お母さんが大好きですの。


子宮に大腸に盲腸に気管にetc…
オカンは若い頃からガン体質だった。
何回も何回も手術しては、
また違う場所にガンが生まれることの繰り返し。
本人は見ることができないが摘出した大量の臓器を見せられるたび、
「オカンの臓器、まだカラダん中に残ってんの!?」
冗談じゃなくそう思ってしまうほど、
ガンが転移する可能性のある臓器という臓器を全部取られていた。

今回の死因となったのは「盲腸ガン」で、
検査結果が出たり新しいガン治療法の承諾を家族に得るたび、
東京から遥か大阪の実家に戻って主治医から説明を受けた。

ある時のことだった。
また東京から大阪の病院に呼ばれた時、
いつもの治療方針変更の許可でなくオカンの主治医は言った。
「もう、長くはありません、余命にしてあと1ヶ月くらいでしょうか」
「瀧本さん(オカン)は3年間も頑張ってくれました」
「告知はしますかしませんか?」

せめてあと余命半年後くらいなら、
本人にも考える時間ややり残したことがあるかも知れないし、
半年間を有意義なものとして生きていけるかも知れない。
けれど、あと余命一ヶ月とあっては告知しないほうがいい。
オカンはかなり認知症も入ってきていたし、
きっと投げやりな気持ちになってしまうだろうと思ったからだ。

それが良かったのか悪かったのかは今なお私にも分からない。
だが娘としては無告知を選び、それで良かったと思ってる。

オカンは余命1か月の告知を超え、
それから3か月もの命を生きてくれた。
骨にまでガンは転移してオカンは一人で歩くことができず、
そして認知症が強くなっていく一方で、
訪問看護師さんをお願いしたが、
看護師さんの手助けは1時間くらいで、
あとはわたしが全部介護を引き受けることになった。
わたしは世間で毒親と呼ばれてもお母さんが大好きだったから、
介護はそんなにツラいことではないと思っていたが違った。

オカンはもう一人で立つことすらできなかったから、
メシやトイレの処理などもすべてわたしが担当した。
認知症になると子どもに返っていくのかワガママも増す。
それらを全部聞き入れていると眠る時間というものがほぼなく、
とにかく眠くて眠くて思考やカラダが言うことをきかなくなってきた。
よく「親の介護に疲れて命を奪う子どもがいる」と聞くが、
その気持ちがめちゃくちゃわかった。

ある日、オカンが夜中にベットから「痛い!痛い!」と転げ落ちた。
「ヤバい」と思った私は「24時間サポート」の看護師に電話するが、
「救急車を呼んでくれ」のマニュアル通りで、
「現状痛みを抑えるにはどうしたら良いのか」のサポートがないため、
「お前は自分の家族が痛みにのたうち回っててもそんなこと言えんのか!」
そうブチ切れてしまうものの救急車を呼んだ。
オカンは意識を失いかけていた。

盲腸ガンで何度も入院していたオカンだけど、
それが最後の入院となった。

時はコロナ終盤だったのだが病院などの面会にはとても難しい。
ただ、わたしは「オカンがもういつ死ぬかわからない」
そういう大義名分のVIP扱いで毎日30分ほどの面会が許された。

ある時は「痛い痛い痛い! 先生助けて!」とベットを転げ回り。
ある時は「誰ですか触らないで! 帰ってください!」と認知酷く。
ある時は「容子、○○先生がお金を盗んだりスパイをしている」と、
一番信頼を置いてきた先生を泥棒でスパイだと言い始めたり。
それでも毎日通った。
一日たりとも忘れず通った。
時々、記憶が戻っている時があった。
「容子か? 隣りで寝え?」と自分のベットを指した時は、
とても嬉しくて涙がうっかり溢れてしまい「ありがとうね」と述べた。

そんな日が最期の入院から1か月くらい続いたとき、
朝方、兄貴のスマホが消音だがバイブで延々と振動していた。
そして私のスマホが鳴った。
イヤな予感がした。
「おはようございます、お兄さんのお電話がつながらなかったので」
「おはようございます、母が、母がもう危ないんでしょうか」
「いつ死んでもおかしくない状況です、個室に移してよろしいですか?」
「よろしくお願いします、すぐ向かいます」
兄貴がいびきをかいて寝ているため「オカンがヤバい」と叩き起こし、
一緒に病院へと向かったが、こんな日も兄貴は泥酔中で酒臭かった。

シティホテルの一室のようなシャワー付きの広く清潔な部屋。
もうモルヒネも鎮痛剤も何もかも効かなくなったオカンだが、
そこには心電図をつけたオカンが目を瞑って恐らく眠っていた。

「人間、死ぬ間際まで聴覚は残るから声をかけてあげてください」
わたしの見聞きした人の死に際というのはそういうイメージだったが、
「目を覚ますと痛がるので声をかけないでください」
そう言われてたまらない気持ちになった。
酒臭い兄貴はすでに大きなソファの上でいびきをかいて寝ていた。

死は一瞬だった。
数時間、声をかけたい顔を見たい喋りたい衝動と葛藤していた時、
オカンの心電図の血圧が一気にゼロまで下がった。
そこからもまだ意識がありのも人間だと言うが、
オカンの心電図は一向に上がりも下がりも揺れもしないままで、
わたしは思わず「ウソやろ!?」と叫んだがウソじゃなかった。
潔いくらいの勢いで逝き、もう目を覚ますこともなかった。
9/24の早朝4時54分、オカンは息をひきとった。
74歳と少し早すぎる死の訪れだった。

お母さん、
お母さん、
お母さん、
もうあれから1年も経つんやね。
いまだに容子は貴女のことがくる日もくる日も恋しくて愛おしい。

お母さん、
お母さん、
お母さん、
毎日、貴女に温かい白米とお水を供えるため、
料理が苦手で「貧乏屋敷のお嬢」と言われた容子が、
米を炊くことが習慣になってメシを作るようになった。
「お母さん、一緒のお墓に入るから少し待っててね、大好きやで」
毎日、貴女の遺影にそう話しかけているけど聞こえているかな。
今日はたくさんお供物を頂いたよ。
お供えする時に貴女の娘は何回も「生き返ってや」と泣いてしまったよ。

いつも貴女を思う。
大好きだったオカンを思う。
これからもお母さんを思う。




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