神に象徴される「鉄と稲作」、杉坂峠のご神木の下、佐目をはじめとする「製鉄」ゆかりの地名が多賀には数々あり、佐目和気氏がくる前、既に製鉄が行われていたと思われる。佐目という製鉄に由来する村の名前が、その前からついていた事からもわかる。

十二相神社の御祭伸も、鉄に関係する「少彦名神」と、珍しい名前を持つ製鉄や製炭に必要な木の産土神「榾神様」である。佐目氏がやってくる前から神社の原型があったどうかは不明。

実は、榾神様は素朴な木像の神像で、室町期に製作されたのではと言われているが、古墳から出てくる壁画とよく似た服装をされています。更に、平安以前のものと思われる朽ちた木像もあり、ルーツは古墳時代と考えてもいいかもと妄想中。

02-犬上縣主と犬上氏は、つながらない?!

犬上氏と佐目和気氏の関係が、上司と部下のような感じがせずにいると、犬上氏と違う先祖を持つ『犬上縣主(あがたぬし)』が存在する事を知った。
いや、犬上氏=犬上縣主だと思っていた。が、違うかもしれない。

多賀大社叢書 典籍編 P361 「多賀神社の昔話」北村壽四郎著
(1861-1944)湖東焼の研究をされていた方のようで時代は新しいが、
活津彦根命(『日本書紀』)が彦根山(金亀山)、つまり現在彦根城がある城山に鎮座されたとあり、尚、
天神彦根命犬上縣主蒲生稲寸(がもふのいなぎ)、菅田首(すがたのおびと)等の祖であると ある。

活津彦根が彦根の名の由来らしいが、本当は天神彦根命なんじゃないのという説も調べていると出てきたりする。「彦根」という地名は、歴史があさく江戸以降になる。「彦根寺」「田中明神と彦根神社」について調べないとなという感じだが、これは、又。

この2柱(神様は、柱と数える)は、以下のような アマテラススサノオの誓約の際に天照大御神の玉から生まれた男神5柱の中の2柱になる。生まれた順番に

1.(天忍穂耳尊/天之忍穂耳命)アメノオシホミミ・・・皇室祖

2.(天穂日命/天之菩卑命)アメノホヒ・・・出雲氏等祖
3.(天津彦根命/天津日子根命)アマツヒコネ・・・犬上縣主等祖
4.(活津彦根命/活津日子根命)イクツヒコネ・・・彦根山(金亀山)
5.(熊野櫲樟日命/熊野久須毘命 クマノクスビ・・・出雲、紀伊熊野

1. 天忍穂耳尊 は、地神五代の二代目になり、初代神武天皇へとつながりヤマト王権となる。皇室つまり歴代天皇の祖である。犬上氏は、12代景行天皇を祖とする。

犬上縣主の祖 3.天津彦根命とはルーツが違うという事だ。

結論からバサッというと、『古事記』『日本書』を書いた時点の政権から見た 長男(ヤマト王権)  vs. 弟たち(大国主・大物主・地方豪族)という構図ではないだろうか。大国主の国譲りで、ヤマト王権に条件付きで屈した氏族たちという事になるらしい。詳しくは、古事記・現代語訳と注釈~

犬上縣主は、
三男の子孫となる。つまり、征服された方。後に、犬上氏は、ヤマト王権から遣わされた方。違うか・・・。

03-古事記には名が出て来ない『犬上縣主』

県主って何?

縣主(県主・あがたぬし)は、国造や伴造の造(ミヤツコ)よりも古い「ヌシ」の称号。初代神武天皇(※125年)の時から設置された。神武東征の随行者にもつけたらしいが、支配した先住氏族にも与えたという事なのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/県主
こちらには、古めかしい奉仕形態って書いてあるが、どんな感じなんだろ。
律令制が導入される7世紀 まで使われたらしい。

実際には10代崇神天皇朝時に、豪族の支配地域をヤマト王権が掌握する支配体制の整備が行われたそうだ。ややこしいが、歴史家の中では『古事記・日本書紀』に描かれている初代神武天皇のモデルは、10代崇神天皇なのではと言われている。

神武東征の時に西日本あたりが支配され(大国主の国譲り)、ヤマトタケルの東征の物語に東日本の支配が描かれていると考えると、元々、この地域の豪族だった氏族が「犬上県主」で、その後、ヤマトタケルの子孫という氏族がこの地を与えられ、地名である「犬上」を名乗ったのが「犬上氏」になったと考えると、すっきりする。

天神彦根命を祖とする犬上縣主蒲生稲寸菅田首のうち『古事記』に出てくるのは蒲生稲寸だけ。その蒲生稲寸も『日本書紀』では消えている。
犬上縣主『新撰姓氏録』 未定雑姓に大和国 ? として、菅田首は山城・神別・天孫・天久斯麻比止都命(天目一箇命)之後也 と登場する。

