見出し画像

ロフトにのぼる日 #8月31日の夜に

小学校4年生の頃、私はよくロフトに籠っていた。特に「おるすばん」の日は決まってロフトにのぼる。屋根が鉄板みたいに熱くなり、蒸し焼きされるロブスターみたいな気持ちになりながら、チラシのウラ紙とシャーペン、漫画と折りたたみ机と共に過ごす。

別に体に傷がつくような虐待をされていた訳でもない。なんなら2階にある5畳半の広い自分の部屋にはクーラーが付いていて、立派で大きな勉強机もあり、テレビゲームもできる。1階のキッチンに行けば冷たい飲み物や凍ったチューベットもあるし、ダイニングには家族共有のパソコンがあって、私はEasyToon製のGIFアニメやFLASHアニメ・フリーゲームなんかが大好きな生粋のネット好きのガキンチョだったので、しょっちゅうかじりついていた。

でも「おるすばん」の日は絶対にパソコンの前に座らない。パソコンの真横の扉が『いちばんけたたましく叩かれる』からだ。


我が家は両親共働き、歳の10近く離れた兄と姉のいる、それなりに普通の家庭だ。それと、認知症の祖母がいる。

家は二世帯住宅で、ダイニングにある扉を挟んで祖母の部屋がある。こちらからはサムターンの鍵がかけられて、向こうにはドアノブしかない。


おるすばん中、大好きなパソコンをしていると、突然扉が爆音で鳴る。扉が吹っ飛んでくるんじゃないかという位、手加減無しだ。「ともくん(兄・仮名)が財布を盗んだ」「バッグを取った」「まんじゅうを食った」などと怒鳴りながら扉をけたたましく叩くのだ。ドアノブをガチャガチャ捻る。叩くのも拳とかいうレベルではない。靴とかまな板でブン殴ってくる。

大の大人が手を焼く症状に、子どもの私が太刀打ちできるはずがない。いないふりをするしかない。そういうのが始まると、地震のあとみたいにドッドッドッと鳴る心臓を宥めながら電源を切って2階の自室にこもる。大きな音でゲームをする。ニンテンドー64のポケモンスタジアムのミニゲームだ。単純なゲームが多いので気が紛れる。


ちょっと前までは、母に「おばあちゃんと遊んであげて」なんて言われて、一緒にラッキーのたまごとりゲームをやっていたような。認知症って遺伝するって聞いたな。母もああいう風になるのかな。私もそうなるのか。なんて頭のウラでぼんやり思いながらLとRのトリガーを押す。ラッキーのたまごとりだけは本気で誰よりも強い。ひとつとしてたまごを落とさないし、ビリリダマのかわし方はプロのトリガーさばきだ。


怒鳴り声を聞きたくないので、大きな音でゲームをしていると、自分の部屋の外側の壁が鈍い音を立てて揺れる。また心臓がドッ、となる。外だ。1階の外から、祖母が怒鳴って窓やら壁やらを無茶苦茶に蹴ったり殴ったりしている。そっちの方のアパートには仲いい友達が住んでるのに。

うちはまわりの家からどう思われてるんだろう。じっと堪えてゲームを続けていると、音が遠ざかっていく。右回りに壁を叩いて回っている。祖母はめちゃくちゃ元気が良くて声が通る。敵?ながらアッパレだと思う。そして我が家は住宅地のド真ん中。右回りした先、後ろのマンションに知り合いはいないが、もう2つ右に回った正面のマンションにも別のクラスの知り合いがいる。ハリーポッターシリーズが大好きでマルチーズを2匹飼ってるお嬢様だ。気まずいな。


そうしてゲームを切って、自分の部屋の電気とクーラーを消して、シャーペンとチラシの裏紙をもって暑い暑いロフトにのぼるのだ。

おるすばんの日は、昼から親の帰ってくる夕方まで、10分〜30分程度の怒鳴り休憩を挟みつつずっとこんな感じだ。もちろん歳の離れた兄や姉は「それを分かっているからこそ」「働けるからこそ」家には居ない。親は毎日、「るすばんさせてごめんねぇ」という。

ずっと働きたいと思っていた。働ければ自由なのに。電車で図書館に行けるし、マックでポテトが食べられる。ゲームセンターにもいけるだろうなと。


あんまり覚えていないのだが、おそらく4年くらいはそんな事が続いた。中学にもなると、受験勉強という大義名分のもと、塾に籠り切りになれるからよかった。部活、夏期講習、18時すぎに晩ご飯を食べ21時までは画塾、移動して23時までまた塾に籠って一問一答を解いていた。当時の塾の先生には迷惑をかけたなと今になって思う。だけれど、家にいなくて良い時間は全てを忘れられて心地よかった。

