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中山道ぶらり旅 四

伏見宿

伏見宿は1694年木曽川の流れの変化により、それまであった土田宿が廃宿となることにより誕生した宿場町である。

土田宿のあった岐阜県可児市土田は、織田信長の生母土田御前の出生地でもある。

伏見宿の現在は、旧国道21号線開通の影響で当時の風情が殆ど喪われている。
わずかに残る当時を凌ぐ本陣跡の石碑が、以下の写真である。

 そんな訳で今回も、自分勝手に伏見宿の話題から反れて、伏見と呼ばれる地名の色々や、近隣の名所旧跡にスポットを当てて進めてみたい。
(なんでもありのnoteの、こういうところが私は、たまらなく好きだ)
 
 伏見、その代表格である京都伏見の名の由来、それは地下水が豊富な土地を「伏水」(ふしみず)と読んだのが最初で、それがいつの頃からか音変化し、「伏見」 という名が定着したとされる。
京都伏見といえば神戸灘とならんで大手酒造メーカーが、本社を置くお土地柄だが、灘の生一本とならぶ伏見の銘酒の今日があるのは、地下から涌き出る良質な地下水の恩恵によるところが大きいのかもしれない。
 
 他にもこの国には、伏見と名の付く地名が色々存在する。
 その一つに名古屋市の中心街にも伏見と呼ばれる場所がある。
 そこは名古屋の金融街だけに大手の都市銀行や証券会社が立ち並ぶ街である。しかし名古屋の伏見は、京都の伏見と違い、地下水云々とは全く関係がなく、京都から移り住んだ伏見屋六兵衛という人物の名に因んで付けられたらしい。生まれ故郷の名を屋号にするという風習はいつの時代から始まったのだろう。
 酒屋によくある三河屋、縮緬問屋の越後屋w、これらは生まれ故郷を偲んで当時の人間が名付けた典型的な例とはいえないだろうか?というかそんなことは常識か?
 なぜか伏見という固有名詞に、雅な雰囲気を感じる私だが、京都というネームバリューの影響が大きいのかもしれない。
 そういえば戦後GHQにより皇籍離脱に追い込まれた旧宮家にも伏見宮という皇族があったようななかったような…
 日本全国津々浦々探せば他にも多くの伏見が存在することだろう。
 
  話は打って代わり、伏見宿のある岐阜県可児市には、美濃兼山城址公園という観光スポットがある。
 実はこの可児市、他にも幾つかの城跡があり、明智光秀ゆかりの明智城、久々利城など7つにも及ぶ城跡が残り、2019年には日本山城サミット可児大会というイベントが開催されたほど、山城オタクにとっての聖地なのである。
 先に取り上げた美濃兼山城址公園の麓には、蘭丸ふるさとの森と呼ばれる公園がある。
 バーベキュー場を備えるこの公園は、春には地元の花見客で溢れんばかりの賑わいを見せる桜の名所でもある。
蘭丸と言えばあの本能寺の変で信長と運命を共にした森蘭丸の事だと殆どの人は察しが付くことだろう。
信長の小姓、森蘭丸、坊丸そしてその兄で一時期この美濃兼山城の城主を努めた森長可、さらに遡ると、この城の誕生は1537年斎藤道三の重臣斎藤正義によってだが、正義亡き跡、岐阜を手中に納めた信長の命により長可の父可成、長可、蘭丸こと森成利、と城主が代わり、1600年最後の城主家康の家臣石川貞清の時代に解体され、その廃材が国宝犬山城の修理に使われたという歴史が残る


 私事で恐縮だが、ここ最近notesへの投稿とバイクでのツーリングが目的で、今までにない頻度で近場の名所を巡っているが、改めて中部地方という所は、戦国時代の山城や、合戦場跡などの歴史遺産に事欠かない場所だという事実を思い知らされる。
 徳川四天王の一人榊原康政の出生地を豊田市の上郷で見つけたり、福島正則が愛知県海部郡美和町の生まれであることを知ったり。私の父方の在所の菩提寺が、信長の重臣で黒母衣衆として名を馳せた佐々成政の居城の跡地だったりとか歴史好きには話題に事欠かないお土地柄、それが東海地方である。
 ついでにいえば土田御膳のことを書いていて今気づいたが、家康の実母於大の方(知多郡東浦町)、秀吉の母大政所(名古屋市昭和区)の出身地も、今までの人生で、頻繁に近くを通った場所である。
 わざわざ調べて訪ね歩いた訳ではないが…

 今回もまた尻切れ蜻蛉の感がぬぐえないぶらり旅となった。 

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