【ash特別書き下ろし】秘密基地のふたり【旅人さんシリーズ番外編】

 ――これは、すべての迷える人に送る旅立ちのエールである。


僕にはどでかい夢がある。それはもう小さい頃から温めている夢だ。夢の内容はまだ誰にも言っていない。

僕の夢は、まだ誰も成し遂げていないことをすることなので、誰かに喋って先にやられたら、計画が水の泡になるからだ。

兎に角、言えることは、僕にはどでかい夢があるということだ。

***

「俺、海外に行くんだ」

いつもの、海辺。
いつもの、炭酸ジュース。
いつもとは違う、友人と僕。

友人がポツリと呟いたはずの言葉は、僕の頭に大音量でこだまし、波打つ音も、海鳥の鳴き声も、何も聞こえなくなった。

我に返っても呆けたままの僕を構うことなく、友人は話を続ける。

誰にも注目されていなかった隅っこでの研究を、大学へ訪問してきた海外の研究員が評価してくれたこと。

その研究のためなら、力を貸してくれるということ。

英語は喋れないけど、これから頑張っていくこと。

引っ越しは、二ヶ月後だということ。

肩をこづかれる。どうやら「何か言えよ」と催促されたらしい。

未だふわふわとした頭で、口から出た言葉は、

「頑張れよ」

という、ありきたりなものだった。

ロマンティックに野郎二人で沈む夕陽を眺めて、解散した。友人が自転車を漕いで帰る後ろ姿が見えなくなっても、僕はその場から動けずにいた。

やっと聞こえだした気がする波の音だけが、両手で塞ぎたくなるほどに耳に届く。

それをかき消すように、僕は大きく溜息を吐いてその場に座り込んだ。

僕と友人は、幼稚園からずっと一緒の幼なじみである。お互い他にもつるむ別の友人がいるが、結局いつも遊んで馬鹿をやるのは、この友人だけだ。

友人とは偶然にも同じ大学に進学した。大学内で会うことはほとんどないものの、ずっと昔からこの海辺で炭酸ジュースを飲みながら駄弁ることは変わらずにいる。ほぼ毎日だ。

友人の海外行きは、少し前に決まったそうだが、どうして今日だったのだろう。昨日だってここで駄弁っていたではないか。

そもそも、自分のこの感情がどういったものなのか分からない。頑張れよ、と言ったものの、それに対して自分自身が違和感を抱いている。

ただひとつ分かっていることは、二ヶ月後に、僕の隣から友人がいなくなるということだ。

***

あの海外行きの告白から、引っ越しの準備だの市役所での書類申請だのと友人は忙しいようで、いつもの海辺集会は、僕ひとりになってしまっていた。

しかし僕の両手には炭酸ジュースが握られている。つい癖で、友人の分まで買ってしまったのだ。

別にひとりなのだから、わざわざ冷たい海風吹きすさぶ場所に行かずとも、自室でぬくぬくとしとけばよかったのだ。

だが、友人がいなくとも、いつの間にかここに来ること自体が、僕自身のルーティンになっていたのだと気付く。

買ってからしばらく経つ炭酸ジュースを口に含む。未だに冷たい飲み心地と炭酸のはじける感覚にぶるりと派手に震えて、ひとりでなにやってんだ、とひとりで笑う。

「・・・・・・本当に、なにやってんだろう」
「おや、何かされていたのですか?」

突然すぐ横で声がして、反射的に振り向く。
そこには、くたくたのバケットハットの帽子を被り、まるまると膨れた大福のようなバックパックを背負った小柄な人物がいた。

思いの外近くにいたことに驚いて、危うく飲みかけの炭酸ジュースを落としそうになる。
そんな僕に構わず、小柄なその相手は帽子を手で押さえながら、話しかけてきた。

「ここ、良いところですね。季節柄、風が強いですが、爽快感があります。岩に当たる白波が綺麗だし、果てしなく広がる地平線にからだが吸い込まれそうです」
「・・・・・・そうですね」

怪しすぎる。

横から見るとドームのような半円のゴツいゴーグルは偏光仕様で表情がうまく読み取れないし、
ダボダボのコートは色褪せていて、おまけにツギハギだらけだ。
その大福のようなバックパックだって、何が入ってそんなパンパンになっているんだ。