出た出た天目一箇命
蒲生稲寸菅田首は、なんと元蒲生郡、現在 東近江市鋳物師町の竹田神社の由緒に出てくる。町名鋳物師が表すように、鉄の神様だ。竹田神社の由緒には、延喜式内の菅田神社は当社であるとある。この神社には、古代に、蒲生地区を開拓した地元の豪族、蒲生稲寸三麻呂夫婦の神像があるそうだ。セットなのか。
http://engishiki.org/oumi/bun/oum220508-02.html

前回紹介した『古代の鉄と神々』真弓 常忠(著)に この竹田神社の祭神 は 天津日子(彦)根命・石凝姥命・天目 一箇 命・大己 貴命(大国主)・大屋眦古命とあり、大屋眦古命は伊太祁曽神と同じであり、製鉄に必要な木の神様でスサノオの娘だという。佐目の十二相神社の榾神様と同じ役目だ。石凝姥命はアマテラスの岩戸隠れの際に八咫鏡を鋳造した神様だ。

『古語拾遺』に、天目一箇命は岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造ったとあるそうです。

竹田神社の祭伸を見ると、ヤマト王権に条件付きで屈した氏族だというのがよくわかる。

「蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であった」とある。稲寸と稲置は同じ意味で、官職名、蒲生を管掌(つかさどる)した地という事だ。更に、10代崇神天皇の時に神社は創建されたという。ヤマト王朝創立時という事でよいのではないか。その前から謂れがあり、国ゆずりをした大国主の出雲大社のごとく、社を建てたとも考えられる。

つまり、愛知川より北、犬上郡にも同様の役職があり、稲寸より少し、大きな、或いは位が上の「県主」がついているという事は、それなりの力を持っていたという事になる。

『新撰姓氏録』は、平安時代初期の815年の5畿内の氏族で、近江は東山道のエリアになるので載っていないが、畿内に別宅があった近江の氏族が載っているのであろう。近江まで調べてくれていたら、佐目和気氏は載っていたのではなかろうかと。逆に、都に別邸が持てる位置にいなかったという事かな。

 三上山と製鉄

「犬上県主」は資料からあまり出て来ないので、引き続き、近辺から推測したい。

天神彦根命の子、天之御影命は野洲の三上山に降臨したとの事だ。
三上山ふもとの大岩山から24個の銅鐸が発見されている。銅鐸は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作られ、1世紀末ごろを境にして急に大型化し、3世紀になると突然作られなくなり姿を消す。

三上山周辺の遺跡は2世紀頃からで、守山 伊勢遺蹟は1世紀~2世紀頃、近江南部地域における政治・祭祀の中心地で『魏志倭人伝』に見える「クニ(國)」の1つではないかと言われている。 
三上山大岩山の銅鐸は、こちらに詳しく
・『ウィキペディア(Wikipedia)』の銅鐸はこちら

銅鐸は『古代の鉄と神々』真弓 常忠(著)による、伊邪那岐大神の時代の葦などの草の根に鉄の塊(褐鉄鉱・スズ鉄)による鉄鐸より、新しい技術だ。

明治32年に書かれた『御上神社沿革考 : 近江国野洲郡三上村鎮座』には、興味深い事が書いてあった。
・先に、蒲生稲寸菅田首の竹田神社(天神彦根命)があり、後に天目一箇命 を祀っていた( もっと前は土俗の神=磐座信仰) 御影山(三上山)に天神彦根命の子がやってきて山の名前から天之 御影 命となったとの事。

考察
菅田首は 山城 神別・天孫・(天目一箇命)之後也 『新撰姓氏録』
犬上県主も 神別 にあるが、犬上氏は 皇別 にある

天津彦根命の子 天之御影命は 天目一箇命を祀っていた所にやってきて、その地の名をとり、領地も頂いて・・・と考えるとスッキリする。
天之御影命は、天孫降臨の時に 1.天忍穂耳尊・・・皇室祖 の息子 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、つまり従兄弟にお供して降臨した32神の一柱である。だから残った。

『先代旧事本紀』「国造本紀」において、神武天皇功臣への行賞記事に天目一箇命を山代国造に任命したと記される。-Wikipedia 山背国造-
菅田首
『新撰姓氏録』山城(山背国造と山代国造、山城国造の三通りの表記)とあるのは、後に関係者が派遣されたのだ。そして、竹田(菅田)神社が地元に残った?山背国造では、天之御影命ではなく、頑なに天目一箇命と伝えている所が意地らしい。

