ゆらぎと境界/響け!ユーフォニアム3 六話

 六話のサブタイトルが、
「ゆらぎのディゾナンス」

 ディゾナンスは不協和音という意味だが、部としては、府大会の選考も終え、本番に向けてまとまっていく時期。

 登場人物の瞳の色が気になった。同じパートでいえば、部長の久美子は、瞳が明るく、そのなかの円い影が青い。逆に、三年からの転校生の黒江は、瞳が青く、影が明るい。つまり光と影の色が逆だ。二人の対比は色々なところで描写されているが、久美子にとって、黒江は漠然と不安な存在として描かれる。それも久美子だけにみえる霊のように。久美子のその恐れは、今のところ、視聴者も置き去りにして、久美子だけのものだ。

 部としても、久美子との関係としても、黒江が不協和音となっている感じはなく、ただ何となく部外者として描かれるに留まっており、一期二期を通ってきた視聴者としても、黒江はそういう姿で捉えられる。Xとしての不気味さは多少あるものの、主人公のライバルとしても、未だ物足りない。つまり一話で登場した黒江の姿が六話でも不十分な姿しか与えられていない、物語として乗り切れていない葛藤そのものが、部長である久美子の葛藤として、表現されているのではないか。


 視聴者としては、久美子を物語の擬人化と見てしまうが、久美子としては、そのように見られることに対する不安を抱えて、出力されているのではないだろうか。彼女の心はどこにあるのだろうか。部長として奔走するあまり、一人の高校生としての状態から乖離しつつある、音楽を楽しむ本当の心が彷徨っている、そうした漠然とした不安が、サブタイトルに名付けられた、ゆらぎの正体ではないか。では音楽を楽しむ心とは何なのか?

 廊下を歩いているときに、別の教室の窓からふと見ると、親友の麗奈の、後ろ姿や、そこから出る後輩を指導する口調は、顧問の滝先生そのものであり、彼女が物語の心ではなく、強い部の姿として、つまり全国大会で金を取るための擬人化として描かれている。そこには、シーンとしては描かれていないが、窓から覗く久美子のゆらぎの表情が想像できる。


 勝つために、情は切り捨てて、金賞に向かって突き進む部の姿は、高校生として健全といえるのか? そういったゆらぎが、久美子にはあるように思える。例えば、府大会のための選考。一年生の初心者が、二年生を押しのけて、代表入りした件。楽器のうまさでいえば、二年生の方なのに、 

 
 合奏のメンバーとしてだと、その一年の音量の方が勝る。ただ、技量としてはまだ拙いので、難しいところは、任せないようにする。つまり、彼女の音量だけ消費して、本番で難しいところを吹く機会や育つべき音色は、後回しにする方針だ。つまり金賞を目指した合奏のための、使い回しだ。顧問の滝のそうした方針に、久美子は思わず、


『滝先生は、わたしたちを全国に連れていってくれるんですよね』

 と少し不安げにこぼしてしまう。その感じは、前で引っ張ってくれる人があったころの、つまり後輩だった久美子に戻った感じがする、発言だが、すぐに気がついて謝っている。


 その滝の目の色も、麗奈も、黒江と同じく、瞳が青く暗い。大人の暗さでも表しているのだろうか。つまり割り切りを必要とする暗さだ。ちなみに、府大会の舞台裏の掛け声では、麗奈は久美子を逆の腕を上げている。


 もしかすると、黒江は久美子のライバルではなく、並走すべき良心なのかもしれない。黒江そのものが、物語としての良心であり、つまり楽しむ心である。顧問の滝を神格化して、部が勝つための集団として足並みが揃っていくなか、黒江としっかり向かい合う機会が、今後の久美子に訪れるのかもしれない。



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