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学び、巣立ち、成長

「今日が来るから明日が来る様に、今日の自分が明日の土台になる」という考えがあったとして、多くの人は異論ないだろう。

さて、成長とはコツコツと連続した道をいく様なものか? そうではなくて、一束跳びに途絶した道や断崖からジャンプする様なものか?

子供を見ていると急に成長する瞬間がある。「子、三日会わずば刮目してみよ」(三国志演義)ってやつだ。

ボルノーや実存主義的教育論の興味深い点は、後者の立場に立ち、成長における連続性を否定(!)したところにある。

であれば、成長のためにどうやって「できない」事を与えるか、が教育の一つの目標となる。教育のデザインとして「不連続性を継続的に与える」とも言えるかもしれない。

不連続なものをうまく与える。これを乗りこえる過程は、その不連続の幅が狭いものであれば、遠く離れたゴールからみれば連続とも言えるかもしれない。児童学習塾の非常に緻密にデザインされたステップなんかはまさにそれだ。

でも僕はそこに違和感を感じる。

教育は、細やかなステップを提供する事が目標なのだろうか?例えば、鳥が巣立つ時に、着地するための足場がいつも見えているのか?

子供の成長や学習の初期にはそれで良い、あるいはその方が良いのかもしれない。遠すぎる目標は幼いものにとって多くの場合、難しい。

巣立ちの時、着地する足場は見えない。
遠く希望に満ちた想いを胸いっぱいに、明日を確信して羽ばたく。この着地点の見えない羽ばたき!勇気と不安に満ちた旅立ち!居心地の良い巣穴(親元)から離れ、自分は自分である事に気づく。思春期とも言う。

そうなると、教育は大きなジャンプを成功させる為に、飛幅を小さくする事だけではなく、未知の到達点へ一歩踏み出す勇気を育む事も必要ではないか?

当然、思春期と同じように、新しい知識に飛び込むに際して、反発や不安、拒否もあるだろう。しかしその過程にこそ教育の介在する余地があるのではないか?

安全で受けの良い、小さなステップの繰り返しが到達する先は、目に見える範囲だけに思う。

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