夢のまた夢


その昔沖縄で生まれた
自らの身を素手で守る護身術があった

それが発展し今日の空手道につながる

僕も小学校3年生くらいから
知り合いの先生の道場に通い
長年稽古に励んだ

その時の映像は
なぜか鮮明に覚えているが
その知り合いの先生(助教)が
なぜか恐かったらしく

その先生の日は
毎回泣いていた

ベースが泣き虫なもんで
直感的にイカつい人を見ると
毎回泣いていた

そんな手のかかる小坊主に
その先生は優しく
時には厳しく接してくれた


その頃の経験は
その後の人生に置いて
自分の考え方の原液になっているかも


道場に入る時は必ず一礼し
道場内にある神棚にも礼をする

これは小さいながらに
目に見えない神様の存在を意識し

見に見えない物に対して
頭を下げるクセがついた

それから後に
"お陰様"という言葉を知り

目に見えないところで
自分を支えてくれている人へ
頭の中で頭を下げるイメージを
持つようになった


先生のお話の中でよく聞かされたのが

"一に礼儀、二に礼儀、三四が無くて、五に気合い"

というリズム句

これは先生によって少し内容が変わってくるが
どの先生もまず1番目に"礼儀"を持ってくる


空手と言えば
格闘技のイメージが強いが

格闘技をするにも
身体的な鍛錬だけでなく
精神面の鍛錬も必要になる

その上で礼儀というのは
相手を敬う気持ちを常に意識する
体に刻み込む所作のタトゥーのようなものだ


これは後に
"感謝"または"謝々"という言葉を知り
サンキューとソーリーを混ぜ合わせたような
独特な相手への敬いを持つことになった


またこんな話も聞いたことがある


一から始まり十を知り
一へと帰る一つかな

これは以前の記事にも書いたかもしれないが
その昔空手を伝えた偉い人が
言った言葉であり

また茶道においても同じような
言葉が受け継がれている


まぁ要約すると

「どんな時も調子にのったらあかん」

ということ


調子乗りの僕にとっては
いつも怪我をした後に流れる
血液のような言葉で

この言葉と共に
新たに出発ができる



空手は琉球王国の武術に
中国や日本本土の武術が混ざってできた
武道らしい

となれば必然的に
"仏教"的な思想が同時に組み込まれている


空手という名前にも
"空"という文字が入っており

仏教の"空"の思想にもリンクする


"空"とはつまり0(ゼロ)のことであり
「無いということがある」という意味


熱心な仏教マニアである
みうらじゅんさんが
NHKの「最期の講義」という番組で
学生に向けて放った言葉が
この仏教の思想をピシャリと感じさせてくれた


「知ってた?人って死ぬらしいよ?」


ふざけた口調で放った言葉は
誰しもが分かっていながら
何となく記憶の奥へ追いやっている
極めてシンプルな事


人は無いところから生まれ
また無い所へ帰っていくだけの事


恐らくこの言葉も
聞く人が今どういう状況にあるかによって
聞こえ方が全く違うだろう


そういう意味において
これも一つのアート作品だといえる


こいうい考え方ってきっと
高度成長期やバブル期の日本にとっては
うるさいお節介のように聞こえていたんだと思う


そしてそこに気づかない間に
諸外国が良さを発見し
「マインドフルネス」という形で
世界でブームになっている

そこに気づけていたら
日本からiPhoneが生まれていたかもしれない


なんてタラレバな考えも
仏様には
「わかっとらんな」
と言われてしまうだろう


僕は敬厳な仏教信者ではないが
お仏壇に手を合わせ
お墓参りをし

そしていつかは
葬式の段取りをすることになる


ビール瓶を持って
親戚のおっちゃんやおばちゃんと
たわいない話をする術は身につけたが


いつまでたっても
泣き虫な小坊主は居座っている


それがバレないように
明日も大人の着ぐるみを着て
仕事を頑張ろうと思う

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