医学教育、地域医療、生きる

気づいたことを備忘録的に書きます。

室蘭の景色

正しい選択

「あの経験があったからこそ今の自分がある」と言う人は多い。旅の終わりや節目となる俯瞰的な地点から、過去の自分を読み解いて結果だと思う。

研修医や医学生の相談に乗っていると「これ今やる事にどれだけの意味があるんですかね」「キャリアプランとして、この選択は正しんですかね」なんかよく質問されるけど、「それは君の生き方が決める」と答える様にしている。

少し突き放した言い方をすれば、高校で習った数学が役に立たないと言う人は、そういう生き方をしているだけだ。選んだ後の事に自分で責任を持ち、努力する事で初めて結果が生じる。そして、その結果を将来のあなたが意味付する。

受験勉強は少し違う。一定の基盤となる能力があれば、よくデザインされたステップを踏めば必ずゴールに辿り着ける。これが受験システムの根幹である。他の人が準備したステップであっても、、である。つまり努力できる意思の強さと経済的余裕があればある程度はみんなそこに辿りける。だからこそ、受験と言うシステムが人と人を比較する事が許されている。

研修医や医学生諸君に言いたい事は、社会に出たらゴールは人によって違うし、努力の仕方も人それぞれと言う事だ。自分で何かを選び、選んだものに誠実に向かい合い努力する事!受験の様にゴールから逆算的に進む道は示されない。正しいゴールって何なのって思う。自分で方向を定め、切り開き、振り返り評価し修正して、また歩き始める。

何かを選ぶ事は何かを失う事でもある。選ばれたものに意味を見出せず、次の選択に繋げられなかったら、どんどん進路は狭まっていく。選択することの責任、努力することの責任を他人に押し付けることを大人社会は許さない。

こう考えると、進路を選ぶ事の難しさを考えてしまう。足がすくんでしまう。長い道のりの先に初めて努力が回収されるような進路は忌避され、お手軽で確実ですぐに回収できる報酬と、それを担保してくれる進路が選ばれる。でも、それでいいのか?長い道のりの、だれも見たことのない道を行き、役に立つかわからないところに辿り着いたとしても、「よくやったな、俺」と”歩いた意思”をいたわるような、そんな人生もあってもいいように思う。

高村光太郎の「道程」を読みながら、流れる車窓からの景色にふと思いました。



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