「あらゆる場所で海を眺めてきましたが、またここは格別ですね。自然の音だけが響いていて、とても落ち着きます」

怪しい相手の、男とも女とも区別のつかない中性的な声が、するりと頭に入る。
格好は怪しいのだが、嫌な気がしない。なんとも不思議な人だ。

「お気に入りの場所なんです。車は滅多に通らないし、ここを知っているのも僕と一人の友人くらいで。壁のない秘密基地みたいな」
「壁のない秘密基地。素敵な表現ですね」

ニンッと相手は口角を上げて笑い掛けた。

「・・・・・・あの、これ飲みます?」
僕は開いていない方の炭酸ジュースを相手に渡した。

これが、僕と旅人さんとの出会いである。

***

いつもの海辺には、忙しい友人の代わりに、旅人さんが来るようになった。

僕は相変わらず炭酸ジュースを持っていき、旅人さんはそのお供にと、チョコレートやビスケットを始めとしたお菓子や、干し肉やチーズを挟んだサンドイッチを持ってきた。

「ここらへんのものじゃないですよね?」
「ええ。旅の道中で気に入ったものです。この干し肉はトナカイですよ」

旅人さんは、観光地を行くより、そこにある小さな町や、自然を歩き、そこにしかない風景を楽しんでいるらしい。

そして旅人さんはもともと職人であり、その場で会った人から依頼をもらうこともあるらしかった。
そういう人々から、こうしてお礼に珍しいお菓子や食料を分けてもらうのだという。

おとぎ話のような風景や人々との出会いの旅の話はとても面白く、僕もそこに連れて行ってもらっているような気持ちになり、胸が高鳴った。

僕もどでかい夢があることを旅人さんにこっそり話す。勿論、夢の中身は言わない。旅人さんはそのミステリアスさに胸が高鳴ってくれたようだった。

「僕もここから出て、あなたみたいにいろんなとこ行きたいな」
「おや、出てしまうんですか?」

「そりゃあ出たいですよ。友人も出て行ってしまうし」
「ああ。よくここで集まっていたお友達ですね」

「そう。突然出て行くって言って、しかも決まってしばらく経ってから教えられたんです。ずっと一緒だった友人に対して、素っ気なさ過ぎませんか?」

「なにか、事情があったのでしょうかねえ」
「だからって僕にずっと黙っているなんて、納得できない」

旅人さんからもらったサンドイッチを頬張る。干し肉が噛み千切れず、もがもがする。旅人さんはチョコレートを口の中で転がしているようだった。

「友人が出て行ってしまうことは寂しいですか」

強い風が吹く。あの日と同じように、旅人さんは帽子を手で押さえる。

友人がどこか遠いところに行ってしまうのは、勿論寂しい。しかし一番大きな感情はそれではない、気がする。

「分かんないです。ただ、なんとなく友人はずっとここにいて、見送るのは僕ではないと思っていたので」

そうだ。見送られるのは、僕の方だと思っていた。

なぜなら、僕にはどでかい夢があるから。
誰も成し遂げたことがないようなことをするはずの僕だから。
友人より凄いことをするはずの僕だから。

「お友達は、好きなことで海外に行かれるのですか?」

好きなこと。
答えるのに少し時間を要した。僕が眉間に皺を寄せて考えている間、旅人さんは炭酸ジュースを口へ運び、静かにぶるりと震えていた。

「・・・・・・多分、好きなんだと思います。研究のこと、僕は全然分からないですけど、友人がここで話してくれるの、研究のことが半分だったし。うまくいかないって嘆くことが多かった気がするけど、好きじゃないと、続けられないだろうし、」

