【空展】がらんどうの眼でも▽空時郎【旅人さんシリーズvol.3】

 寒いなぁ。
 ――お前は寒いだろうな。生憎お前に掛けてやる毛布を私は持っていない。
 ハァーッ! 畜生! ここに女房がいたら強く俺を抱き締めて暖めてくれるんだろうなァ!
 ――お前に女房はいないはずだが?
 いねえよ、いねえけどよ。俺は貧乏な家に生まれてクソ親父の言うなりに盗みを働いていたが、本当はそんなことしたくなかったんだ。
 金品を貰いに入った家に住んでる奴らみてえに、美人で優しい女房とちっこくて可愛い子どもに囲まれて、あたたけえ家庭を築くのが俺の夢だったんだ。俺はそんな家庭ってのと真反対の生活だったからな。
 ――そうだな。お前の人生は、まあ・・・・・・踏んだり蹴ったりといった言葉がお似合いだな。
だからよぉ! 俺が、ちょっとくらいそんな夢を見ても良いだろうが! ッ! いててててッ!
 ――もうそろそろなんじゃないか。
 うるせえ。はは。このヌメヌメしたやつは血か。あったけえや。皮肉なもんだな。ハァー・・・・・・。もう、座っておくのも辛くなってきた・・・・・・。ちょっと横になるぜ。
 ――好きにしろ。ここには誰もいない。
 お前がいるから断りを入れたんだろうが。礼儀だよ礼儀。ハァ、ハァ。あ、俺の血のお陰で地面があったけえぜ。はははは。
 ――・・・・・・。
 おい。俺はな、天国も地獄も信じてねえからよ、どこに行くとかじゃなくて、俺自身がこの世からただ消えるって、そう思ってんだ。ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・。
 ――ほう。なかなか賢い考えじゃないか。
 けどよ、もしよ。天国と地獄があったらよ、俺の死んだ母ちゃんは天国いるはずなんだ。俺は悪いことばっかりしてきたから、地獄に堕ちるだろうけどよ、神様がいたらよ、一瞬だけでいいから会わせてくんねえかな。ハァ・・・・・・ヒュッ・・・・・・ヒュー・・・・・・。
 ――まあ、交渉はしてみよう。
 は、はは。なんだそれ・・・・・・。でもよろしく頼むぜ。・・・・・・ヒュッ・・・・・・・ヒュッ・・・・・・。

 事切れる直前の独特な呼吸に変わった。もう男は何も見えていないだろう。
私は舟をつくる準備に取り掛かった。男がすぐ乗れるように。私の気まぐれだが、来世でまた母親と巡り会えるよう舟に細工をしてみる。男の想いが強い方に船首が向く仕組みだ。男の強い想いが母親にしっかり向いているなら、それが、親子の関係か、また違う関係であれ、いつかまた会える。
すぅと、力無く男の手が上へと伸びる。まるで、天国へ引っ張ってくれとでも言うように。
「母ちゃん、待っててな」


「ちょっと勘弁して下さいよ! 今日は嵐の日だから僕しかいないのに~!」
 バタバタと氷水の入った桶と大量のタオルを抱えながら、僕は叫んだ。
「すまないね、晴の君。ワタシもどうしてこうなったのか。いやあテンションが上がってしまいますね」
「熱が上がるから、テンション下げて!」
 
 主人の一人が発熱した。

 主人は発熱したことは愚か、体調不良になったことがない。雨に打たれようと、雪に降られ震えようと、ピンピンしている。
 そんな主人が発熱し、一旦アトリエに帰ってきたのだ。初めての発熱といえど、このまま旅を続けられないのは本能的に気付いたのだろう。
「霧の君も今日は出ているのですか?」
「ええ。飾の主からの依頼で、霧の町の喫茶店に出てます。ちょっとベッドに横になって下さい!」
 僕の持つタオルを取ろうと起き上がった主人を、肩で無理矢理ベッドに押し込んだ。華奢な主人はころりんと簡単にベッドに横になり、表情を変えずに、糸の主が作ったカラフルなキルトケットをおとなしく被った。
「“飾の“が霧の君のことを手紙に書いていました。色恋事が香りそうなものが好きですからね」
「え? フォグさんが色恋?!」
 ずるりと手から氷水に濡らしたタオルが桶へ滑り落ちた。跳ねた水が主人に掛かり、同時に主人は盛大にくしゃみをする。
「すすすすみません!」
「いや、こちらこそ。霧の君は仕事だからあまり心配しなくていいと思いますよ」
「そ、そうっすよね! ははは・・・・・・」
 僕は濡れてしまった主人の顔を乾いているタオルで拭きながら、苦笑いをすることしか出来なかった。フォグさんは、僕らよりも限定的な場所や時間でしか配達に行かないから、アトリエにいることが多いのに、いざ配達となったときに女性とイチャイチャしているなんて(イチャイチャしているかどうかはまだ分からないけど!)。
 パチパチと暖炉で薪が燃える音と、雨粒が勢いよく窓を叩きつける音が響く。フォグさんに対する羨ましさも、時間が経つに連れ薄れていき、ひとつのことが気になって僕は主人に顔を向けた。
「あのぅ」
「ん・・・・・・、どうしました?」
「いや、あの、聞いて分かるもんじゃないと思うんですけど・・・・・・」
「遠慮しないで聞いて下さい」
「それじゃあ・・・・・・、枝の主はどうして発熱したか身に覚えがありますか? 今までこんなことってないから・・・・・・」
「そうですねえ」
 主人は深く息を吐いた。偏光ゴーグルの所為で見えはしないが、記憶を遡りもう答えが出ているだろうことを読み取れた。しかし、これを言おうか言わまいか悩んでいることにも気付いた。
「い、言いたくないことなら別に大丈夫です! 僕の好奇心だったので! 主人が元気になることが一番っすから!」
 氷がすっかりなくなった桶を掴み、部屋を出ようと立ち上がると、ぎゅっとシャツの裾を掴まれた。無言で座るように促しているのが分かったので、僕は黙って腰を下ろした。
 少し間を置いて、主人の口が開いた。
「死神様に会いました」