この-Wikipedia 山背国造- の記事で、山城国造が神武朝の当初はある程度の広域の首長で県造・県主の名で始まった職であり、成務朝になって国造という名称に変化したものであったと見られるとある。この記事の系譜をみると、よくわかる。

「犬上県主」は、天津彦根命の子からつながるが 天之御影命のようにニニギの天孫降臨についていかなかったか、元々天津彦根命というのは、そこそこ協力関係にあった地域の事をさし、伊邪那岐大神の地である自負から、協力しなかったのかもしれない。

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「私は、どこに行ってしまうのだろう。神代の事をこんな真剣に考えているのがこわい(笑)」でも もうちょっとだ。がんばれ 私!。
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佐目の十二相神社の御祭伸「少彦名命」は、
『先代旧事本紀』で「天少彦根命」と言われており、天神彦根命のもう一人の息子ではないかいう説がある。確かに、が違うだけ。そうなると天之御影命(天目一箇命)の弟という事になる。「少彦名命」も実に多くの説があり、謎の多い神様だ。

その御上神社の神職家系の三上氏の家系には、天神彦根命の娘、つまり天目一箇命と少彦名の他に娘がいて、その比売許曽命(息長大姫刀自命)が天日矛命の妻と伝えている。天日矛命は、新羅の王子で渡来神である。

新しい製鉄技術を持った氏族とつながったいう事か。

息長氏
と言えば、米原。製鉄にゆかりがあり、後に、皇室にガンガン娘を送り出し、神功皇后や継体天皇と関りが深い氏族。どうつながるのだろう。
息長大姫刀自命は、古事記に息長氏が書き加えた説もあるがややこしそうなので保留。)

御上神社の由緒には、こうある。

画像3

つまり、天之御影命(天目一箇命)の叔母(息長○○)が、渡来神である天日矛命と結婚し、娘( 息長水依比売命) が 日子座王(彦座王)と結婚し、淡海国造につながる。安国造の「安」は「野洲」で、史実的にも この辺りを治めていた豪族である。むむむ、淡海国造は「犬上氏・建部氏」につながる。が、ちと、あやしい。これは、又。

この9代開化天皇( ※258年) の第三皇子 日子座王(彦座王)がすごい。
ヤマト王権のはじまりとされる10代崇神天皇(※266年)のであるが、母は和珥氏の遠祖である和邇日子押人命の娘である。和邇は、大津に地名が残る氏族で海人族の安曇氏だと思われる。
そして、天之御影命の娘だけでなく、後に出てくる秦荘蚊野之別の娘も妃のようだ。

つまり、天照大神の長男 1.(天忍穂耳尊/天之忍穂耳命)・・・皇室祖と、
三男 3.(天津彦根命/天津日子根命)の子孫がここで再びつながる事になる。

ここでも、この時に武力だけでなく、婚姻で近江のこの地域を手に入れたとわかる。

ついでだが、三上氏の家紋は天目一箇命  を表す □(四角一つ)、後◇に。庶流の佐々木氏が□(四角が4つ)で、後に佐々木氏が守護大名になった時に、◇◇( 菱形2つ)に変えさせられたとの事

野洲の三上山の御上神社が兄の天之御影命(天目一箇命)   を祀り、後発、つまり後から力を持った佐々木家氏神 沙沙貴神社が弟の少彦名命 を祀ったように、歴史から消えた「犬上県主」のエリアのどこかで、兄の天目一箇命を祀り、十二相神社少彦名命をという事はないのだろうか。

なんとなく 順番が見えてきた。

04-上代の近江 古典に見えた神々とその子孫

昭和3年 滋賀県刊 『滋賀県史 第一巻概説』

滋賀県史S3

古典の上で『古事記』に・・・と
1. 多賀の伊邪那岐命、日枝山(比叡山)大山咋命 とある。
近江で一番古い 伝承という事になる。

2. 次に、野洲郡御神祝、犬上郡犬上県主 が登場
天神地秖( 天の神と地の神) の子孫、地方に勢力を占めたもの多くと2氏の名があがる。御上祝(みかみのはふり)は、三上山を神霊の鎮まる山として崇めたと社伝に伝わっているそうだが、犬上県主同様、歴史から消えている(検索で出て来ない)、もしくは 素直に「三上氏」「犬上氏」と名を変えただけかもしれないが、思い込みは排除して 先にすすむ。

3. 次に、湖東から湖北は、物部氏一族が繁殖したとある
『滋賀県史 第二巻』に、
彥湯支命(物部氏祖)以来( ※145年2代綏靖天皇)、甲賀・野洲・栗東・神崎・伊香の各郡を所有 とある。

天照大神の長男 1.(天忍穂耳尊/天之忍穂耳命)・・・皇室祖からの 日子座王(彦座王)と結婚した娘の氏族とほぼ重なる。当時、犬上郡は、物部グループではなかったようだ。

