何を信じるか。私はADHDは信じない。

今、この言葉は頻繁に聞くようになった。
私の息子が疑われた12年前はまだそんなに頻繁に耳にする言葉ではなかった。


息子が園長先生に疑われた時私は息子がADHDだと受け入れなかった。


セカンドオピニオンで訪れた子供病院で
年齢がまだ3歳であること、そして「グレー」であることを告げられ
そこから息子はADHDかわからないまま15歳になっている。

正直私は息子がADHDかどうかは興味がない。

今、受け持っているクライアントさんA君も
息子と同い年でADHDと診断されているとのこと。

私はクライアントさんがADHDであろうとなかろうとどうでもいい。
なぜなら、
「A君はA君」
ということだけだからだ。
どんな診断名があろうと関係ない。

「息子は息子」
なだけであって、たとえADHDだとしても
息子には変わりなく、息子を受け入れるだけだと思っているからだ。

ADHDの息子でも、そうでない息子でも、
私のお腹にいて生まれてきた唯一無二の存在ということには変わりはない。

だから、ご家庭や学校で辛い思いをしてきたA君も
私はこれからもっと幸せになれると信じている。


今の彼は厳しく育てられ、怒られ続けてきた。
誰も褒めてくれないし、どんなふうに人と接していいかも知らない。
親も先生、大人は具体的なことは教えてくれず
ただ「なんでちゃんとやれないのか」と咎めるだけ。

唯一の味方のお母さんは
息子が落ち着くようにと処方された薬を飲ませている。

こんな状況で自分の思い通りに行かなくて、自分は頑張っているのに
怒られ続けるなんて、そりゃイライラするよ。
それで
「あの子はADHDだ」
なんてたまったもんじゃない。


大人が子供をADHDにしていると私は考えている。

もちろん私は専門医ではない。
お医者様からすると
「何勝手なこと言ってるんだ」
とお怒りになるかもしれない。

ただ私の持論は、子供は親や大人にADHDにさせられると思っている。

ADHDになるような子育てをしていないか?と、問いたい。

怒りすぎていないか?
ちゃんとしなさいと毎日言っていないか?
周りと合わせるよう言っていないか?

これをやりすぎると子供はいくらでもADHDになる気がする。
だから私は、ADHDとは単なる状態を表す単語だと思っている。

私は子供たちの存在を受けれることが1番だと感じている。
字が書けなくても、座っていられなくても、
野球が上手くならなくても、学校に行けなくても
子供たちは子供たちで
自分たちで考えて、最善の選択をしている。
ただそれが無知ゆえに大人から「違う」と思われるだけかもしれない。

もっと大人は子供を受け入れるべきではないか。
子供を否定しすぎていないか?
これが私の持論だ。

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