 配達員の君たちもご存知の通り、ワタシたちは特殊でね、死後の者が見えます。
死後の者、つまり幽霊に遭遇する機会は、見えてしまう分多くなるのが道理。
 穏やかな幽霊もいますが、そんな穏やかな者さえ自責の念や強い執着心により怪異となる場合もあります。“糸の”がビロードの外套を与えた男こそ、出会ってなかったら今頃、男は妻や子どもを呪い殺していたかもしれません。そうならなくて本当に良かった。
 旅の道中、町に入ることもありますが、大体はそこに行くまでの何もない誰もいない自然を歩く時間の方が長い。そうすると、遭遇率は人間が30%、道半ばで事切れてしまった幽霊や怪異の類いが70%と言っても過言ではありません。幽霊や怪異は弱かれ強かれその場所に影響を与えてしまうので、元よりヒトが寄りつかないのです。
 そして、本題の死神様に出会ってしまったのは、次の町へ行くまでの砂浜を歩いているときでした。
 波打ち際に、女性が打ち上げられていたんです。女性はピクリとも動きませんでしたが、生きていることは分かりました。ワタシは急いで彼女に駈け寄りました。
 波が来ないところまで彼女を運んで、肩を叩きながら大声で呼びかけました。何も遮るものがない海辺で、太陽が照りつけているのに、彼女は恐ろしく冷たく、ワタシは震え上がってしまいました。
 死後の者に遭うことはあっても、生死を彷徨う者に出会うのは初めてでした。
 人命救助の方法は知っておりましたので、すぐに荷物を下ろして帽子を取り、心肺蘇生を試みました。胸骨圧迫をし、気道確保のため顎を上げ息を吹き込みます。それを何回も何回も繰り返しました。
 夢中でした。助けなければと。
 ――おい、やめておけ。
 後ろから声が聞こえました。
 気付くと、高く上っていた太陽は地平線の先にいました。橙色と紫と藍色の絵の具を、水に溶かしたような空が印象に残っています。
 冷え込む外気と非対称にワタシの身体から蒸気が上がっていました。
 目の前にいる彼女は以前冷たく、眠っていました。
 ――そこの女なら、舟に乗ったぞ。
 息を整えようにも、なかなか上手くいきませんでしたが、その声はしっかりとワタシの頭に響きました。そして、助けられなかった、という事実がワタシの胸を重くしました。
「いつ、彼女は、旅立ちましたか・・・・・・?」
 返事が返ってきませんでした。ワタシは苦しくなって声の主の方を振り返りました。
「あ・・・・・・」
 急激に、体温が下がるような心地でした。実際に下がったのかもしれません。
 昔の絵本の挿絵で見るような、漆黒のローブを身にまとい、大鎌を携えた骸骨がそこにいました。
 ――驚いた。死を目前に控えた者だけが私の姿を捉えることが出来るが、お前が見ている私は、人の皮を被っていない方だな。お前は、真理を見抜く才があるようだ。可哀想に。
 ワタシは、死神にしっかりとへそを向けて、深々と頭を下げます。
「お初にお目に掛かります。彼女の旅立ちの手続き、誠にありがとうございます」
 ――死神とはいえ、神様か。浮浪者のくせに、礼節を重んじる奴だな。面を上げろ。