4. 尾張氏先祖 倭得玉彦命 9代開化天皇(※251年)この国に入り、妻は田上の淡海國谷上刀婢。
淡海國谷上の谷上は田上。田上山は古代木材産出地として有名だか、製鉄跡もあり水晶、トパーズが採れた。尾張氏は、名の通り東海地域。東国に縁を持つ氏族でもある。三上山大岩山の銅鐸は、近畿型と東海型が混ざっているという他地域では見られない特徴があるそうだ。この近江と東海の関係が、ヤマト王権成立に結構関係するらしい。古墳も。

5. 11代垂仁天皇(※283年)の時に渡来神である 天日矛命が 山城(京都)から近江に入り若狭へとあり、坂田郡阿那郷(アナ・穴・鉄)、蒲生郡須恵(スエ・焼物)に地名が残っている
先にも書いたが、天日矛命は渡来人で天神彦根命の娘婿。滞在した後には、製鉄や焼物に関係する地名が残っている。が、その前から近江には渡来人はいたと書いてある。 

6. 9代開化天皇(※251年)あたりからと以下の名があがる。
 佐目和気殿との共通性がないかと、調べてみた。
 
愛知郡の蚊野別(ワケ)
  9代開化天皇の子・彦坐王の子の袁邪本王が祖
  軽野神社 彦坐王12代景行天皇の曾祖父 鉄に関わり
  
・栗東郡の治田連(ムラジ)
  9代開化天皇の皇子の四世の後に浅井郡に土地を賜る。
  その六世の後に治田の姓を賜り7世紀ごろ栗太郡治田郷に居住

・栗東郡 小槻山公
  11代垂仁天皇の皇子・落別王を祖

・高島郡の三尾公
  26代 継体天皇が生まれた場所。父 彦主人王の地 
  この継体天皇には、息長氏をはじめ近江の氏族が関わっている。

・蒲生郡の狭々城山君
  信長に敗れるまで、近江守護であった佐々木家、つまりは今の滋賀人らしさを作った大好きな佐々木六角高頼の祖先ではあるが、古代までいくと、よくわからない。敦実親王は59代宇多天皇の皇子で佐々木源氏の祖とあり
8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父であるともある。
と、探すと
「佐々木・鷦鷯についての雑考」に、詳しく推察されている。

ワケ(別・和気)という姓は11代垂仁天皇(※283年)から12代景行天皇あたり。
愛知郡(現在の愛荘町)の蚊野別(ワケ)が、佐目和気と近いのだろう。愛荘町歴史文化博物館に聞いてみたが、ほぼ資料はないそうだ。だが、蚊野はカナ(金)気が多い地域との事。そう大きくない地域に佐目和気氏同様、皇室の子孫が配置されていた事がわかっただけでも、大収穫。

吉村武彦氏によると
(1) 1世紀末から 2世紀初頭における、倭国としての統合
・2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落。
(2) 3世紀後半の近畿地方を中心とする定型的企画をもっ前方後円墳秩序の形成(プレ・ヤマト王権)
(3) 4世紀前半におけるヤマト王権の成立

05-『犬上県主』は、どこへ行った

1.犬上郡の隣、愛荘町から考えてみる

先に書いた 「蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であった」とあり、ヤマト王権が出来る前、元々この地域は、御神祝が王として治めていた1つのクニで、もう少し小さな上記地域を蒲生稲寸菅田首が治めており、天孫降臨で天之御影命がやってきて、野洲は大和政権の「直轄地」となる。後、皇室子孫の蚊野別が配置された。

蚊野別の名は、現在の愛荘町蚊野の地名からついた名で、犬上郡と接している地域である。数世紀後、依知秦公(えちはた)が力を持った地域である。

前回に書いたが、京都太秦に秦氏がやってきたのが21代雄略天皇(457年)の471年とわかっているそうだ。この後、ヤマト王権から中国への派遣は150年位、途絶える。技術が手に入ったという事か。
渡来したのは、秦氏だけではないが、4世紀半-5世紀  韓鍛冶の渡来による技術革新により倭鍛冶がすたれたのではないかと言われている。その後、技術をみこまれ、6世紀頃、愛知郡にやってきたと考えられる。

2. 犬上郡は、どうだったか

弥生時代、紀元前1世紀には、多賀の土田・久徳にある程度の集落ができていた。これらは、圃場整備などの機会に調査が行われてわかったもので、他にない訳ではない。多賀ではまだ水稲作が本格的にはじまっていないので、山間部の方が住みやすかったと思うが、近代 山間地域で土地改良が行われる機会がないので調査の機会もない。水稲作が行われいないという事は、集団としてのまとまりが不要だった為、争いもそうなかったかもしれない。

