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『僕のヒーローアカデミア』……敵が魅力的すぎて、物語が枠を越えようとする瞬間。

 録画して「僕のヒーローアカデミア」を見ているだけの、それほど熱心な視聴者でも読者でもないので、どこまで理解できているか分からないのだけど、21世紀になって、少年ジャンプの有名すぎるテーマ「友情・努力・勝利」の質感が、かなり違ってきているように感じていた。

文化資本の豊かな私立学校

 かなり昔の映画で申し訳ないのだけど、加山雄三の演じる主人公が、スポーツを中心に華やかな活躍をする「若大将シリーズ」が映画として上映されていたのは、1960年代から1970年代だった。

 ちょうど高度経済成長の頃で、その舞台は、慶應大学がモデルになっていると言われていた。

 大学進学率も今よりかなり低く、そして、慶應大学は、有名私大として、経済的にも豊かな階層が通っていて、それが憧れの対象として見られていた時代でもあったと思う。

 

 そうした「文化資本の豊かな私立の学校」が舞台になる物語は、時々あって、すでに少し古い話題になってしまうけれど、世界的なヒットだと、映画「ハリー・ポッター」シリーズも、そんな気配が強くて、これからの「学園もの」は、世界的に「文化資本の豊かな私立学校」のイメージになっていくのかもしれない、と思った。

 それは、もしかしたら、世界全体が、再び、貧しくなっていく過程である現れかもしれない。

 

 20世紀の、少年ジャンプ「学園もの」は、どちらかといえば「不良」もしくは「ヤンキー」の学校だったりすることが多い印象で、その中での「友情・努力・勝利」だった。

 「僕のヒーローアカデミア」をテレビで見て、これが今の「ジャンプの王道」でもあると、どこかで知り、ジャンプの「学園もの」も「文化資本の豊かな私立学校」になったのだと思い、それが時代の流れだとも感じていた。

コンプライアンス

 いつの間にか「コンプライアンス」という言葉が当たり前のように使われていて、場合によっては意味合いも広がっているようで、下手をすれば「道徳的なこと」と一緒に思われているようにもなり、ある場面では「うっとおしい制限」のようい使われるような言葉にもなった。

 どちらにしても、テレビでも守らなくてはいけないことは増え、それは、一面では当然のことでもあり、進歩でもあるのだけど、「僕のヒーローアカデミア」も、コンプライアンスを守りつつも、基本的には、バトルものをどう組み立てていくかの試みにも思えていた。

 全部を見ているわけではないけれど、ヒーローを養成する学校の教師も、意味なく怒鳴ったり、殴ったりしない。(昔なら、これだけ体を張るストーリーだったら、熱血教師という名の元に、1話に一回は殴っていたと思う)。

 性別や生まれなどでの差別もない。ただ能力の高さや強さでの選別はされているが、それは、「敵(ヴィラン)」と戦って、市民を守るため、何より、自身の身を守るためだから正当化されている。そして、学校の基本的な雰囲気は「文化資本の豊かなエリートの私立学校」に見える。

 学校が舞台なので、リアルな殺し合いではなく、トレーニングの意味合いが強く、さらにヒーローも、実際に「敵(ヴィラン)」と戦っても、相手を殺すわけではなく、基本的には「逮捕」という手段に結びつける。

 このストーリーの主人公は、人類の8割が「個性」という名前の特殊能力を持っている現状で、無個性で生まれながらも、ヒーローへ強い憧れを持ち続ける。

 あるとき、「ナンバーワンヒーロー」から、「個性」を受け継ぎ、ヒーロー養成学校へ通うことになり、仲間とともに成長していく。

 「友情・努力・勝利」のテーマは、ここにも確かにある。

敵(ヴィラン)という存在

 敵(ヴィラン)は、アニメの中では、こう定義されている。

“個性”を悪用する犯罪者たちの総称。中には個性届を出していない裏の人間も存在する。

 アニメの中では、最近までは、この定義の中におさまるように描かれていて、そして、それなりの背景があったとしても、感情移入もしにくく、さらには、敵(ヴィラン)の中のリーダーのような存在も、背景がある、というよりは、とにかく「野望と力が大きい」存在として描かれているように見えた。

