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掃除について

 ベッドやカーペットにコロコロをかけるときの、はじめは粘着質な表面を引きずるみたいにベリベリと回しているのが次第に滑らかになってコロコロしやすくなっていく感触とか、そうやってホコリに覆われたコロコロの表面をぺりぺりと剥がして捨てるときの感触が、わりと好きです。

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 と、のっけからコロコロの話です。それ以上でも以下でもない話って、気楽ですね。

 わたくしごとをお話すると、さっきまで単身赴任で住んでる社員寮のワンルームを掃除してたんですが、いまはコインランドリーの全自動洗濯乾燥機が回り終わるのを待っている最中のヒマタイム。コインランドリーの待ち時間って、手持ちぶさたという言葉がぴったりですね、こういう徒然コラムを書くにはもってこいです。

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 で、単身赴任のこととか僕の暮らしぶりに関する話題には一切触れずにただただ掃除の話を続けていきますが、部屋の掃除を含めて家事全般ってもちろん面倒くさいけど、僕はそんなに嫌いじゃない。基本的にやることが明確だし、その成果も目に見えて分かる。小さくとも確かな達成感がある。コロコロの好きなとこはそういうとこ。

 そういうチマチマした達成感って案外バカにならなくて、けっこう鮮やかに生活を彩ってくれるのよね。生きているってのも、これはこれで悪くはないな、なんて気分にさせてくれたりする。

 実はヒトって、こういう小さな達成感を生きる支えにしてるんじゃないか、とか思います。壮大な理想とか夢とか希望とかじゃなくて、生ゴミを抜かりなくゴミ袋にまとめて燃えるゴミの日に出せた、という事実が、ささやかでも今を生きるための矜持を生むんじゃないかしら。

 あてどない未来を待ち受けるには手頃な希望があると便利だけど、目前に迫る明日と向かい合うには、地に足のついた達成感が要るんだな、たぶん。

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 あと掃除にしろ洗濯にしろ、どれだけ綺麗にしたところですぐにまた汚れる、っていうシーシュポスの岩的な無常感が、日々の営みのスパイスというか一種のアクセントにもなってますね。何につけてもキリがないんだ、生活ってやつは。世界中をコロコロしたって、この世からホコリは無くならない。

 それがイヤにもなるけど、同時にそれが生活の妙味でもあって、ブツクサ言いながらも生きることを止められない理由が、そこにはあるような気がする。

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 汚しては洗い、洗うから汚れて、また汚れを洗う。繰り返すから繰り返すのか、繰り返すために繰り返すのか、それも分からないままに、今日もまた洗濯機を回す。

 本当は、繰り返すものなんてこの世界には存在しない。流れる雲や寄せる波に、ただ一つだって同じ雲や波はない。それでも、あたかも本当に繰り返しているみたいにぼくたちは暮らしを繰り返す。日ごと訪れる新しい毎日と、生まれて初めて出会う今日に対して、あんまりオドオドせずに向き合えるように。

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 だからこそ、ちゃんと繰り返しているよ、という達成感が、どんなに小さなものでも大切で、けっこう愛おしかったりするんだと思います。

 ワイシャツを洗って乾かして畳んでクローゼットにしまう、その作業をうとましく感じながらも、一つ一つの繰り返しによってぼくは「ヒトの暮らし」をささやかに守っている。ぞんざいに、たまに丁寧に。

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 ああ、もうコインランドリーの乾燥機も止まった頃合いでした、取りにいかなきゃ。【Y】

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