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【CAKE展】僕は今夜、彼女のティラミスを【屈ノ丞】

 暗めの紅い壁紙。しっとりとしたジャズ。渋めの木材の天板と黒のアイアン脚でできたテーブル。カウンター席には、テーブルと同じ椅子。他のテーブル席には、暗めの色のふかふかのソファ。席によっては、ふわふわのファーまで付いている。
 日が顔を出している間は、日の光が優しく店内を漂い踊り、日も落ち切れば、灯りは天井にちらほらと吊り下げられたガラスとアイアンデザインのアンティークランプだけ。カウンターに置かれた幾つかのコンポート皿の上には、目を離すことができないほどの素敵な洋菓子が可愛らしく、それでいて上品に飾られている。

 一度、その店へ足を踏み入れてしまえば、感覚が身体に纏わりついて、過ごしてしまった空間が忘れられずに焦がれてしまう。
 彼女はそのような夢のようで少し恐ろしい空間を作り上げているのだ。

 カラン、とドアに掛けられた質素なベルの音が彼女に僕が来たことを知らせてくれる。

「いらっしゃいませ」

 彼女は優しく僕に笑い掛ける。

「お仕事、お疲れ様です」
「君もね。今日もお疲れ様」

 彼女の目の前のカウンター席に腰掛ける。僕のお気に入りの席だ。

「今日は少し遅かったですね」
「ああ、同僚が重めのミスをしてしまって、その処理を一緒に。閉店前に間に合ってよかったよ」
「私も仕事の最後に貴方の顔が見れてよかったです」

 真っ直ぐな彼女の言葉が少し恥ずかしくて、それを誤魔化すように眼鏡のレンズを磨いた。
 僕は、カウンターのコンポート皿に目をやる。ガラス容器に入れられたティラミスが、至極魅力的に感じられた。僕はそれを指差し、少し渇いた唇を動かす。
 彼女は僕の指差したティラミスに目をやり、そして、柔らかい笑みを顔に浮かべたまま首を横に振った。

「これは、特別だから駄目です」

 悪戯を考える少女のようでいて、艶めかしい淑女のような目で僕をじっと見つめる。

「どうして?」
「そのケーキは特別なんですよ」

 華奢な指を唇に当てながら、くすり、と笑ってみせる。

「……今日も駄目なのか」
「はい、まだ駄目です」
「いつになったらいいんだ?」
「そうですね、私が大丈夫って思ったときです」

 相変わらず彼女は掴めない。

「他のお菓子だったらいいですよ」
「なら、君の自信作を」
「んー、全部自信作ですが……今日なら、じゃあ、これを」

 彼女はティラミスの隣のコンポート皿の蓋を開け、苺のタルトをプレートに載せて僕の前に置いた。

「苺のブラックタルトです。ブラックココアを使ったタルトにビターチョコのクリームを流して焼いて、甘めの苺を載せてみたんです」
「それは楽しみだな」
「期待に応えられたらいいですけど」
「心配しなくても、君の作るものはいつも期待以上だよ」

 僕はフォークを手に取る。

「そうだ。お飲み物はどうします?」
「このタルトに合う紅茶を」
「ブランデーは?」
「電車で来ればよかったけど、生憎、車なんだ。ブランデー入りは今度いただくよ」
「はぁい」

 彼女は背後の食器棚から迷うことなく一つのティーカップを取り出す。暗めの群青色といった色合いで、少し厚め。いつもと同じティーカップ。
 ケトルを火にかけている間に、食器棚の隣にある紅茶缶がズラリと並んだ棚から、一つの缶を手に取る。蓋を開け、1人分の茶葉をポットの中へ。

「……それは?」
「ウバです。チョコレート系の洋菓子によく合うんですよ」
「へえ、それは楽しみだな」

 沸騰したお湯をポットへと注ぎ、同時にティーカップにもお湯を注いで丁寧に温める。
 無駄のない、されど、優しさの感じられる彼女の手先の動きは、何度見ても飽きない。

 栗色の柔らかい髪をシニヨンにして、華奢な首を見せる。耳元にはいつも控えめな大きさだが、つい目で追ってしまうピアスがゆらゆらと揺れている。沢山働いているはずなのに、荒れることを知らない指は、きっと彼女が丁寧に手入れをしているからなのだろう。