他地域では、弥生時代には防備の為の高地性集落がつくられている。
高地性集落は「平野や海など周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成された集落」とある。まさに、多賀大社のご神木がある杉坂山は、そういう場所で、天降臨以前に、伊邪那岐大神のモデルとなる方がこられて、クニをつくる仕事を終えられた後に、東国への備えとして、この地にお留まりになったというのも合点がいく。天孫 とは 天の孫と書く。ふむふむ。

『多賀神社史』P9に「早苗の蒼然としていたのを見そなわして宮居を定め給うたたが・・・仍つて(それゆえ) 本社を田中明神という。(多賀大社儀軌)」とある。(びっくり、現在の彦根神社と関係があるのかな。これは後に)

そして、侵略ではなく、共存という形で、鉄を探し農具や祭祀の倭鍛冶による鉄製品をつくり、狭い範囲ではあるが、川をつくり、多賀の社の周辺に水稲作を始められたのではなかろうか。

犬上郡は、蒲生稲置の地の愛知川より、びわ湖側は荒神山から彦根松原、山側は多賀町という事になる。それより北はわからないが、とりあえず『犬上県主』が王として治めていたのだろう。

アマテラスとスサノオの誓いにより生まれた
1. 天忍穂耳尊・・・皇室祖

2. 天穂日命・・・出雲氏等祖
3. 天津彦根命・・・犬上縣主等祖
4. 活津彦根命・・・彦根山(金亀山)に降臨
5. 熊野櫲樟日命・・・出雲、紀伊熊野

の3男と4男が、この地域に関係する。三上山は、3男の天津彦根命の子の一人天之御影命が降臨した地。ひと世代、下という事になる。多賀には、いわゆる天之御影命の曽祖父にあたる伊邪那岐大神が既に、降臨されているので 天のの降臨はない。物語としては、こうなる。
(反町天皇(※422年)三年に、天皇家から降臨地だとお墨付きが出ていた。その年、氏姓制度改革により臣連制が作り出される故かもしれない。)

2. 天穂日命は、出雲に国譲りを勧めに行ったが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。つまり役に立たなかったとある。これは、ヤマト王権側の言い分だが、弟たちを見ていると、ヤマト王権のいう事を聞かなかった人たちという共通点があるのかもしれない。

地理的にいうと、多賀の杉坂に伊邪那岐大神が鎮座され、荒神山に天照大神 の子にあたる 2.天津彦根命、彦根山(金亀山) 3.活津彦根命 つまり伊邪那岐大神の孫が、後に降臨されたと考えると、杉坂からは、どちらの山もびわ湖の行き来も見える絶好の場所に思える。

実際に、ヤマト王権が始まる前、ヤマト近辺以外の地域には、ヤマト王権の象徴ともいえる「前方後墳」ではなく、それ以前の同じ形状をした「前方後墳」が多くあり、近江でも数多く、東海地域の影響(尾張氏)があるようだ。(消えた出雲と継体天皇の謎 関/裕二)
 
九州から大和に進出してきて、力と新しい技術を持った部族がいれば、そりゃ、それぞれに王国を持っていた部族たちが抵抗しようとタックも組んだというのも、当たり前に思える。日本最古の前後方墳は、東近江市の神郷亀塚古墳。3世紀前半(220年頃)らしい。

11代垂仁天皇(※283年) 3月 新羅王子で新しい技術を持った天日矛命 がやってきて、天神彦根命の娘と結婚する。

その後、11代垂仁天皇(※283年) から13代成務天皇(※323年)までの、40年間の間に、皇室出身の佐目和気氏がヤマト王権からやってくる。

とは言うものの、荒神山古墳は「前方後墳」である。
彦根市文化財調査報告書第2集 荒神山古墳PDF

つまり、4世紀に入つて近江に進出するようになった大和政権は、近江の在地勢力と連合し制圧しながら、さらに日本海地域や東海地方へと版図を拡大するため、その進入ルートを確保する必要があった。そのため陸路と水路の両面にわたって交通の要衝を押さえ、その地の在地勢力に前方後円墳という新たな墓制を供与したという事らしい。築造時期は古墳時代前期末(4世紀末)。「前方後墳」もないとは限らないらしいが、未発掘。

犬上氏の祖先であり、ヤマトタケルの長男 稲依別王の弟 14代仲哀天皇は(※338年~)、9年の 在位期間で亡くなり、妃の一人である神功皇后が摂政をはじめた時に、犬上氏の祖の倉見別が『日本書紀』に神功皇后の敵側として登場する。

