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ガンジーの愛読書

昨年の今頃、ガンジー自伝なるものを読んだ。


その中でガンジーが読んでいた本、バガヴァット・ギーターというものがとても気になった。

・・・ですが、ガンジー自伝を読み終わると同時に、そのまま私の記憶から、そのことは一年ほど忘れ去られ・・・(それ、気になってる本と言えるのか?笑)

今年ようやく、「気になっていた」ということを思い出し、それを読んだ。

バガヴァット•ギーターとはサンスクリット語で「神の詩」を意味する、インドの古い聖典である。

主クリシュナ(ヴィシュヌ神の化身)は、すべての人は、プラクリティ(根本原質)=現象界全体から生ずるグナ(要素)により否応なく行為(生命活動)させられている。

その行為をヨガを通じて行え、と説いてる。

全世界で、聖書に次いで二番目に読まれている書であるらしい。

私は、先月からクンダリーニ・ヨガを始め、真剣にヨガの精神を理解したいと思っている。

ちなみに、クンダリーニヨガを教えて頂いている先生は、こちらのnoteでお知り合いになった、エイミー先生です。

私は、初めて先生の記事を読んだ時、本物の勇者や・・・と、武者震いしました。

ご興味あれば、ぜひ先生の記事読んでみてください☆

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せっかく習慣として行うヨガなので、

ヨガを行っている時、または日常生活でも、

自分の気持ちや感情を平常心に、

そして、ヨガの捉え方、

マントラを唱える時の心の持ち方、

などなど・・・

少しでも本気で、純粋に、行為したい


そんな、私のようなヨーギン(行為のヨガをする者)のために、18章からなるバガヴァット・ギーターの素晴らしい名言を抜粋しました。

(物語のあらすじは複雑すぎるので、興味があればご自身で調べてみてください。すみません・・・)

では、

私の勝手な「名言集」 

スタート!


第二章より

・人は古い衣類を捨て、新しい衣類を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。

・生まれた者に死は必定であり、死んだ者に生は必定である。


・万物は始めは顕在せず、中間が顕在し、終わりは顕在しない。ここにおいて何の嘆きがあろうか。


・あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはならない。また無為に執着してはならぬ。

・執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。


・知性をそなえた人は、この世で、善悪をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。

・意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら(アートマン)(自己の根源)においてのみ、満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。

・すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は静寂する。
これがブラフマン(梵)(ぼん)(宇宙の根源)の境地である。この境地に達すれば、臨終の時においても、ブラフマンにおける涅槃(ねはん)(ニルヴァーナ)に達する。

第三章

・アルジュナはたずねた。

「人間は何に命じられて悪を行うのか。」

聖バガヴァットは告げた。

それは欲望(カーマ)である。それは怒りである。激質(ラジャス)という要素(グナ)から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。

・感官と思考器官(マナス)と思惟器官(ブッディ)(「決める」というこころのはたらき)は、激質(ラジャス)の拠り所であると言われる。
それは、知識を覆い、主体(個我)を迷わせる。

・それ故、まずは感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なものを捨てよ。

・諸感官は強力であると言われる。思考器官(マナス)は諸感官より高く、思惟機能(ブッディ)は思考器官より高い。しかし、思惟機能の上にあるもの、それが彼(個我)である。
このように、思惟機能よりも高いものを知り、自ら自己(アートマン)を確固たるものにして、勇士よ、欲望という難敵を殺せ

第四章

・願望なく、心身を制御し、すべての所有を捨てた人は、ただ身体的行為をなしつつ、罪に至ることはない。
たまたま得たものに満足し、相対的なものを超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。

・信頼を抱き、専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高の静寂に達する。
知識なく、信頼せず、疑心ある者は滅びる。疑心ある人には、この世界も、他の世界も、また幸福もない。
『行為の』ヨーガにより行為を放擲し、知識により疑惑を断ち、自己を制御した人を、諸行為は束縛しない。

第五章

『行為のヨーガに』専心した者は、行為の結果を捨て、窮極の静寂に達する。専心しない者は、欲望のままに、結果に執着して束縛される。

・賢者は、学術と修養をそなえたバラモンに対しても、牛、象、犬、犬喰に対しても、平等(同一)のものと見る。

第六章

自ら自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。

・親しい者、盟友、敵、中立者、中間者、憎むべき者、縁者に対し、また善人と悪人に対し、平等に考える人は優れている。

第十六章

・欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる、三種の門である。それ故、この三つを捨てるべきである。

第十七章

オーム(聖音)タット(それ)サット(実在、善)は、ブラフマンを指示する三種の語であると伝えられる。

・それ故、ブラフマンを説く人々の場合、常に「オーム」と唱えてから、教令に述べられた祭祀と布施と苦行の諸行為が始まる。

・解脱を望む人々は、「タット」と念じて、果報を意図しないで、祭祀と苦行の諸行為や、種々の布施の行為を行う。

「サット」という語は、実在という意味と、善という意味で用いられる。また、「サット」という語は、讃えられる行為について用いられる。



ちょっと休憩・・・


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↑昨年開催されたバンクシー展より。

現代の、商業合戦になっているクリスマスをバンクシー風に、痛切に表現すると、こうなるらしい。

キリストは、この日を「イベント」化するために磔になったのではない。

現代アートにはあまり興味をそそられない私ですが、バンクシーの、ユーモアたっぷりでメッセージ性のある作品は大好きです。


さて、バガヴァット・ギーターも少しは理解し、ヨガに於ける心の在り方も何となくわかり、

私は、細く、長く

ヨガを行為していきたい。

と思う今日この頃です。

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