ふと、言葉が止まる。
僕は、話ながら友人は研究が好きだったのだ、と今更理解したのである。

今まで何度もこの海辺で駄弁っていたのに、旅人さんに訊かれるまで、意識してこなかったのだ。

友人の海外行きは、突然のことではなく、成るべくして成ったのかもしれない。
もしかしたら、それこそが、友人の夢だったのかもしれない。

 
夢。

僕のどでかい夢って、なんだっけ。
時間が止まる。巻き直される。

どでかい夢。誰も成し遂げたことがないこと。

インパクトのある言葉ばかりが頭の中を巡っていて、肝心の中身が抜け落ちていた。

思い出せ。

そう、小さい頃から温めていた夢なのだ。
小さい頃から。

「あはは」

乾いた笑い声が、自分のものだと気付いたのは、旅人さんが溢れた涙を拭ってくれたからだった。

***

肝心の中身は思い出せなかった。いや、そもそも無かったのだ。

どでかい夢と豪語すれば、どでかいことを見つけられると思っていた。

それは全くの見当違いで、海外で夢を掴む友人と、何も変わらずふんぞり返った僕が出来上がったわけだ。

友人がコツコツと頑張っている間、僕はアンテナを張るわけでもなく、ただ受け身で、大学生までダラダラ海辺で炭酸ジュースを飲んでいるだけだった。

要するに、空っぽだった。

でも、この夢は嘘ではない。
本当に誰も成し遂げたことがないことをして、友人を、世界を、ぎゃふんと言わせたいのだ。

友人に掛けた「頑張れよ」の違和感は、己の焦燥感だ。
誰にも注目されていなかった研究が評価された、と聞いて、それが自分の夢とリンクした。

先を越された。そう漠然と考えた。
別に同じことを研究していたわけでもないから、先を越されたと感じるのはおかしいのだが、
ずっと一緒だった友人が、小さい頃からの僕の夢を、事も無げに叶えてしまったのである。

僕は、友人みたいに好きなことを、好きで続けられるようなことを、探してすらいなかった。

いつの間にか、涙だけではなく、この虚無感までも旅人さんに溢していた。
二十歳を超えた男が、鼻水を垂らし情けなく吼える姿を、旅人さんは黙って聞いていた。

友人が研究のことを話すとき、彼は輝いていたのを思い出す。
一日一日が楽しくって仕方が無いとでも言うかのような表情だった。
それが、無意識に僕は苦痛を感じていたのだ。

だから、意識しないようにしたのかもしれない。いつからそんなことを始めたのか、もう憶えてすらいない。

僕が、素直に友人を送り出せないのは、僕の勝手な劣等感だ。

陽が、海に溶ける。全てを橙色に染め上げていく。

「どでかい夢、ロマンがありますね」

ずっと黙っていた旅人さんが、口を開く。

「悩み、迷い、葛藤は、整理の時間です。つまり必要なものです。貴方は必要な時間を過ごしただけではないですか」

旅人さんの偏光ゴーグルが、橙色に丸く光る。小さな二つの夕陽が僕を見つめていた。

「それこそが、一歩前に進むための道標になります。それは迷路のように複雑で、進むのは困難を極めますが、
出口に近付こうが遠のこうが、あらゆるところで様々な景色に出会えます」

旅人さんの話してくれた風景や人々をふいに思い出す。

「動いてさえすれば、チャンスが来ます。それって、とってもワクワクしませんか」

あのニンッと口角を上げた特徴的な笑顔を旅人さんは僕に向けていた。

***

友人が海外に行くまで、残り二週間が切った。
準備もなんとか落ち着いたらしく、また友人との海辺集会が始まった。

そこに旅人さんの姿は無い。

代わりに、アトリエの住所だという「山の中湖の畔」と書かれたヘンテコなポストカードと、あのとき食べたお菓子を置いていった。

正直なところ、旅人さんを友人に会わせたかったのだが、そのうちまた会えるでしょう、と返され、それもそうかと引き留めはしなかったのだ。

しかし友人は、なんで会わせてくれなかったんだ! と凄い剣幕で怒り、そして可哀想になるくらい落ち込んだ。
ここまで感情的になった友人は久しぶりだったので良いものを見られたが、やはり会わせた方が良かったのかもしれない。

「俺がバタバタとしているときに、ずるいぞ」
「また会えるさ」
旅人さんのお菓子を分け合い、夕陽を眺める。

「おい」
「なに」
「あっちでも、頑張れよ」
「・・・・・・おう」
「お前があっちで頑張っている間に、僕はどでかい人間になるから、覚悟しとけよ」
「なんだよそれ」
「僕も頑張るってことだよ」
 
いつもの、海辺。
いつもの、炭酸ジュース。
いつもとは違う、友人と僕。

今日の風は優しい。

                  End

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