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近況報告…というか自己満近況報告。


早速ですが、7月後半は、ずっと家に引きこもってニート生活に徹していました。体重は怖くて測れないくらい過食の日々が何日も何日も連続して続き、久しぶりに家に出た時には、車の速さに酔いかけたり、動くことで目の前の景色が変わっていく事に気持ち悪さや奇妙さを感じたり、暑さに耐えられなくて異常にむかついたりしました。

そして、行きついた先が、昼夜逆転の生活でした。涼しい朝に寝て、暑くなる昼過ぎに目覚め、クーラーをつけて数時間クーラーをつけて朝までひたすらテレビを見続けるという生活を2週間ほど続けました。因みに、創作意欲や本を読む気力は全くなしでした。

でも、ごみ捨てや、過食の食べ物を近くに買いに行く程度で外に出てはいたのですが、それくらいの運動だけでなく、家でも何か運動的なことをしなければ更に醜い身体になる、とある日思い、取り敢えず難易度低めなラジオ体操を始めることにしましたが、とにかく身体がぶれて、フラフラして、殆どの動きができませんでした。身体が全然動かない。大げさに言って、深呼吸と跳躍しかできないくらい。
「あれ?ラジオ体操ってこんなに難しかったっけ?」と、これには非常に驚きました。というか、驚きを通り越して衝撃でした。
体幹や筋肉ってこんなすぐになくなるものなのだと。ラジオ体操は数日も続かず、結局何もしないで過食する日々が続きました。

そして、就労移行支援事業所に通うための手続きのついでに、たまたまお店で見かけたバランスボール(インテリアになりそうな丁度いい色のもの)を「それだ!」と、ここぞとばかりに衝動的に買い、それに座ったり、前後左右や縦に揺れてみたりしながらテレビを見続けることにしました。
すると、暫くした後、気分が乗った時に久しぶりにラジオ体操をすると、ラジオ体操の動き全てができるようになっていました。片足立ちも数か月間ずっとできなかったのに、できるようになりました。バランスボールとは、意外にも優秀な代物です。お陰で靴下を立ったまま履くことができます。


そして、8月からは就労移行支援事業所に通い始めました。私は前年度に収入があったので利用金額が発生するのですが、貧しい生活ながらも母が負担してくれることになりました。元々、利用料金は払う気しかなかったと言ってくれていたのですが、実のところずっと断っていました。ですが、通い始めると1か月の交通費だけでも結構お金かかってしまうことを実感し、素直に頼ることにしました。

母は、遠方にいながらも…いや、遠方にいるからこそなのかもしれませんが、カリカリな生活ながらも、資金的な援助をちょいちょいしてくれます。
私は勿論感謝をしていますが、金銭的な免除…自分自身を介さない援助や支援はあまり心からの感謝の気持ちを抱くことができません。
クレジットカートでついついお金を使いすぎてしまうのと同じ原理です。目の前に存在しないものが失われたり、得られたりすることには実感がわきにくかったのです。銀行に振り込まれて、直ぐになくなるお金に対して感謝し続けることは、何気に難しいことを知りました。

そんな時、母から凄い量のLINEが来ました。母は、私が通っている病院に手紙を書いて送り、私が躁うつ病であることを確信させてくれたのです。

というのも実は、今月末に私はセカンドオピニオンを受ける予定でした。躁うつ病ではないと、何度も振り返っては思っていたからです。そして、その旨は母に伝えていました。ですが母は、私は典型的な躁うつ病だから、早く発見できた今の先生の場所に通う方が良い。セカンドオピニオンは医療費が高く取られるらしいからやめといた方が良い、と言いました。その時の私は、「その時、その日の自分の意思で決めるから、受診するかどうかは、今は何とも言えない」とだけ言いました。結構突っぱねたと思っています。

だからなのか分かりませんが、母は、私の父の様子を手紙に書き起こして先生に送ったのだそうです。父は、私が幼い頃に癌で亡くなっているのですが、精神関係の薬を飲んでいた時期があった、という話は聞いていました。他にも、酔っぱらって、帰り道に人の家の前でWCをしたり、漏らしたズボンを人の家の敷地に放り投げたり、借金2000万残して亡くなったり、知人に「出世払いだから」と何度もお金を借りて返さず亡くなった…実は他にも色々ヤバいエピソードがありますが、結構酷い内容です。鬱状態も酷くて、物凄いネガティブ思考だったということは拒食症の時に何度も聞いていました。そして私は、そんなネガティブな部分がよく似ている、そっくりだと昔から言われていました。因みに顔も。

恐らく、そういった父の、ある種武勇伝と言えるような話の内容を手紙で送ったのだと思います。すると、「なんと」、というべきか、主治医から返答が返ってきたのだそうです。「父は、恐らく躁うつ病でしょう」と。
母は更に、どこから聴取したのか、父の叔父も躁うつ病だったことを教えてくれました。だから、これは、本当に遺伝なんだよ、だから、何かあっても自分を責めなくて良いんだよ、と。

また、兄は作業療法士で病院勤めなので、「返答をくれる先生は珍しい」と言っていたそうです。母は「本当に良い先生なんだね、良かったね」と言ってくれました。


正直なところ私は今まで、主治医の先生のことを信じていませんでした。
何故なら、主治医に病状を言う前に、めちゃめちゃ自分のことを調べていて、その時点で少し「私って、躁うつ病かも?」と勝手に変で微妙な確信を抱いていて、それっぽいことを抜粋して主治医に伝えたら病名を即決され、思わず「容易い」と思ってしまったからです。拒食症の時もそうでした。(拒食症の時は入院が必要な完全なる拒食症になってしまったのですが)

「自分はこうかも?」と思ったら、実際に引き寄せられてそうなってしまう、という原理があることを知っていたので、だから私は、蜘蛛の巣ともいえる、自分自身が掛けた罠に自分から引っ掛かりに行っているんだと思っていました。だからこそ、主治医に「私は躁うつ病じゃないと思うんですけど」と言い続けてきました。本当に困っている人に対して失礼極まりない嘘っぱち人間だと思っていたからです。ですが、その度に「いえ、躁うつ病だと思います」と言われてきました。わからずや、と思っていました。

そんな中、母が、仕事や家事、遠くにいる祖母の週1の世話の合間を縫ってまで、亡き父の記憶をたどり、手間のかかる手紙を書き、主治医に送ってくれたという事実と、そうして分かった私の家系の真実を知ることができたことに、何とも言えない感情を抱いたのです。母は、考え事があると寝られない質なので、睡眠時間も少なからず削られたことと思います。

お金を送る単純過程の想いと、手間のかかる複数過程のある想いに対して感じる愛情深さの重みは、比較するものではなく対等なものだと分かっているけれど、受け取る側の気持ちの面では全然違うのだと、自然と涙が出てきた自分を前にして、そう思いました。

そしてやっと、私は症状が軽くとも、自覚がなくとも、躁うつ病なのだと、嘘偽りなく自分を受け入れて、母がなずけてくれた「そうちゃん」と向き合っていこうと思えるようになりました。

以上

最近は超朝型人間で何時に寝ても朝5時に目覚めるし、今月の予定めちゃくちゃハードにしちゃった、恐らく軽躁な、ぎふたっぴがお送りしました。

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