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指先


とりとめのない話をここに綴る.

***

風が強い午後だった.
その人は意外にも静かに息を引き取った.


彼が眠れなかった夜を思い出す.
今日とは裏腹で,それは賑やかなものだった.

***

その夜,彼はもう2時間も3時間も叫び続けていた.
「背中が痒いよ!!!」
壁をどんどん叩きながら,助けを求め歩いている.

私はその背中を掻いたり冷やしたり塗り薬を塗ったり.
拭いたり擦ったりポンポン叩いたり.
挙句の果てには,ネットで「痒み 治め方」とか調べてみたりする.

あの手この手を尽くしてみたが,彼の痒みは治らない.
グーグル先生さえも,私たちに解決策を教えてくれない.


何をしても至らないと怒られる.

私は時々,「じゃあもう知らないよ」と諦めたくなる.


でもやっぱりそれじゃダメだよなーと思って,また歩み寄る.

この夜に限らず
私たちは日々そんなことを繰り返しながら時を重ねた.

笑ったり喜んだり,憤慨したり意気粗相としたり,意外と何も感じなかったり.

日光を求めて散歩をしたり,
お風呂に入るか入らないか長い時間議論したり,
髪を切って気分が上がったり.

そうやって過ごすのが,私たちの日常だった.

***

今日は私が介護職として彼にできる,最後のケアを行う.

冷たく血色のない彼の指先に触れる.

一つ一つ,温かいタオルで丁寧に拭いていく.

だらんとしたその手は,心なしか彼が生きていた時よりずっしりと重みがある.

それは,彼がまだここにいることを私に感じさせる.


カミソリを使って髭を剃る.

慣れない作業のさなか,自分の中指をざっくり切った.

あぁ,と思った次の瞬間
私の指先から血が流れる.

患部を心臓より高くし,圧迫するが止まる気配は一向になく,どくどくどくと.

重力に逆らいなお溢れ出る血.
それは,私がここに生きていることを私に感じさせる.


彼は家族に囲まれている.
娘さんは今日居室に泊まって,彼一緒に晩酌するのだという.


満月の夜だった.

晩酌日和にもほどがある.こんな日を最期に日を選ぶあたり,彼はセンスがいい.

***

彼の最期は,果たして,人に迷惑を掛けてどうしようもない最期だっただろうか.

彼は不幸せだったのだろうか.

施設に入ったら,認知症になったら,歩けなくなったら,
もうそれで人生終わりなのだろうか.


少なくとも彼は違ったのではないか.

家族に愛され,最期まで己を生きていたと,私の目にはそう映った.

だって,満月の夜に娘と呑むお酒は,どんなに高い酒より美味しいんじゃないか.

***

生きるとか死ぬとか,誰かをケアするとかケアされるとか,人を好きな気持ちとか.

そういうことを,私たちはもっと自然に捉えていいんじゃないかと思う.

***

ぼんやりしていると,帰る頃にはとっくに定時を過ぎていた.
満月が私の足元を照らす.


月を見上げて,
いいケアサービスワーカーになろうと思った.

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