 そして、今は「ナンバーワン・ヒーロー」が自分の「ヒーロー寿命」を縮めてまで、戦い、そのリーダーは逮捕されている。ただ、殺されたりすることはなく、地下に拘束され監禁されている。(「羊たちの沈黙」以来、こうした設定は増えたと思う)

 だから、ヴィランは、あくまでも、ヒーローがヒーローであり続けるために必要な、敵としての存在に過ぎないように、視聴者には見えていた。

変化した印象

(注意:ここから先は、アニメ「僕のヒーローアカデミア」第5期 第111話。第112話のネタバレを含みます。もし、作品を未見で、余計な情報が不要な方は、ここから先は、読み進めるのを避けてくださるよう、お願いします)。




 だから、録画して再生して、なんとなく「今のヒーローものや学園もの」の典型的な作品としての興味みたいなもので見てきたし、コンプライアンスを守った安心できる作品だという印象だった。

 それが、急に、変わったのが、第111話だった。

 ここのところは一時的に「僕のヴィランアカデミア」というタイトルもついているらしく、いつの間にか、敵(ヴィラン)が二つの勢力に分かれ、戦っている。

 その一方のリーダーが死柄木弔(しがらきとむら)という、あまりにも「いかにも」な名前のヴィランだった。

 これまで、このアニメにも何度も出てきていて、だけど、その死柄木は、何か大変な過去があるような暗示はされていたものの、どこか陰に籠るような、まだ、それほど強力な敵(ヴィラン)として描かれていなかったように思う。

 「ヴィラン連合」のリーダーとして、いつも場末のスナックのような所で、少人数でたむろしている姿は、昔のドラマの不良のような佇まいだった。

 その死柄木は、敵対するグループの、とても強力なリーダーとの戦いの中で、昔の記憶が蘇っていく

 その内容は、これまでの「僕のヒーローアカデミア」という作品の枠を超えるようなものに感じた。

敵(ヴィラン)の背景

 その記憶は、死柄木の幼い頃のものだった。

 彼の「個性」は、破壊だった。
 それも自分の手で、触ったものが、全て壊れていく。人間ならば、あっという間に死んでしまうような「個性」だった。

 そのことで、本当に心から望んでいないとしても、飼っている犬も、姉も、祖父母も、両親も、死柄木が、結果として全員殺してしまうことになる。しかも、それがショックだったり悲しかったりするだけでなく、心が軽くなっていくような感覚さえもあったようだ。だから、より混乱したのかもしれない。

 それからどうしたらいいか分からず、さまよっていた死柄木に手を差し伸べたのが、今は地下に拘束されているヴィランのリーダーといえる人物だった。だから、絆は強い。

 その記憶は、おそらくは、あまりにも辛過ぎて封印されていたようだ。


 その記憶が蘇ると共に、自分の本来の破壊の能力も解放され、強力と思える相手は命乞いをして、死柄木の配下に着くような圧倒的な力を見せる。

 それは、町や市や、もっと広い地域まで、死柄木の力によって完全に破壊され、そこにいる生物は全て死に絶えるような、そんな次元の違う力で、こんなにすごい破壊力は、ここまでの、この作品では見たことがなかった。

(このストーリーが、アニメでは、第111話、112話と2話を使って描かれていた)。

 死柄木自分の家族を、自分の「個性」によって殺してしまった過去を持つ敵(ヴィラン)ということもはっきりし、フィクションとはいえ、これだけの背景を背負った上で、とんでもない力を発揮する存在というのは、善悪を超えて、とても魅力的に見えたし、アニメの視聴者としては、ここまでのストーリーの枠を超える存在になったように思えた。