ややあって、祖母は住み込みの介護老人ホームに入る事となった。祖母は元気なので何度か脱走をした。窓の格子をぶち壊し、高い塀を乗り越えて丸2日行方不明になった日もあった。(めちゃくちゃ元気に生きてた。)今なら笑える話だが。



去年の元旦。祖母が亡くなった。

イベント業に勤めていたので、正月なんて猫の手も借りたいほどの大忙しだ。上司にめちゃくちゃ謝罪して、夕方頃に上がれる現場に設定してもらい、仕事終わりにお通夜へすっとんでいった。


私の不在の間に祖母の思い出の品が葬儀場に運ばれていた。社交ダンスの衣装やお琴など。「なつかしい」と言って兄がうなだれていた。私の知らない祖母の姿だ。

通夜の間、夜遅くまで生前の祖母の話をし合っていた。ハツラツとしていて、お洒落が好きで、50を越えてもレオタードが似合ってしまう、ボンキュッボンのナイスバディ。そしてビジネスホテルのベッドメイクを光の早さでこなす敏腕な働きマン。女性でもヒィと思うような、先のとがった高く細いヒールを履いて踊ったダンス。習い始めたのは60歳手前頃だったという。別の人の話ではないかと思った。だって私は下駄で扉を叩く祖母しか知らない。


通夜で私が話した話題といえば、「訪問販売」の話だ。

「浄水器。買ったじゃない、ボケてから。5万で。それで、ブラックリストに載っちゃったでしょ。留守番してて、しょっちゅうワケの分からない人が訪問販売にきた。おばあちゃんはすぐ家に招き入れてお茶を淹れてた。うちのみんなは『気が狂った奴』として扱うから、おだてられるとそりゃ嬉しいよね。」

「それである日、ダイニングの扉をバンバン叩かれて、出たら、おばあちゃんのすぐ後ろに知らない人がいた。『鍵の業者』だって。裏口の扉の鍵をみせてほしいと言われた。断ったけど『ばあちゃんの言う事が聞けないのか!』と怒鳴られた。渋々通したが、『おるすばんとはこの家を守る事だ』となんとなく理解していたので、めちゃくちゃ業者にガンとばして間近で見守った。鍵に触れたり、写真取ったり、とにかく犯罪に繋がりそうな行為をしたら頭をカチ割ってやるという殺意を込めて見届け、インターホンの録画に顔がちゃんと写っているのも確認して、「顔と名前をしっかり覚えました」「録画も残っています」「いつでも私が家にいます」という事を相手に伝えて帰した。小学校4年生にできる最大限の防犯だったと思う。けれど、業者には強く出れても、オカンにはあまりにも気が弱かった。家に人を入れたなんて怖すぎて言えなかった。24歳になるまで黙っててごめん。というか、今まで忘れてたのだけど。」

その時さえ「これは怒られる話だな」と思った。なんたって通夜だし、14年前の大失態である。

だけれども、母に初めて「それは…すごい重荷を背負わせちゃっていたねえ」と言われた。ほんとうにはじめて『おるすばん』を褒められた気分だった。14年を経て4年生の頃の自分が褒められた。自分の中で鬱屈としていた何かが、少しだけスッと抜けた気分だった。


晴れて、家を出て地元を飛び出し、自立できるようになったのは、その3ヶ月後だった。小学校の頃から憧れていた、家を出る事。兄と姉はとっくの昔に家を出ていた。家を出るなら、職に溢れない関東が良いと決めていた。なけなしの給料を2年間貯金したうち、3分の1がふっとんだが、本当に嬉しかった。母から介護の愚痴を聞くのが役目だったように感じていたので、そういう所でも、ひとつ、長い役目を降りた気分だった。


別に祖母が悪いわけでも、母が悪いわけでもない。ただ、ただ何かがずっと、うまくいっていなかった。そういう10代を過ごしてきた。そういう10代だったからこそ、「なにかが何だかうまくいかない」人の気持ちをすこしは理解できるように育ったと思う。そしてその力はきっと、不便無く生きるだけでは手に入らない、大事な力だ。

そう思うしかない。としか言えないけれど。


こういう個人的かつネガティブな話はオチのつけ所が難しいですね。


今、ロフト付きの部屋に住んでいますが、ロフトには全然のぼりません。

だってあついんだもん。



おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?