佐目和気氏は既に佐目におり、倉見別は、まだ「犬上」と名乗っていない

日本書紀に出てくる倉見別の話は、仲哀天皇の別の妃の先に生まれた二人の王子の側についたが神功皇后に負け、神功皇后の子が後に15代応神天皇(※357年)となる。立場はよろしくない。その後、犬上を任され、大きな古墳を作ってもらえるまでになったかのか、ちょっと確信が持てない。その後、614年犬上 御田鍬が遣唐使に行くまで、表に名前が上がってこない。 

とはいうものの、これは『日本書紀』の話である。神功皇后の父は、犬上郡のお隣 米原市の息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)であり、その後、日本書紀編纂(720年)にもかかわった氏族であるらしい。とかく、お隣さんとは仲がよい場合が少ない(笑) 不都合な事は歴史に残さないのが常である。

米原歴史観光サイトに 

これをきっかけに、一地方豪族にすぎなかった息長氏が、やがて中央の政権に進出する大きな布石となりました。継体天皇誕生、敏達(びだつ)天皇と息長広姫(ひろひめ)の婚姻、壬申の乱の活躍、勝利した天武天皇のもとで、天皇制の基盤を固めた皇親政治の一翼を担いながら、あわせて国史編さんに携わったことは、息長氏の名を正史の中につよくとどめておくことになったのでした。

とある。
という事は、息長宿禰王と、初代佐目和気氏は、同じ年代を生きている事になる。そして、息長氏は、滋賀県米原市・日撫神社に少毘古名命(少彦名)・応神天皇と共に祀られているそうだ。やっぱり!!  鉄氏族と少彦名命は関係がある。

あっ、同じ本をブログの作者も読まれているのね(笑)

『犬上県主』は、いつ、どこに行ったか。
ふーむ。
実は、調べている間に気になってきたのが「犬上氏」と「建部氏」が他にない「犬上建部氏」として、セットで名前が出てくる事だった。
「犬上氏」も「建部氏」も ヤマトタケルの長男 稲依別王を祖とする。

社家の姓氏-建部氏によると
系図によれば、建部氏は祭神である日本武尊の子孫を称し、派遣随使・派遣唐使を務めた犬上君御田鍬の弟建部君を賜った息知を祖とすると伝える。息知より四代の孫にあたる益人が初めて建部神社を勧請したという。息知はまた、建部朝臣姓も賜っている。子孫は神崎郡に住し、祖神を祀る建部大社に奉仕した。
とあり、以下の系図が掲載されている。(画像からリンク)

画像4

犬上君御田鍬の弟! だったのか。しかも、ずっと「犬上」はついていない
これで、倉見別の後に「犬上氏」が出て来ないのだ。
Wikipediaの「建部氏」のところには、
古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団 とある。
犬上縣主が活躍した頃は「犬上氏」の祖は、そういう立場にあったという事になる。

実際、同一氏族かはわからないが、茨城国造の関係氏族に「建部氏」があり、その祖先は、応神朝(※357年)、つまりは倉見別が逆らった神功皇后の息子の時代に、天津彦根命の10世孫の建許呂命の子・筑波使主命が茨城国造に任じられたとある。東国を支配しに行った氏族であり、やはり、少し左遷的人事(笑)に思えるし、同じ「建」という字があるのも、無関係とはいえないように思う。上記の系図とは違うが、どこかで分かれ、どこかで、つながったのだろう。日本武尊の子孫とした方が箔が付く。が、この系図は「建部神社」の系図なので、犬上縣主と犬上氏が、つながっていないとは断言はできない。

ややこしいので、その時代あたりの年表を以下に。

年表佐目3

佐々木氏の祖とも言われる 蒲生郡の狭々城山君(ささきやまぎみ)も「佐々木・鷦鷯についての雑考」

「山君」とは、太田亮博士がいうように「山部を率ゐし君姓の氏を云ふ」であり(佐伯有清氏も同旨で、「山は山部・山守部の伴造氏族であったことに由来する」*5)、これを併せ考えると、佐々貴山君(狭々城山君)とは、その実体は「雀部+山君」であり(従って、その後裔が「山君」を除いて、単に「佐々貴」あるいは「佐々木」と名乗ったのも肯ける*6)、仁徳の御名代雀部の山関係の管掌氏族であったということである。
  だからこそ、平野部の農業生産力や鉄資源が豊かであった蒲生郡を本拠にして財力を貯え、篠笥郷域に近江最大の古墳である瓢箪山古墳(全長162Mの前方後円墳)も築造できたものと推される*7。同墳は沙沙貴神社の東北方の宮津の地、繖山(きぬがさやま)や佐々木氏本宗六角氏の観音寺城の西南麓に位置し、四世紀後半ないし末葉頃の築造とみられている

どちらにしても、古代の下克上で犬上氏も佐々木氏も、力をつけて行ったのは間違いなさそうだが、4世紀末と推定される荒神山古墳が「犬上氏」のものであったとしたら、それ以前に「犬上県主」は滅ぼされた事になり、奪い取った地域の名をとり「犬上」と名乗った事になる。

もしくは、「犬上県主」の家系と、倉見別以外の稲依別王の子孫が婚姻等により吸収合併されていたならば、後にその名を継ぎ「犬上県主=犬上御田鍬」として、復活させた事になる。

04-で「野洲郡御神祝(みかみのはふり)、犬上郡犬上県主」とセットで出てくる御神(三上)祝は、 古代史&フォーラムのブログに

神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の姫、三代が引き続いて物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。

とある。やっぱり。

06-天神彦根命の関係者は、神主にされた?