これからの戦い

 この死柄木の爆発的な成長は、もっと以前から予定されていた、作者の意図通りだったのかもしれないが、視聴者としては、主人公のヒーローは対等に戦えるのだろうか。まして勝つことは、とても難しいのではないか、といった気持ちにもなった。

 それは、「あしたのジョー」という名作ボクシング漫画での金竜飛との戦いのことを、勝手に重ねてしまったからだ。

 「あしたのジョー」の物語の終盤、世界チャンピオンとの戦いに向かって、東洋太平洋バンタム級チャンピオンとしてジョーと戦ったのがだった。その金は、とても過酷な過去があった。朝鮮戦争の際、飢えのため、知らないとはいえ、自身の父親を殺してしまったという幼い時の経験だった。

 自分自身も少年院でボクシングを覚えた、という背景もあるにも関わらず、主人公のジョーは、途中まで、その金の過去に、精神的にも圧倒されるという展開だった。


 時代も大きく違うけれど、「僕のヒーローアカデミア」の主人公の緑谷出久(みどりやいずく)は、現代のヒーローらしく、とても優しい性格なので、敵(ヴィラン)とはいえ、死柄木のような過去を持つ相手と、どうやって戦うのだろうか、とは思う。

「個性」の破壊力としては、今のところは敵わないほどの差があるように見えるし、その上、この過酷な過去という背景がある敵(ヴィラン)に、視聴者も納得させるように勝つのは、「あしたのジョー」の時代よりも、より難しいのではないだろうか。

本質的な問い

 さらに、この「僕のヒーローアカデミア」のストーリーには、少しでも考えると、「本質的な問い」が潜んでいるのに気づく。

 それは、差別の問題だと思う。

 人類の80%が「個性」という、今の感覚で言えば「超能力」を持って生まれるとすれば、「個性」がない人間は「マイノリティ」になる。主人公の緑谷は、最初は、そこに出自がある。

 そして、その「個性」が世の中に役に立ち、戦いに有利な力であれば、「ヒーロー」になることもできる。それは生まれながらの「エリート」に近い。

 逆に敵(ヴィラン)と呼ばれる存在は、本当に、「個性」を悪用していると、言えるのだろうか。死柄木のような「破壊」の「個性」は、ただ使うだけで「悪」と認定される可能性すらある。同じように「能力」のはずなのに、社会の都合によって「個性」と「異能」に分けられる。

 それ自体が、差別と言えないのか。

 死柄木の「能力」も、例えば「古いビルの破壊」の現場などで使えば、立派な「個性」と言えるのかもしれない。

 だが、「ヒーロー」たちが、自分たちの「個性」を生き生きとフルに使っているのと比べると、もし、死柄木が「ビル破壊」をしたとしても、自分の「能力」をフルに使っているわけではないのだろう。

 この違いは、差別ではないのだろうか。

 「能力」自体が、生まれつきもので、本人には選択できないにも関わらず、社会の都合で「個性」と「異能」に分けられることが、排除につながり、そのことが「ヴィラン」を生んでいるのではないか。

 「僕のヒーローアカデミア」の社会構造そのものが、差別を生むように作用しているのではないか。

本質的な答え

 死柄木は、知性を感じさせる言動も多い。

 ただ破壊するだけでなく、このような「本質的な問い」も含んで戦いを挑んできた場合、破壊を止めるために、戦い、勝たなくてはいけないのだろうけど、ヒーローは、この「本質的な問い」に、どのように答えていくのだろうか。

 21世紀は、相手の行動が「悪」であっても、こうした相手を、力でねじ伏せるだけでなく、「本質的な答え」も出せなければ、本当のヒーローと認められないだろうから、主人公緑谷にとっては、とても困難な戦いが続くと思う。そして、その本質的な答えは、当然、21世紀の現実の社会とも無関係ではないと思う。

 だから、個人的には、これからの土曜日の放送が楽しみになっている。




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