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私について_6

前回からの続き。就職・結婚・別居・出産編

自分のwebsiteに載せていた自伝のようなものをnoteで少しずつシリーズものの記事としてアップしています

就職と結婚

就職は、周囲の友人たちの声を参考にしつつ、ARTとも関係がある外資系金融機関がいいかなぁという理由で決めた。

正直、実家のトラブルのストレスが大きくて、今後の人生においてどのような仕事がしたいのかわからなくなっていたのだが、運よく拾ってもらえた。

気がつけば、私は24歳になっていた。

すると、母から「早く結婚しなさい」という連絡が来るようになった。

連絡の頻度はエスカレートしていき、しまいには母は当時付き合っていた彼にまで個別連絡をして結婚を促すようになっていった。

最終的に、私はノイローゼになり、それを見かねた彼が折れる形で結婚が決まった。

実は、母も祖母から同じことをされていたことが後になってわかった。25歳までに結婚できないと大変なことになると思い込んでいたようだ。

2人とも結婚するつもりがない中での結婚だったが、もともと付き合っていた相手でもあるし、最大限の努力をして幸せな家庭を築いていこうと私は思っていた。

しかし、私の予想を遥かに超えるレベルで2人の価値観はズレていた。

私は一緒に家庭を築いていくという前提で結婚をしたつもりだったのだが、彼は違っていた。

彼は現代美術のアーティストであり、そもそも家庭という枠には到底収まりきらない人であった。

結婚生活は、私のイメージするものとはかけ離れていたが、気合と努力と根性で何とかなる!と、当時の私は自分の力を過信していた。

幸いなことに職場の環境に恵まれ、温かい雰囲気の中働けたことは救いになった。家のストレスを会社で癒すような日々が続いた。

月日が流れるにつれ、私の負担は増していった。

生活費と家事の負担だけではなく、気がつけば彼の展覧会に出すための作品を制作し、ギャラリーとの調整や作品のコンセプトにも私が関わっていた。

「あれ?全部、私がやっている・・・?」

私はまるで自分の背中に彼をおぶって生活をしているような不思議な感覚に包まれた。

次第に私は、何の為に生きているのかわからなくなり徐々に鬱状態になっていった。


25歳の私には背負いきれないものを背負ってしまったような気がした。

この生活が一生続くのだとしたらと思うと涙が止まらなくなり、出かける気力もなくなった。

彼に「私は心療内科にかかった方がいいレベルな気がする」と相談するも、受診を反対され、ますます私は根性を振り絞り自己犠牲的に生きるようになった。

お互いに望んでいるわけではないにも拘わらず関係性はどんどん悪化した。それを、止めることは出来なかった。

ある日、限界が訪れ実家に相談した。

その際「離婚だけはしてはいけないよ。もっと努力できると思う」と言われ、私の中の何かがプツンと切れた。

自分の家族、彼の家族、彼に深い怒りを感じる一方で、私の内側には虚無感が広がっていった。​そんな中、転機が訪れる。

イギリスへ

生活に限界を感じながらも、何か可能性はないかと悩んでいたところに、リーマンショックの影響を受け、早期退職の話が舞い込んできた。

条件を聞くと、目玉が飛び出る程の好条件であった。

ある種の極限状態に達していた私は「これで、彼を養いながら別居できる!!」とよくわからない理由で即退職を決めた。

別居するなら、きちんと冷却期間が置けるようなるべく遠い場所、そして私のやりたいことが出来る場所、さらには彼の仕事を手伝うのに役立つスキルが身につけられる場所に行こうと思った。

それが、ロンドンだった。


​色々な面で私は自己犠牲的に生きすぎており、それ以上いくと取り返しのつかないことになりそうだった。

別居のことを彼に相談したら反対されるとわかっていたので、全ての準備を水面下で終え出発の直前に伝えた。

彼との大喧嘩の後、私はロンドンに旅立った。

ロンドンでの生活は満身創痍の私にピッタリな、冬のどんよりした季節から始まった。暗く小雨の多いロンドンで、クラスメイトは気が滅入っていたようだが、私にとってはその暗さが心地よかった。