「あの」
「……あ、はい」
「そんなに見られると緊張してしまいます」

 自分でも顔が一気に紅潮していくのが分かった。

「……悪い」
「何で私よりも照れてるんですか」

 僕は出されたティーカップに少しでも顔が隠れるようにと口をつける。眼鏡がもわりと曇って何も見えなくなる。

「まあ、貴方ならいいですけどね」
「……からかわないでくれ」
「ほんと、可愛いですよね」
「可愛いなんて言われても、僕は嬉しくなんかないぞ」
「褒めているのに。もったいない」

 悪戯っぽく彼女は目を細める。

「……君は、何か飲まないのか」

 眉間の皺が離れないまま彼女を見る。

「そうですね、じゃあ、貴方の代わりにブランデーを飲もうかな」

 大きめの瓶を彼女は僕に見せつけるように、カウンターの前に置く。

「あまり心配はしていないけど、飲み過ぎないようにね」
「心配ありがとうございます」

 グラスに注ぎ、ブランデーを喉に通す。僕も彼女のあとに続いて、タルトを口に運んだ。
 ほろ苦いチョコレートの味に、苺の甘さが引き立ち、酸味が口の中で弾ける。
 ウバを喉に流すと、舌に残った苦みと茶葉の風味が調和しあう。
 フォークがハイペースで進んでしまい、あっという間に皿の上には何もなくなってしまった。名残惜しいが、口の中にタルトの味が残っている間に、紅茶を飲み干す。

「君は相変わらず美味しいものばかりを作る」
「……貴方のおかげですよ」
「そうでもないさ」
「でも、私が貴方に救われたことは確かですよ」
「……そうか」

 腕時計に視線を落とすと、もう閉店時刻を過ぎていた。慌てて財布を取り出す。

「すまない。君も疲れているのに」
「いえ、仕事というよりはこの時間は休息に近いから」
「そうやって君は……」

 彼女のからかっているのかそれとも本心なのか分からない言葉は、いつも僕の心臓を容赦なく鷲掴みにする。
 火照った顔を隠すために俯いていると、彼女の手が僕の手に触れた。

「お金はいいですよ」
「いや、客としてしっかり払うよ」
「いいんです。その代わり……」

 彼女はまた悪戯を考える少女のような目で僕の目を真っ直ぐに覗く。

「明日、金曜日ですよね?」

 胸が高鳴る。

「明日の夜、空いてますか?」

 さっき喉を潤したばかりなのに、もうカラカラに渇いている。
 僕は彼女から目を離すことができずに、ゆっくりと首を縦に振る。

「じゃあ――」

 さっきよりも強く心臓が脈打つ。
 彼女の表情は先程の悪戯な少女の面影はなく、今は夜の淑女そのものになっていた。
 声を出すことができない。ただただ彼女の次の言葉を待つ。

「夜、私の家に来てほしいんです」

 彼女が垂れた横髪をゆっくりと耳に掛ける。
 背筋がゾクリ、と撫でられる。

「……どうして?」

 彼女が答えるのを待つ。
 彼女は口の両端を吊り上げて、ゆっくりと口を開いた。

「新しい洋菓子の試作を作るんです。それを食べてほしくて」

 一瞬だけ、時が止まったような感覚に陥った。

「あ、ああ、なるほど。そういうことか」

 違うことを少しでも期待していた自分が恥ずかしい。
 やっと彼女の瞳から逃れることができた僕は眼鏡を取り、レンズを拭う。火照って仕方がない頬に触れた手は少しひんやりとしていた。

