平和と令成の狭間を生きる僕たちへ #002
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平成という時代
僕らが生きた時代は激動であった。
とはいえ、大きな戦乱や歴史的な大災害があったわけではなかった。どちらかといえば、人の根幹を成す思想の変化とも言うべきものであったように思う。
ちょうど私が生まれた頃に東西を隔てる大きな壁とバブル経済が崩壊した
その後の20年以上の間、経済は横軸の底を彷徨い続けていた。
バブルに生きた大人たちとは異なり、僕らは決して楽観的ではいられないのである。北国に住む人々が真夏の訪れを期待しないように。僕らはただただ吹雪の切れ間に安堵するのだ。
僕の周りで、お金を無為に使う人はあんまり多くない・・・ような気がする。
まあ、お金の価値観は人それぞれなんだけれども。少なくとも長期のスパンに於いてお金に対して楽観的な人はいないんではなかろうか。だって失われた20年を生き延びてきたのだから。
この一つの時代に生を受けて、また新たな時代に進もうとしている。平成に生まれたものが持っている価値観は、今後は時代の本流になりうる多大な勢力であると確信している。
しかして、その価値観さえもいつかは埃や黴にまみれた古臭いものに感じられるときが来るのかもしれない。
僕はそんな価値観を愛おしく、切なく感じるのである。人の価値観や感情は環境によって大きく影響を受けて多様に変化していく、その結果としての僕らがこれからの時代を率いていくのだから。
これは冷静と平和との中で培われて、やがて花開き始めた微かな狼煙である。目を凝らせば見える微かな訪れが多くの人に届くことを願うばかりである。
平成人のえとせとら
さて、これまでは平成人の価値観によって触れると言ってきたが、基本的にこれは特定の価値観について多数のサンプルから導き出された論文ではなく、「僕」という一個人のフィルターを通して感じた手記に過ぎない。
あくまでも参考として楽しんで頂ければ幸いである。
ただし、個人のフィルターを通していることを踏まえると、正しく理解するためには僕の価値観についても触れねばならないと思う。ここでは、書き手の一人称を「僕」として、三人称を「ヒロ」している。
改めて記載するが、これは平成と令和の狭間を生きた不可思議な世代の考え方のサンプルであり、リアルな問であり、悩みであり、そして10年後の僕たちへの挑戦状なのである。
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