 彼女を埋葬して、隣でぼんやりと夕焼けを眺めます。その隣に死神様も佇んでいました。
「綺麗ですね」
 ――なんのことだ。
「沈む太陽のことですよ。沈むに連れて、空の色が徐々に変わっていくのが素敵だと思いませんか」
 ――私のがらんどうな眼では、何も見えない。見えるのは魂だけだ。
「・・・・・・すみません」
 ――謝ることはないだろう。私の仕事に差し支えることはない。
 死神はそう言いましたが、どこか寂しさを感じられました。死神の顔をちらりと覗きます。がらんどうな眼と言った、眼孔には闇が広がるばかりでした。
 ――お前の魂は、実に興味深いな。
「魂にどうかなんてあるのですか?」
 ――お前のようにごく稀に、この世ではない者が見える奴らがいる。そいつらの魂も特殊だが、お前のはそれだけじゃない。一つの魂だったものが三つに分裂し、分裂したものがお前の中にある。もう二つも、それぞれの肉体に宿っているのだろう。こんなことは滅多にない。それこそ、神の悪戯とでも言えるか。何せ、私の“皮なし”の姿が見えるのだから、その時点で特殊も特殊だ。
 そう言われてもピンと来ません。
「ワタシたちは変わっていますか」
 ――ああ、変わっているとも。こちらに限りなく近いのにしっかり人間だ。魂があるのがその証拠だ。
「ソウデスカ」
 神様の仰ることは難しいことばかりのようです。
 そう話しているうちに、とっぷり日が暮れてしまい、ワタシはランタンに火を灯しました。
「それでは、ワタシはテントを張れる場所までもう少し歩きます。死神様は如何されますか?」
 ――死神に予定を訊くのか。面白い奴だな。
「ああ、これは失敬。癖でして」
 ――そうだな。別れる前にひとつ訊きたいことがある。
「ワタシに答えられることがあれば何なりと」
 ――それじゃあ、

 空とはなんだ。

 

 小さき浮浪者は、顎に手を当て考え込む。私の眼ががらんどうでなければ、上にあるものだ、と指を差せば済んだものだろうに。がらんどうな眼は、魂を持つ者の姿を捉えることは出来てもそれ以外のものは漆黒に消える。
 小さき浮浪者は蘇生のために気付かなかったのだろうが、自ら身を投げたあの女も、小さく上へ手を伸ばしたのだ。空に。
 これが意外と多いのだ。それも、独りで人生を終える者に散見する。
 先日、潰れた町の一角で腹を刺されて息絶えた男もそうだった。
 あのとき、感じたように、あれは天国を求める姿なのかもしれないが、誰しもが死の間際に天国を想うわけではない。今まで幾千、幾万と見てきたから分かる。そもそも、天国は空にない。あったら、今の航空技術であればすっかり人間どもに見つかっているはずだ。
 何故、空に手を伸ばす? 空に何があるのだ。
「分かりません」
 小さき浮浪者が頬を掻きながらそう言った。私が落胆したのが分かったのだろう。小さき浮浪者は更に小さく身を縮こまらせた。
「しかしワタシは、自由だと考えます。空はずっと繋がり、無限に広がります。それと、ワタシたちは、空に心を投影することもあります」
 ――心を投影する?
「さっき、話した夕焼けのように、空は様々な色があります。決して一つではないのです。朝の爽やかな水色だったり、曇り日のどんよりした灰色だったり。真夏の濃い青色や黄昏時の灼熱の赤から徐々に藍色の変わるグラデーション。その一日で様変わりする空を、人は己の心のようだ、と思うのです」
 ――ふーん。さて、自由と心の投影の繋がりが分からないな。
「空は遠い存在ですが、その色らは、ワタシたちの心そのものなのです。遠いようで、近しい存在とでも言いましょうか。そう考えるのは、ワタシたち誰もが空の下に生まれたからかもしれません」
 はて。人間も難しいことを考えるものだ。ただの自然現象をそうも詩的に置き換えるか。だが、
 ――お前の話を聞いていると、遠い懐かしき過去が蘇るようだ。
 私は褒美に想い人と引き合わすことが出来る磁石を小さき浮浪者に渡した。一人や二人、会いたいと願う者がいるならば、その助けになれば本望だ。
 小さき浮浪者はニンッと笑ってお辞儀をし、闇夜に消えていった。


「えっと、普通に死神と会話出来ている時点で、凄いんですけど・・・・・・」
「君もワタシたちと似たようなものだから、お目に掛かれる日が来るかもしれませんよ」
 死神と出会ってしまうことを想像し、青くなる。それは、僕が死ぬときの一回きりでいい。
「発熱したのは、死神様と長い時間を共にしてしまった所為かもしれません。あんなことは滅多にないでしょうから、良い体験となりました」
 主人は何でも前向きだ。体調を崩せど、いつもと変わらぬ姿にホッとする。
「お水を持ってきますね。他にいるものありますか?」
「では、ワタシのバックパックから便箋とペンを持ってきて下さい。“飾の“と“糸の“に手紙を書きます。万が一死神様に会ったら、また看病をしてもらう羽目になりますから」
 全回復するまでは、寝ていてもらいたいんだけどな。そんなことを思えど、やると言ったらやる人なので、僕は何も言わずに、主人の部屋から出た。


 山の中湖の畔。
 誰も知らない旅人のアトリエがあるという。
 どこにあるのか、どう行けばいいのか。それは誰も知らない。
 三人の旅人とそれに仕える五人の配達員以外は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?