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半世紀もブレない思想は何年待とうが手に入れたくなる魔力を持つ(ジムニー歴史館探訪)


マカロニ刑事はフロントグラスを倒して七曲署に乗りつけた

ショーケン(萩原健一)扮するマカロニ刑事が初めて七曲署に登場した時、通勤の足だったのは白いジムニ−360(初代LJ10)でした。カタログにもある様なワイルドなイメージは同年のフロンテ・クーペとは対極にある商用車。個人ユーザーなど想定にはなかったでしょう。
スズキの大ヒット商品、ジムニーが誕生したのは「太陽にほえろ」放映が始まる(1972)より少し前、西新宿にまだ京王プラザホテルしか高層ビルがなかった頃のこと。
ヨンクが個人所有のユーザーにRVとして認知されるのはようやく70年代も終わり頃になってからで、小型トラックのトヨタ・ハイラックスにランクル張りの四輪駆動メカニズムが追加されて口火を切ったもの。(これがハイラックス・サーフの始祖)
そもそもは北米西海岸でダットサン等小型ピックアップを四駆にするキットが売り出され、好評だったのを受けたもの。やがて三菱もいすゞもトラックのフレームを流用してレンジローバーの向こうを張ったワゴンタイプを商品化したのが80年代の初め(すでにジムニーは世代交代してSJ30となっていた)
以後のRVブームでは、ジムニーも軽を代表する4×4として人気の頂点にいたのは40代から上の世代なら先刻ご承知の通り。

実はこのジムニー、スズキが白紙から開発した訳ではなく半世紀前に自動車生産から撤退したホープ自動車という小さなメーカーが開発した四輪駆動車が原型。撤退を決めたホープは当初のエンジン供給元、三菱に製造権を譲ろうとしましたが、すでに三菱はライセンス生産のジープが存在し、交渉は不成立に。

パジェロの好調を受けて1995年に大ヒットした第2のジムニー(フレームは持たず1代で消えた)


もしもこの時三菱が縦に首を振っていたら、ジムニーよりも先にパジェロ・ミニが生まれていたのかも?これを製造権もろとも(完成車5台を含め)買い取ったうえ自社で製品化したのが当時の鈴木修常務(当時:のちにアルトの大ヒットを飛ばした元社長・会長です)。当時のスズキには自前のエンジンもフレームもリーフ・サスペンションもリア・アクスルも既存のモノがあり、前輪を駆動する等速ジョイントを初代フロンテで手がけていたことも背中を押しました。だから新規開発は前後トランスファーと前軸アクスルくらい。

シフトレバーはリンク経由で。白いノブがトランスファーレバーで前輪駆動を断続


これを加工しやすい平面的なボディで覆い、ホロのかけやすいロール・バーをビルト・インしたこともアイデア。販売は目論見を超えて順調に推移します。
この時代ダイハツからは限定生産でトラック改造車のサンド・バギーが生まれたり、ホンダからは屋根のない四人乗りトラック、バモス・ホンダが生まれたりとユニークなクルマ作りが出来たのも軽自動車が人気の絶頂にあったことを思い出させてくれます。中にはホンダ・ステップヴァンのように、目立たず一線を退いたものの後年その先進性が市場で高く評価され、今にしてみればトールワゴンの発想をいち早く取り入れていた「早すぎたパイオニア」だったことが思い出されます。

自衛隊の機動車としては納入してもらえない軽四輪のジムニーは、しかし少数とはいえ確実な需要をモノにしながら、水冷化、新基準に合わせた排気量・サイズアップ、初めてのフル・モデルチェンジ、再び軽の枠拡大と息の長いモデル・ライフで生き抜き、世界中に仲間(バリエーション)を増やし、若者向け人気車:フロンテ・クーペを遥かに凌ぐ生産台数を送り出しています。直近のモデルチェンジでは初代やSJ時代の面影も彷彿させるデザイン要素を取り入れたスタイリングが好評で、噂される5ドアモデルの生産になかなか取り掛かれないのだとか?

そんなジムニーの私設博物館があります。場所は神奈川のほぼ真ん中・用田という東西交通の要衝。すぐそばを新幹線が超高速で行き交う県道(中原街道)沿いにあります。(海老名、小田急江ノ島線等からバス路線も豊富)

初代ジムニー当時から修理、パーツ販売を手がけたアピオという会社が歴代ジムニーをレストアして行く過程で集まってきた個体をまとめて展示する施設。それが「ジムニー歴史館」です。歴代の主な車種が並ぶのはもちろん、ヒット商品のフォード・ブロンコ顔仕様や所ジョージさんも手を加えたジムニー・ツートーン仕様、プラスチックボディに換装したバージョンなど実に多彩。アピオ会長職に退いた尾上茂(おのうえ・しげる)さんのジムニー愛に溢れた空間です。

展示者の一部をイラスト化

半世紀前の初代LJは空冷2気筒エンジンで車重も超軽量、でも発売当初からその類稀なるポテンシャルは高く評価されていました。世界で唯一ジムニーだけが入り込める道、走破できる荒地が無数にあったと言われます。
ホンダ以外全ての軽メーカーが手がけた2ストロークエンジンは1985年までSJ30に搭載され、以降は4ストロークOHCやツイン・カムの時代になります。
今では車重が1トンを超えるまでに成長し、納車までモーガン並のウェイティング・リストが連なる大人気車種ですが、そのルーツにはしっかりとした開発思想があり、半世紀経ってもブレずに続いているのはさすがです・・・・・・

本来の生みの親、ホープ自動車が遊園地などの豆自動車を作りながらも2016年頃まで存続、しかしとうとう解散に至ったと言うエピソードには涙しました。

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