サラリーマンだった私が、「文春」や「Number」で記事を書き、やがて本を書くまで。♯1再開しても良いかな?いいともー。
アイヤー!(©「八月の御所グラウンド」万城目学・著)
この現状を見て、中国人留学生のシャオさんなら間違いなくそう嘆くだろう。
野球でいえば、試合放棄と見なされても仕方がない。前回の投稿から間が空くこと1年以上……。どうしてこうなったのか……。
理由を挙げれば、いくつかある。
犬を飼いだしたこと。世話が大変なこと。その犬がかわいくて仕方ないこと……。
それ以上の要因は、本の執筆依頼をいただいたことだった。しかも、同時に2冊!
昨年の5月以降はその仕事にかかりきりになり、まさに寝る間もないくらいの忙しさだったのだ。(年明け以降は完全な怠慢だけど……)
ずっとパソコンの画面を見続けて目は悪くなるし、肩は壊れるし(もちろん球の投げすぎではなくて、五十肩が原因だ)、満身創痍の状態だった。
このnoteは基本、自己紹介を兼ねて時系列に歩みを振り返る予定だが、このペースのままだと永遠に昨年まではたどり着けそうもないので、ひとまず2冊の本のことを先に振り返ってしまいたい。
自身のことを知ってもらうことに加えて、このめずらしい経歴がひょっとして書くことに興味のある方の参考になるかもしれない、という初心を忘れずに。
さて、今年の箱根駅伝をテレビで見たという人はどれくらいいるのだろう。
見た方はおそらく、「第100回大会」というフレーズを何度も耳にしたはずだ。大正9年に始まった箱根駅伝は、戦争による一時中断をはさみながら、今年の大会で記念すべき第100回を迎えた。
私は箱根駅伝を取材して20年以上になるが、記念すべきこの年に、集大成となるような本を書きたいと思っていた。
すでに企画書を練り上げ、関連する資料も集め、仮のタイトルまで考え出していた。
「臙脂と鉄紺」
ピンと来る人はかなりの駅伝マニアだろう。臙脂は早稲田大の襷の色で、鉄紺は東洋大の襷の色を指す。両校はかつて史上最小僅差の接戦を演じ、私はそのレースについて振り返りの記事を書いたことがあった。(お手持ちの方はNumber PLUS「箱根駅伝1920-2014 伝説の名勝負」をご参照ください)
このとき、改めて強く思ったことがある。
それは、自分がまだまだ箱根駅伝のことをよく知らないということだった。(知れば知るほど、その深淵が見えてくるというのかな)
駅伝はレースが終わるとすぐに速報を報じ、当然ながら優勝チームについての言及が多くなる。基本的にはレース終了後の囲み取材をもとに記事を書くため、コメントを取れる関係者の数はごく限られた人数になってしまう。
本来はもっと多くのドラマがあり、あの涙や笑顔の裏に掛け替えのない努力の過程が秘められていたはずなのに、気づかないままで終わってしまっていたのだ。
大学スポーツは1年ごとの入れ替わりのため、節目の大会が終われば次は新年度のチームに向けて新たな取材が始まるのは致し方ないことでもあるのだが、その流れに一度くさびを打ちたいと考えたのだ。
その対象はやはり、あの大会でなくてはならないのだけれど、これについて書き始めると収拾がつかなくなってしまう……。
ともかく、その企画書を持って、真っ先に訪ねたのが文藝春秋だった。
これまでに述べてきたとおり、サラリーマンから転身した私が、ライターとしてなんとかやってこられたのは、文藝春秋さんに見つけてもらったからである。ノンフィクションの賞をいただき、最初は短い原稿から、徐々に長いものも書かせてもらえるようになり、経験を積んでくることができた。
その恩義は計り知れないし、相談先として他の出版社のことは考えられなかった。幸いにも、以前に新書の執筆でお世話になった(「競輪という世界」文春新書)書籍担当の方がいたため、まずはその方に相談することにした。
しかし、書籍化の道はやはりそう簡単ではない。半年ほど検討いただいたが、返事は「難しい」とのことだった。
まさに、アイヤー!である。
その時は平静を装っていたものの、心の中では額に強く右手を打ちつけていた。
書籍担当者はこう言葉を続ける。
「別の出版社に相談してみてはいかがでしょう」
これはつまり、義理は果たしたと言うことなのだろう。うちでは出版の目がないけど、もし他社さんがオッケーであれば構いませんよと。気を遣っていただいたに違いない。
だが、これもすでに述べてきたように、私は出版業界に知り合いがほとんどいない。業界で働いていたわけでもなく、記者上がりでもないため、気軽に相談できる会社など皆無なのだ。
さて、ここでどうしたか。長くなりそうなので、続きます……。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?