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他人の幸が蜜の味すぎて急性胃炎になった話

幸も不幸も相対的なものなので、もうどんな幸せそうな人を見ても嫉妬なんかしないと思っていた。
それよりは自分の幸せだけ見て、楽に穏やかに生きていける、生きていこうと思っていた。けど。

自分の主観でめちゃくちゃにほしいもの、むしろ主観では想像もできなかった、(夢見ていいとすら思わなかった)自分にとって素晴らしく幸せなものを、いとも簡単にかっさらっていく人はいる。彼らと私で何が違うのか羅列することはできるが、本音を言うと何が違うのかわからない。
ひどい言い方をするけど、「幸せでいることを許されて育った人はそれを周囲にアピールしてさらに幸せになれるし、幸せでいることを許されないで育った人は自らの幸せの成り方がわからなくなって、幸せでいることにもどぎまぎして、ついに本当に幸せだと思えなくなってしまうんだな」などと思ってしまった。

いや、身近な人が、私の世界で一番敬愛する人に、本当だったら会話もできないはずの人に、プライベートの出来事を直接祝われていて、めちゃくちゃに嫉妬しているだけです。私もつい最近プライベートに同じような祝い事があったのに。ただそれをうまく祝えなかったんだ。
家族からも何もなかったし、個人的にも特に何もしなかったし。何かお祝いしてもらいはしたけど、申し訳ない気持ちばかりで現実感がなかった。でも一般的なものより少なかったと思う。私の重大イベントはひっそりだったから。相手にも申し訳ないことをしたと思う、それはもう一般世間のイメージとそこそこずれがあると思うほどひっそりだった。正直こんなもんかと思った。でもそれは私の選んできたことだから仕方ないし、それでよかった。
でもあんなものを魅せられては!
なんだかんだ私も彼女みたいに堂々と幸せになりたかったようだ。どぎまぎせず築一周囲に共有してみても良かったはずで。でもなんだか許されない気がしていてそういう発想もなく、自ら恐縮してしまった。でも彼女は私がどぎまぎする幸せの1つ1つになんの抵抗もない。自分が幸せになって当然だと思っている。素晴らしい。私にはその「自分は幸せになって当然だ」という感覚がないだけで、本来生き物はそうあるべきだ。彼女は何も悪くない、私が彼女とは違っただけで。
その感覚がある人生、奪われてない人生だったら大好きな人に人生のイベントを直接祝われるような出来事もあったのかなって。
めちゃくちゃに面食らってしまった。

私が今後自分の事をどう幸せにしようともこの出来事は脳裏をよぎってしまいそうで。ああ、「よかったねえ」って言えたらなあ。だって皆も欲しいでしょ、たかが1億円やダイヤの指輪なんかじゃないんだぞ。「主観では想像もし得なかったけど、そんなものがあっていいなら何をしても手に入れたい個人的なのに公な素晴らしいもの」だぞ。

しんどいな〜。でもまあ、自分も誰かのそういうの持ってるんだろうし、言ってても仕方ないんだよなあ。それにしてもむかつくなあ。

「人の幸せを僻んでいる暇があったら幸せになりなさい」ってのはこういうときに言われるんだろう。私もそうしたい。奪われた感覚は自分で取り戻さないといけない。
幸せになろう…でもどうやって?
頑張って探していこう、頑張るものではないはずだけど、こんなに悔しくて悲しくなるくらいなら、幸せになったほうがいいはずなんだ。

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