「……全然問題ないよ」
「ふふ、じゃあ、そういうことで。それが、今日のタルトと紅茶代でお願いします」

 彼女は残っていたブランデーを、くいっと飲み干した。ドアの方に向かい、ドアの窓に垂れ下がっている看板を「CLOSE」へとひっくり返す。

「片付け、手伝うよ」

 僕はジャケットを脱いで、キッチンへと入る。テーブル拭きの布巾はいつもの場所に丁寧に畳まれて置かれている。

「いつもありがとうございます」
「このくらい。それに、僕が好きでやっていることだしね」

 薄暗い店内で、ゆったりとジャズが流れる中、こうして2人で黙々と整える時間が心地よくて好きなのだ。店内と共に、少しは彼女を労わってあげられているような気がして。

 戸締りを確認した彼女が、さっさと僕から背を向けないように、彼女がドアを背にした瞬間に口を開く。

「家まで送ります」
「歩いて帰れますよ」
「僕が1人で帰すとでも?」

 彼女の住むマンションは、店から歩いて15分ほどの所にある。確かに歩いて帰れる場所ではあるが、黙ってここでさよならをする程の男ではない。

「いつも言ってるだろう。もっと甘えてもいいんだって」

 彼女は僕を甘やかすくせに、彼女自身は遠慮するばかりだ。店仕舞いを手伝えるようになったのもつい最近のことだ。ほとんど僕の粘り勝ちのようなものだった。彼女への遠慮を感じる度に胸の奥に靄が掛かる。
 彼女の腰に手を回し、そっと引き寄せる。彼女の顔が想像以上に近付き、正直者の心臓がドクリと脈打つ。

「僕らは……その、付き合ってるんだから」
「……ふふ、自分で言って照れちゃって」
「うるさい。……ほら、早く乗って」

 せっかく夜風に当たって涼しくなっていた頬がまた熱を帯びてしまう。
 マンションの前に着くと、彼女は「ありがとう」と言って、僕の頬にキスをする。何度されても慣れない僕は、もう何回目かも分からない火照りを一人岐路に着く中、落ち着かせることとなった。

 情けないことに、彼女の試作が楽しみで仕事中はやや浮かれていた。同僚には珍しく機嫌がいいじゃないかと言われる始末。いい年をして恥ずかしい。
 張り切り過ぎて、ノルマは定時前には片付いた。僕の様子を伺っていた同僚はここぞとばかりに今日中のノルマを手伝ってくれと両手を合わせてきた。彼は、僕が断れないことを知っている。
結局、彼女の店に赴いたのはまたも閉店ギリギリであった。いつも通り、2人で清掃を済ませ、今日は彼女の家に上がる。
 統一感のある家具。どことなく店内と似た雰囲気を感じる。部屋の中はふわりと紅茶の香りに包まれて心地よい。初めて訪れた時と変わらない大好きな匂い。

「試作は? どういうものなんだ?」
「今回はベイクドチーズケーキを」

 彼女は僕の前に焼き立てを置いた。
 両手を合わせて、早速フォークを手に取る。チーズのまろやかさとレモンの程よい酸味が口の中に広がる。

「美味しい」
「改善は?」
「君はどういう味を作りたいんだ?」
「そうですね――」

 彼女がキッチンテーブルに頬杖をつく。いつも余裕そうな彼女が珍しく眉間に皺を寄せて目を伏せる。
 不意に、付き合う前のことが脳裏を過ぎった。

 最初はただの客だった。夜はお酒も提供している分、営業時間も長く、会社帰りに寄るのが日課になっていた。
 休日、偶には昼の時間帯に行ってみたいと赴いたはいいものの、店内は可愛らしく着飾った若い女性が多く、場違い感に至極緊張したのを今でも鮮明に覚えている。

「お昼に会うのは初めてですね」

 カウンター席で縮こまっている僕に彼女は紅茶を差し出しながら微笑む。

「昼の雰囲気も味わってみたくて」
「……少し、緊張されてますか?」
「そう見えますか」
「いつもより顔が強張って見えたので」

 そんなに顔に出ているのかと少し、恥ずかしさを覚える。

「いや、こんな男が1人で来るなんて場違いかな、なんて思ったりして」

 特に笑うところでもないのに「ははは」と作った笑いを浮かべて誤魔化す。
 同僚からのあだ名は「まじめ」。銀縁の眼鏡と少しきつめの目、どちらかというと無愛想。よく言われる第一印象第1位は「お堅そう」。
 可愛らしいケーキと紅茶がよく似合う、とは言わないだろう。

「性別も見た目も関係ありません。場違いなんかじゃ全然ないです」

 社交辞令でも嬉しかった。「ありがとう」と彼女の方を見ると、彼女は真っ直ぐ僕を見ていて、先程までの柔らかさはなく、ただ真剣に見えた。
 その真剣さに戸惑って、僕はまた笑って誤魔化した。
 彼女の視線から逃れるように、コンポート皿に乗った洋菓子たちを眺める。
 やはり、休日の昼間ということもあってか、種類も数も豊富で、見ているだけで心が躍る。本当は、あれもこれも食べてみたい。