祟り(たたり)というのは、日本人の根底にある行動規範に少なからず、おおいに影響を与えてきたように思う。昔は、今よりずっと信じられており、神社は、そういう存在に多いに関係していた。

で、ここからは、恐れ多い妄想なのだが、御神神社の神主が「御神祝」、菅田神社(竹田神社)が「菅田首」と考えると、ほんと最初に戻って、「犬上縣主」が多賀大社と考えると、ピースが埋まる。ほへぇ。

いや、そんな事は01の時から、自身で書いている。が、ヤマト王権は、「政治や軍力」と 初期ヤマト王朝もしくは、地域の豪族(王)  を「神様」に仕える者として分離したのだ。

元々 「犬上縣主」 系の氏族が、多賀大社大神主をつとめていた。

そして、政治や軍事は、ヤマトタケルの長男 稲依別王を祖とする氏族がいつからかはわからないが「犬上君」と名乗り、正式に684年 犬上朝臣を賜姓(『日本書紀』)。もちろん、614年 遣唐使に遣わされる位なので、大活躍の賜物である。

こういう事なのではないかと。(個人の推測です)

07- 大瀧神社の同じ伝承なのに人物が変わる意味

佐目の事を調べているのに、ずいぶん 遠回りをしてしまったが、歴史の順番としては、犬上県主(地元豪族) → 佐目和気殿(皇室関係者) → 犬上氏(御田鍬) という事になると思われる。

そこで、やはり気になるのが「多賀参詣曼荼羅」にあるこの絵の部分。

画像6

「犬胴松」の伝説には、大筋で、2つの物語が存在する。

1つ目 大瀧神社の伝説が
・主人公が「稲依別王」と「小石丸」という名の犬。
2つ目が 上の絵の『多賀参詣曼荼羅』に描いてある
・「名高き野武士二人」と「名犬鹿と小白丸の二匹」
の物語。

犬の名前も違う。

多賀観光協会のHPには、1つ目として以下の説明がある。

・犬胴松の伝説(いぬどうまつのでんせつ)大瀧神社周辺
その昔、犬上神社の祭神、稲依別王が狩に出て昼寝をしていたおりに、大蛇に頭上から狙われたが連れていた犬が主人を守ろうと吠えた声で目を覚ました。そのやかましさに思わず太刀で犬の首をはねたという。その首は大蛇(おろち)の頭に噛みつき、そのまま一緒に川に落ち、大蛇は死んだ。王は命を守ってくれた忠犬の首をはねたことを悔やみ、この地に弔いの松の木を植えた。それが犬胴松の伝説として残っている。

もう少し、詳しいのはこちらに。日本伝承大鑑

2つ目の『多賀参詣曼荼羅』は、多賀大社坊人が全国に多賀信仰を広める為の大型ポスターで、室町期より使用されている。旅行パンフレットも兼ねており、如何に多賀大社やその周辺が素晴らしいかという事を「絵解き」をしながら、説明する為のものだ。今でいう広告代理店と思ってもらえればいいと思う。

武士の時代である。絵の下の舟に乗っているのは、源頼朝。源頼朝が、お供をつれて淡海公(藤原不比等)の足跡を訪ね歩いて、多賀大社をはじめ、各地に寄ったという話の中に、この大瀧神社の話が出てくる。

内容は『淡海落穂集』に載ってるが、ネットでは探せず、国会図書館にあるそうだ。同名の書籍も存在するが『多賀大社叢書 典籍編』にその部分が掲載されている。この文の最後に「この記は、内山多左衛門寫し被レ置きし留記なり」とあり、豊前小倉藩慶應2年(1866)の知行帳に同名の甲州流兵学師範御役人免として名があったので、この方であったとしたなら、江戸末期に地元で直接聞いた事を書かれたのかもしれない。

つまり、『多賀参詣曼荼羅』の方が古く、多賀坊人の盛った話の可能性もあり(笑)やたらとリアルな名前が出てきて、かえって創作した感が否めない。面白いので、いつか紹介したいが、源頼朝一行が訪れた時に、村の「寺僧、郷土がこの縁記一々申上し也。そのよし記す」と、長い話が続く。