​一人で勉強したり散歩をしたりするのが好きだったが、新しく出来た友達と出かけることも好きだった。

日本では誰にも相談できなかった夫婦の問題や実家の問題についても、英語の勉強がてら色々な人に話してみた。

私の話を聞いた彼らは「キミはプリズンブレイク(脱獄)してきたんだね!」と冗談交じりにハグをしてくれた。

そこで、私は育った環境や結婚生活が、いわゆるDV(ドメスティックバイオレンス)だったということに初めて気がついた。それに気がつくと、不思議なことに気持ちが楽になった。

DV被害者は自分が被害に遭っていることに気づかない。

DV加害者も加害者である自覚がない傾向があると聞いたことがあったが、本当にそういうものなんだなと思った。

ロンドンで暮らしている間、これまでの人生をしっかり振り返った。
体調や精神面は日に日に回復し、再びARTを探求する日々が始まった。​至福の時間だった。

アートマネジメントのクラスでは、久しぶりに巨額のお金の動きを感じた。クラスメイトの半数以上は普通に暮らしていたら出会わないだろうなぁという感じの人たちだった。

世界の超富裕層1%が資産の37%を独占しているなんて言われているけれど、それを目の当たりにする感じだ。

しかし、そういった人達がアカデミックなものを真剣に学んでいるところに救いも感じた。

1年のロンドンでの生活を経て、私の心は癒され、DVを克服してもう一度結婚生活をやり直せるかもしれないという思いに至った。

私の人生において取り組むべき課題に思えたのだ。DVに関する海外の文献を読み漁り、帰国した。

妊娠と絶望

帰国直後、1年の別居期間を通じて、夫婦の関係性を見直して再スタートを切れたように思えた。

しかし、私の妊娠発覚を機にその幻想は崩れ落ちた。大黒柱である私の妊娠は歓迎されなかった。​

歓迎されないまま結婚生活を続けることは、私にとって大きな怒りと痛みを伴うものだった。

妊娠には喜びや祝福があるものだと思っていたが、そうではない世界があることを知った。

私のように辛い妊婦さんも少なからずこの世にいるのだと思うと余計に胸が痛んだ。私はこの経験をしたことで、はじめてこの歓迎されない妊娠という視点を得た。

それでも、結婚生活の存続の可能性を最後まで模索し、我が家に似た事例を扱った論文はないかと探しては読み漁った。

多くの論文を読んだ結果、この結婚生活の問題の原因は、お互いの生育暦にあるという可能性に行きついた。

自分たちを超えて、親や先祖から持ってきている問題というレベルになってくると途方もない感じがした。

私の努力で家庭の問題を解決できると思っていたが、夫婦の関係性は別居前よりも悪化してしまい、このまま結婚生活を続けることに少しの希望も可能性も見いだせなくなっていった。

​​彼に悪気はないことは理解しているものの、DVは私の許容範囲を超えていた。打てる手は打ち尽くして、もう何の手も打てなくなった。

妊娠後期、私は荷物をまとめて家を出た。
里帰り出産をするという名目で実家に戻り、今後の人生について考えた。

たまに彼が名古屋に立ち寄った際に会うことはあったが、会う度に私の身体に激しい悪寒と吐き気のような発作が起こり、関係性の修復は無理だと悟った。

そんな中での出産だった。

陣痛がきた時、病院には母が付き添ってくれたが「痛い」という言葉は一言も発しなかったと思う。

陣痛はかなり痛かったのだが、平気なふりをして「大丈夫」と作り笑いをする自分がいた。

思い返せば、母に甘えた記憶というものがほとんどなかった。出産という場においても、私は頼り方がわからなかったのだ。

無事に生まれた娘を見た時「この子にはのびのびと自分を生きてほしい」と強く思った。そのためには、私自身が根本的に変わる必要があった。

あまりにも過酷な妊娠期間であったこと、とても孤独を感じていたことから、娘を愛せるのか不安だったが、生まれた瞬間から、彼女は私にとってかけがえのない存在になった。

別居をしたまま、​娘が3ヵ月の時に離婚した。

私の実家は離婚やシングルマザーに対する偏見があったため、離婚後の姓を旧姓に戻すことが出来なかった。

今でも、シングルマザーであることを理由に差別されることはあるけれど、自分の家族に一番差別されたことで免疫がついたように思う。
(今は差別されていません)

離婚後、大きな絶望感とともに実家を出た。

シングルマザーとしての人生が始まった。

続きは、また明日!

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