「ケーキ、今日は食べないんですか?」
「いや、その、どれも捨てがたくて」

 たいして汚れてもいない眼鏡のレンズを拭く。

「じゃあ、私の今日の自信作を」

 トングで一つ取り出し、プレートを僕の前に滑らせる。

「レモンケーキです。今日はコーティングが綺麗にできたんですよ」
「ありがとうございます」

 手を合わせてフォークに手を伸ばす。しっとりとした感触がフォークから手へと伝わる。口へと運べば、ふわりと広がるレモンの酸味にうっとりしてしまう。

「いつ何を食べても、貴女のケーキは美味しいですね。ケーキが大好きじゃないとこんな美味しいもの、なかなか作れない」
「私、ケーキ苦手なんです」
「……ん?」

 きっと僕は今彼女に間抜け面を見せているのだろうと思う。しかし、そうなっても仕方がないと思うほどに、彼女の言葉に混乱した。

「嫌々作っているわけではないんですよ。お菓子を作るのは大好きなんです。でも、“味”がどうしても苦手で。ふふ、変ですよね」

 いつになく早口で淡々と言葉を並べる。ぎこちない愛想笑いは悲しさが滲んでいるように見えた。

「珍しいなとは思います。でも、こんなに美味しいものを作れるのは、そういう貴女だからこそだと僕は思いますよ」

 彼女が目を丸くしているのを見て、我に返る。自分がこんなことを言える人間だと思っていなかった。

「あ、いえ、素人の立場でこんな、すみません。でも、本当に美味しいから……」

 言い訳にもなっていない言い訳が勝手に口から出ていってしまう。汚くもない眼鏡のレンズを拭く。

「――ありがとうございます」

 作っていない言葉。オーナーではなく、彼女自身の言葉のように感じた。

 ケーキが苦手な彼女とケーキが好きな僕。見た目の印象が真逆な僕らの距離が縮まったきっかけの日だ。

「――聞いてましたか?」
「あ、悪い。君の悩んだ顔見てると、つい昔のことを思い出して」
「昔?」

 彼女の提案で、試作品づくりを手伝うことになった初めての日。

「シフォンケーキのテイストのレパートリーを絞るときも、同じような顔をしていたなって」
「ああ……ふふ、懐かしいですね」

 やっと彼女の眉間の皺が消えた。少しの安堵を覚える。

「それで、さっきは」
「ああ、ジャムに合うようにしたいんです。紅茶に入れてもチーズケーキに乗せても、楽しめるようなケーキにしたくて」
「凄く素敵だ」

 想像しただけでワクワクする。

「ベイクドチーズケーキなら、苺かな」
「そうですね」
「それなら、少しだけサワークリームの量を調節して、酸味を抑えてみるとバランスがよくなるんじゃないか?」
「なるほど。そうしてみます。いつもアドバイスしてくれて助かります」
「僕で力になれるなら、いくらでも」

 彼女は腕時計に視線を落とす。いつの間にか日付が変わっていた。

「もう、今日は遅いですし、また明日作ってみます。また、食べてくれますか?」
「もちろん」
「今日は遅いし、泊ってくださいね。折角休日ですし」
「ああ」

 金曜日、彼女が僕を家に呼ぶときはほとんど泊まるようになった。顔を真っ赤にして動揺し、泊りたいのに意地でも帰ろうとしていた頃と少し肩が上がってしまうだけの今を比べると、だいぶ成長したとは思う。

 シャワーを借り、寝る前に2人ソファに並び、ハーブティーで体を温める。
 瞼を閉じれば、もういつでも寝られそうだ。

「そういえば」

 不意に一つ思い出す。

「ティラミスのことなんだけど」
「はい」

「いつも思うんだけど、どうして、他のケーキは食べさせてくれるのに、ティラミスだけは駄目なんだ? 君の言う“特別”ってのは何なんだ?」

 彼女は目を細めた後、ハーブティーを口に含み、そして、ゆっくりと口を開いた。

「ティラミスって込められたメッセージがあるんですよ」
「メッセージ?」

 首を傾げる。
 彼女は僕の表情を見て、口許に薄っすらと笑みを浮かべた。

「何だと思いますか?」

 彼女に言われて少し考えてみた。しかし、洋菓子が好きなだけで、知識が全くない僕には分かるはずもなく、直ぐに両手を挙げた。

「――“私を元気づけて”。ティラミスに込められたメッセージです」
「へえ」

 ずい、と彼女が顔を近づける。

「“私を抱いて”って言ってるんです」
「えっ」

 心臓が激しく脈打った。いや、脈打ったどころじゃない。ほとんど爆発だ。

「あーあ、赤くなっちゃって」
「君が変なこと言うから……!」

 なかなか心臓の音が静まらない。少し痛いくらいだ。

「でも、本当のことですよ。18世紀、ヴェネツィアでは強精剤のデザートとして食べられていたんです。現在のイタリアでも、ティラミスは夜にしか出さないお店もあるんだとか。夜遊び前に女性が男性にメッセージを込めて振舞っていたっていう」

