見出し画像

テレビという新興メディアに立ち向かうには?ラジオが仕掛けたリベンジ;~半世紀前からあったSNS ?

昭和20年代、東京や大阪に民間ラジオ放送局が相次ぎ誕生した少しあと、日本で最初のテレビ放送が始まりました。

・・・・と言っても高価なテレビ受像機を買える富裕な日本人はまだ全国で数百人しかいなかった時代のこと。そこでテレビ放送を普及させるべく当時開局間もない頃の日本テレビは、まず駅や大型店舗の人が集まりやすい場所に何台もの街頭テレビを設置してタダで大衆にテレビを見せようと目論みます。ま、今でいうとパブリックビューイング。でも所詮角の丸い、小さな白黒のブラウン管テレビでしたが。

最初のキラー・コンテンツはプロレス中継でした。大相撲出身のプロレスラー=力道山はたちまち国民的人気者に!集まりすぎた人だかりで二階の床が抜けたデパートや、駅の改札を制限した電鉄会社の逸話など枚挙に暇がありません。そうしてじわりじわりと普及が進むテレビに対して、次第に脅威を感じるようになったのは、まず映画産業でした。

まだまだ家庭にテレビが無いのが当たり前だった時代、お気に入りの石原裕次郎を見たければ映画館へ足を運ぶのが普通でした。人気作品の封切ともなればどの映画館も立ち見は覚悟の上、扉が閉まり切らないほどの盛況ぶり!今では考えられない黄金時代です。白黒画面のテレビと違って総天然色(=カラー)の大画面で裕次郎を拝める映画館は・・・・実はその数が限られていました。

当時は5社協定なるものが存在し、映画スターは各映画会社の社員、または専属契約なので他社の映画には出られませんでした。そこで我が社にも裕次郎に負けない人気者を、と各社新人スターの発掘に奔走します。高倉健や加山雄三、小林旭もこうして発掘された新人スターから出発しています。女優でいえば吉永小百合があまりに有名・・・・

そんな映画の黄金時代は(黄金週間=)ゴールデンウィークを除けば決して長く続くものではありませんでした。テレビが普及し始めると、お茶の間でドラマや映画を座ってタダで視られるようになるからです。テレビ初期から幾つもの人気ドラマが生まれました。事件記者という人気のドラマでは黒電話の受話器を左肩と顎に挟んで原稿を聞き書きする新聞記者の姿が全国で真似されるようになったものです。
音楽バラエティー番組からは幾多のヒット曲も生まれました。放送作家の永六輔が作詞を手掛けた坂本九の上を向いて歩こう、梓みちよのこんにちは赤ちゃん、コメディアン=渥美清のひとりモノetc。歌手には実力のみならずルックスも求められる時代の到来です。

アジアで最初のオリンピックが東京で開催された後、テレビにもカラー化の波が押し寄せます。カラーテレビにはより高感度の大きなアンテナが必要で、どの家がカラーテレビを購入したか一目でわかりました。大阪万博のころには多くの家庭でカラー映像の生中継を見守っていたものです。

反面、映画産業は目に見えて衰退の一途をたどります。子供たちに人気の怪獣を映画の主役に引っ張り出した東宝はいいとして、ゴジラとの契約がない他社はガメラやキングギドラといった対抗馬を擁立する必要に迫られます。松竹ではフジテレビの連続ドラマからスピンオフしたフーテンの寅さんが大当たり、シリーズ化させて定番商品に育てます。高倉健やクレージーキャッツらも数少ない大黒柱として映画産業を支えますが、日活はロマンポルノ路線に転換して新たなマーケット開拓を迫られ。大映はとうとうその歴史に幕を閉じざるを得ない時がやってきました。

皇太子のご成婚を見るために家庭に爆発的に普及しはじめたテレビによって、ラジオの聴取時間が割を食うのではないかと危惧されました。そこでラジオ各局は大きな方針変換を図ります。セグメンテーションという考え方です。

例えばお茶の間に集まって家族と一緒にテレビを見られない客層はいないだろうか?カー・ラジオをつけている職業ドライバーが運転中も聞いてくれそうな番組を作れないか?その様な固有のユーザーを特定した番組づくりが始まります。それまでは放送休止などの時間だった深夜の時間帯には長距離トラックのドライバー向け、或いは受験勉強中の若者に向けた番組が深夜放送という形でスタートします。受験生に向けた大学受験ラジオ講座などははっきりと聴取者層が限られたものです。でも、テキストを販売する受験専門の出版社がスポンサードしてくれるので、聴取者の数を競うことはそれほど求められません。

レコード音楽を掛ければ、簡単に放送時間が埋められますが、その選曲をリスナーに委ねてしまう、リクエスト・ハガキを募るというやり方を始めたのもラジオでした。葉書にはユニークな文面や思わず人に伝えたくなるような投稿も数多くあり、やがてこれが番組の中核をなすようになります。
番組スポンサーもいすゞ、日野、日産と言った自動車メーカーのみならず、広く家電や出版業界にまで広がりを見せます。セグメンテーションに依って顧客を絞り込めるのはスポンサーにとっても好都合なケースが多くなります。

ビートルズは70年に解散したあとでしたが四人のメンバーが夫々シングル曲をリリースするので,ヒットチャートは大盛況.ジョンレノンのイマジンもこうしたムーブメントから産まれた1曲でした。山本コータロー、南こうせつ、吉田拓郎、あのねのね、かまやつ ひろし (=ムッシュ)といった人気歌手に混じって放送作家の永六輔に愛川欽也、野沢那智、白石冬美といった声優や小島一慶、林美雄、土居まさる、落合恵子、斉藤 安弘(アンコウ)ら局アナや制作陣たちまでをもスターダムの座に押し上げ、あまたのヒット曲を世に送りだしたものでした。

こうして産まれた深夜放送は70年代に入って全盛期を迎え,文化の発信源にも、ヒット曲の発信サイトともなったのです。

その最大の特色は作り手がプロの放送作家の手から素人のリスナーの手に委ねられたことでした。単にリクエスト曲を希望するだけではなく、番組パーソナリティーに宛てたメッセージ、悩み事相談、クラスでの自慢話や恋愛経験などなど・・・・・リスナーにハガキでコメントを投稿するよう呼びかけ、聴取者の側が自ら発信する側となることで、ラジオは言わば掲示板のような役割を果たす・・・・・何処か今日のSNSにも似た機能を半世紀も前に築いていたことになる訳です。

テレビが居間や応接間の主役として家族に平伏を強いていた時代、ラジオはいち早くパーソナルなメディアとして、家族一人ひとりに個々に語り掛けるメディアとしての地位を確立、テレビから占有時間を取り戻すことに成功したのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?