一般的には、大蛇や龍が出てくるのは、洪水を表し、それを退治するという話は、水害を抑えたという事になるらしい。それは、それでよいが、やはりどちらの伝承も「説教臭い正しさ」ではなく、首をかしげたくなる奇妙な伝承であり、古代の歴史を追ってくると、実際に起こった事をオブラートに包み、伝えようとしたのではないかと思えて仕方がない。

つまり、稲依別王(犬上祖)が、犬=製鉄に関わりのあった「犬上県主」、もしくは「佐目和気殿」などの古い倭鍛冶グループをやっつけてしまって、祟りがないようここに祀ったとする方が、すんなり納得できる。

で、多賀大社の大神主一族の「犬上氏」が、天神彦根命系の「犬上県主」か、稲依別王系の「犬上氏」かはわからないが、多賀大社を広報する多賀坊人としては、そんなややこしい布教的にデメリットな伝承を「主人公」をただの暴れん坊の「名高き野武士二人」に変えたのではと、妄想。伝承自体の物語は面白く、源頼朝は広報的には外せないので、私が多賀坊人でも そうする(笑)

01-で「今でも続く犬上氏」に書いたが、室町期に菅原道真の子孫の西城坊家が、由緒ある犬上氏が絶えているのを知り、継いでいる。いつかはちゃんと調べたいが、現代まで続いている犬上氏は菅原氏の子孫という事になる。
多賀坊人が、稲依別王 の名を出さない理由の一つかもしれない。

『多賀参詣曼荼羅』は大蛇の絵。大蛇からピョロンと出ている赤いものが気になる。これって火ですよね。

おろちDSC_1844

だが、『淡海落穂集』には
「水底 白黒の大鼎(おおかなえ)のごとく成もの出て、二人の足に糸をまついて」とある。は以下 (Wikipedia)

画像8

白黒の大のようなバケモノ・・・大蛇とはずいぶん違う。
の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)という諺があり
「上位の者の権威を疑って、地位を奪おうとすること」という意味なのだそうだ。ふむ。何を表しているのだろ。白黒の意味。つながるか。

元の伝承は、大蛇なのか大鼎なのか、今は わからない。

DADAジャーナルに、『淡海落穂集』を現代語訳して簡素にわかりやすく書いて頂いている。
「淡海の妖怪 カワコモチ」
私は、水からでなく、鉄から色々追いかけてみよう(笑)

08- その他 色々

1. 天神彦根命ゆかりの神社に、鈴鹿山脈の向こう側 三重県桑名市に
多度神社 がある。竹田神社から「稲60穂を伊勢の多度神社に送るならわし」があるという。天神彦根命天目一箇命 御祭伸

2. 天目一箇神は『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場する。

伊邪那岐大神と関係するならば、多賀・多度・多可 は偶然だろうか。
天神彦根命が、伊邪那岐大神の製鉄部門を引き継いだと考えられないだろうか。
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まだ、神様の話・・・。1ヶ月前なら、こんな話してる人は、ちょっと変な人って思ってた。そもそも、神様の名前は目から頭に入らないし、読んでも苦痛だろうなとは思う。自分も辛い(笑)

3.以前の年表は、古墳時代の途中までだったので、色々プラスした年表を再び。

年表佐目02


4. 彦根の由来
ついでと言っては申し訳ないが、現在、彦根の惣社となっいてる「彦根神社」は、昔、大洪水の時に多賀久徳から流れ着いたご神体を祀り、「田苗大明神」「田中神社」としたとある。『多賀町史下巻』P677に「久徳城落城(1560年)後、洪水で流され、芹川川下の後三条で拾われ「田中神社」として祀られている」とあり、祭神不詳 「田無神社」とある。
彦根藩第7代当主の時に、彦根の名に因んだ神社がないとして、安土下豊浦のから分霊したとある。

滋賀県文化財保護協会によると
安土の活津彦根神社は、「注目すべき逸話としては、彦根市の「彦根」の語源である、という説があります。大坂夏の陣で、井伊直孝は活津彦根命の御加護により大功をあげ、三十五万石で近江に封ぜられました。この時に直孝は船に乗って当社(安土の活津彦根神社)を参拝し、自らの城を彦根城と名づけ、永く彦根の御名を給わるべしと神前に誓ったとされます。さらに活津彦根神社の御分霊を奉斎し、現在の彦根市後三条に彦根神社を奉祀し城の守護神としました。この経緯によって、「彦根」の地名が起こったとする説があるのです。」

情報が錯綜している気がするが、今は「佐目!」

と、いう事で 次は「永源寺の佐目」の資料に移りたい。
暫く、先になりそうだけど。

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