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表現の形

今年の前期はひたすらインプットをしようと努めていた。特に、映画を観まくっていた。いわゆる名作と呼ばれるもので、いつか観ようとは思ってはいたが観ることがなかった作品にしっかりと向き合って観ていくようにしていた。以前は他の人からお勧めされた作品は何となく観る気が起きず(お勧めされた人にもよるが)、自分が日々生活しているの中で観たいなと自発的に思った作品を観るようにしていたのだが、そのようにしていると観る作品がどうしても偏ってきてしまう。だから、幅広く手当たり次第に観ようという思いを立脚点に、名作を浴びるように観ていくと、さすが名作なだけあって、その大半がとても満足度の高いものであった。観てよかった、なぜ観てこなかったのかと思わされるものばかりであった。

そしてそのようなインプット期間を経て、後期はアウトプットの分量を増やしていこうという目論見の元、今もこうしてnoteに文章を書いていたりする。
しかし、半年間のインプット修行を経て、インプット中毒になったというのか、常に何かの作品に触れていないと、日々の生活の充足感・どうしようもなく疲弊する精神を救う処方箋が失われてしまう気がして、やはり何かしらのコンテンツを傍らに置いておきたくなった。サブスクを使ってスマホに映画をダウンロードして出先でも気軽に視聴することはできるのだが、個人的には映画は最初から最後まで一気に観たい、すなわちまとまった時間が確保できたときに観たいという思いがあったため、そういった生活の中では映画を主たるインプットに据え置くことは難しくなり、その代替の何かが必要になった。そしてその答えは小説であった。

小説は映画とは違って隙間時間に少しずつ読んでいくことができた。映画や動画は映像と音、様々なチャンネルに意識を向ける必要があるのだが、小説は文章だけという制限のある表現にだけ集中することができる。その制限のなかで様々な挑戦が行われていて、文章というただ一つの表現のみだからこそシンプルに直接的に心に響いてくるものがあった。作者と読者をつなぐのが紙に印刷された文字だけだからこそ、それだけ両者の距離が近いのかもしれないと思った。

最近読んでいる本は吉祥寺の駅近くの古本屋で購入した太宰治の「虚構の彷徨 / ダス・ゲマイネ」である。
左翼運動への裏切りと鎌倉海岸での心中未遂、縦死未遂の告白を軸に、小市民的モラルを否定しながらも惨落と自負の意識に痛ましく引き裂かれていく青春の日日、その絶望の乱舞を、道化の言葉で綴った「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」、いわゆる『虚構の訪裡』三部作と、他に 「ダス・ゲマイネ」を併録した作品で、初期の作品ながら既に、太宰治が後に書くことになる「人間失格」の骨組みが現れている。

私小説的な小説でありながら、日記のようでもある。太宰の作品を読んでいて、好きだな、と思うのは、私自身の感情や感性を確認する機会になるからである。太宰と私が似ている、と断言するのは烏滸がましいのだが、読んでいて安心することができるのである。そして、なにより太宰の言語感覚の凄まじさに圧倒される。普段本を読んでいるとき、琴線に触れた文章を都度スマホにメモするようにしているのだが、今日昼食を食べに初めて行ったカレー屋で料理が届くのを待っているわずかな時間の中でさえ以下のような文たちをメモに加えずにはいられなかった。
「眼の前の海の形容詞を、油汗流して捜査していた」
「縄目の恥辱」
「7年の風雨が見舞っている。」
「微笑ましきことには、私はその日、健康でさえあったのだ。かすかに空腹を感じたのである。」
「それ以上の仕合わせを考案しているいとまがなかった」

コンテクストあっての文ではあるものの、これらはそれと切り離してみてもなお私にとっては心にズドンと響くものがあるのである。

私が「表現者」として敬愛する人物は太宰のほかにもいて、中でもダウンタウン松本人志はあまりにも大きな影響を私に与えている。これは以前投稿した、自分を形成してきた「コト」「ヒト」「モノ」は何なのだろうかを一度真面目に考えてみる、という思考整理を試みたnoteの中でも書いたので、そちらも参照していただければと思う。

そしてその思考整理を行って一か月余りが経過した後、私は想像だにしない経験をする。松本人志と一緒に「ごっつええ感じ」の制作をしていた某氏の話を聴く機会が先日あったのだ。今冷静に振り返ってみても衝撃的な体験である。色々な人に自慢したかったのだが、辞めておいた。しかし、noteならいいか、ということで書いてしまっている。
某氏から語られる様々な話は金言に溢れていた。ここでその多くを文章にしてしまうのは陳腐な気がするので、よしておくが、最も印象的だった言葉はどうしても書いてみたい。それは、某氏が語る松本人志の凄さの正体を説明した言葉であり、その説明というのは「皆が心の中にあるけど自分で気づいていないことを気づかせる合意の位置」というものである。第一線で活躍される方の話を聞いて驚かされるのはその言語化力だ。松本人志のお笑いを見てきて感じていた曖昧模糊としたその凄さの正体をあまりにも正確に表現されたのは青天の霹靂であり、至極納得することができた。
そして話は戻り、それは太宰の文章にも通底するものであるということを感覚的に理解している。私が目指す表現の形である。

このnoteを書き始めたとき、小説や太宰の話で完結するつもりであったのだが、書いているうちに某氏の言葉との関連性を発見し、私がなぜ太宰治や松本人志に憧憬するのかを客観的に分析することができたのである。


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