 ティラミスの見方が変わってしまいそうだ。

「女から夜のお誘いをするなんて、口で言うには少しはしたないイメージがありますし、口にしない誘い方を考えたんでしょうね」
「ず、随分と情熱的なんだな」
「――女だって、好きな人と繋がりたいって思いますよ。誰しもね」

ハーブティーを充分に楽しんで、彼女とベッドに横になった後も、身体に帯びた熱はなかなか冷めなかった。
真っ暗な部屋の中、ベッドの上で今日の彼女の言葉が忘れられない。

――好きな人と繋がりたい、か。

 告白も彼女からだった。手を繋いだのも、キスも。全部彼女からだった。彼女はいつも顔を赤らめる僕に柔らかな笑みを見せるのだ。
 彼女が与えてくれる愛情が、火照りの中へと溶けて僕に心地よさを感じさせてくれる。
 それにしても、思い返すと、自分が男として情けないように感じる。僕だって、興味がないわけではない。興味がないわけない。寧ろ興味しかない。当然だ。僕は健全な男なんだから。
 だが、彼女を目の前にするとどうしても怯んでしまう。今日は、今日こそは、と思っているうちに彼女に先を越されてまた顔を赤くしてしまうのだ。情けない。普通、逆じゃないか?
 僕は、彼女が顔を赤らめる姿をまだ見たことがない。
 彼女が頬を火照らせたら、どうなるんだろうか。

「……可愛いんだろうな」

 その夜、願望が鮮明に夢となって出てきて、翌日は彼女の顔を見れなかった。

「あっ」

 いつも通り、会社帰りに彼女の店へ寄ると、コンポート皿の上には久しぶりにティラミスが顔を覗かせていた。
 彼女が言った話を思い出して、少し顔が熱くなる。

「今日は、何にしますか?」
「今日は――」
「あら? 自信作は聞かないんですね」

 膝の上の拳に力を入れる。

「……今日は、食べたいものがあるんだ」

 指先が冷えている。臆病な僕が顔を出している。しかし、それを必死にお呼びでないと引っ込ませる。

「それ」

 僕はティラミスを指差した。

「それが食べたい」

 彼女はいつも通り、僕の指差したティラミスに目をやり、そして、柔らかい笑みを顔に浮かべたまま首を横に振った。

「これは、特別だから駄目です」

 そして、悪戯を考える少女のようでいて、艶めかしい淑女のような目で僕をじっと見つめるのだ。
 今日は彼女のその目を見つめ返した。

「“特別”だから、食べたいんだ」

 それ以上、声は出なかった。時間が止まったような感覚に襲われる。
 彼女はついに零れ落ちるんじゃないかと思うくらい目を見開いた。

「この前のこと、覚えてますか」
「覚えてる」
「“特別”の意味、分かっていますか」
「分かってる」

 ここで目を逸らしちゃいけない。
 冷えた手をぎゅっと握る。

「分かった上で、食べさせてほしいんだ」

 ――――あ。

 彼女の透き通るような白い肌がじわりと赤らんだ。
 沈黙の中で、店内のジャズだけが空間を包む。

 沈黙は彼女の動きで破られる。
 コンポート皿のガラス蓋を取り、プレートにティラミスを置き、そして、僕の前へと差し出す。
 僕はゆっくりとフォークに手を伸ばす。

「“特別”なものとして、僕は食べていいんだね?」

 僕の言葉に彼女は何も言わなかった。ただ、珍しく頬を赤らめながら目を細めた。

 やっと口にすることができた彼女のティラミスは、どの洋菓子店のティラミスよりも濃厚で舌に絡みついた。

 口の中に広がる感覚も彼女と感じ合えたなら――。

 キッチンから出てきた彼女を引き寄せ、僕は熱を帯びた手を彼女の後頭部に回した。

Fin.

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