第38話 五章 四月八日 金曜日 夜

 その晩、織姫おりひめを俺の自室に入れたことが、そもそもの間違いだったのかも知れない。

「お兄ちゃん、どうするのよ。お兄ちゃんの彼女達、きっともう一歩も引かないと思うんだけど」

 青い色の、ペンギンの着ぐるみとしか思えないデザインの寝間着にくるまれた織姫は、未だに俺のベッドに腰掛けたままだった。ホントに困った。眠い。もう良いだろ? そろそろ解放してくれても構わないじゃないか。

「お兄ちゃん、なんとか言ってよ。どうするの!?」

 正直言って、そんなの俺が聞きたい。諸星もろぼし朔耶さくや。どうしてあんな目も覚めるような美人が俺を構うんだ? あんな素敵なコたちに囲まれて過ごしたい、などと夢想したことはあったかも知れない。だが、いざその境遇になってしまえば、そんな毎日は地獄以外の何物でもないと断言できる。片方と話しているとき、常にもう一人のことが頭に浮かび、そのたびに胸が締め付けられるような感覚に襲われるのだから。

「なんとかする。なんとかするから」

 そう、なんとかする。なんとかしなくちゃいけない。俺が、やらなきゃいけないんだ。

「だからどうするのか、って聞いているんじゃないの!」
「そんな事を言っても」

 とはいえ、どうする? 俺にどうにか出来るのか? 俺の迷いが外に出ていたのだろう。ふと目を合わせた織姫は、身も竦むほどの鬼の形相で俺を睨み付けていた。

「バカにしてるわけ? あのね、説明するまでもないことだけど、二人とも彼女にしました、なんてこと出来ないでしょ? それにあの二人、滅茶苦茶に仲が悪いじゃない。誰もが傷つかなくて、みんながみんな幸せになる事なんて無理なんだから。だれかが笑うときは、誰かが必ず泣いているの。わかってるんでしょ!? どちらかをお兄ちゃんの一番にしないとダメなんだよ! 今決めないと、もう遅いかもだけれど……今決めないよりは絶対にマシなんだから! バンド、ダメになっちゃうけど……仕方ないよ」

 そう。アイツとあのコのどちらかを一番にするという事は、きっとバンドが崩壊することと同じで。そして俺はアイツとあのコのどちらか……もしくは両方のとの約束を反故にするという事だ。俺はあのコたちに百歩譲って嘘をつくことは出来ても、約束を破ることだけは絶対に嫌だった。アイツらの泣き顔なんて見たくない。だから俺は、いくら織姫から幻滅されようとこう言うしかない。

「それでも、俺は嫌なんだ。諸星も、朔耶も泣かせたくないんだ。二人の願いを叶えたいんだよ。嘘じゃない。もう俺には分からない。俺は二人とも好きなんだ! 大好きなんだよ!」
「お兄ちゃん!? そんなの最低過ぎるんだから……」

 織姫ががっくりと肩の力を落としていた。今まで織姫の顔に張り付いていた鬼の面が剥がれて落ちる。そして漏らす言葉に力など見えない。

「だったら、どうするのよ……」

 時計の音だけが響いた。一階で両親がテレビを見ているに違いない。歌番組と思われる音が微かに響いて聞こえる。そうか、あの人、今夜は帰って来てるんだ。

 ――?

 ふと、俺の頭に悪魔的な考えが閃いた。そっか。それが良い。もう、この方法しか残っていない。幼い頃にあったかも知れない俺の夢。俺達兄妹に吹き込まれた彼らの幻想。聞いた当時は夢物語そのものだったけど、今なら実現する可能性――いや、必然性を俺はあるべき確かなる未来の姿として信じることが出来た。いつだったか、アイツも言っていたじゃないか。世の中そういうものなのだ、と。この優位を使わない手はない。それが俺自身の魂を悪魔に売ることであってもだ。

「そう……これだ。これしかない。この手が残ってた!」
「なに?」

 織姫が力の抜けた顔を俺に向けてくる。

「最後の手段があった。忘れてた。俺、この方法があることを知っていて、認めるのが怖かった。将来の姿なんて考えたくもなかったんだ。ゴメンな。俺が逃げていたばっかりに、皆を困らせてたんだ。この方法なら、みんなが傷つくけど、皆が幸福になれる。織姫、手伝ってくれるか? いや、最後の手段を執って良いか?」
「だから、なに?」

 先ほどとは様変わりしたであろう、俺の開き直った態度は織姫の興味を多少なりとも引いたらしく、織姫はベッドから身を乗り出してきた。

「俺はアイツら二人の願いを叶えるために、お前と悠人を巻き込む。そして、俺はアイツら二人との約束を、どちらも守ってみせる」
「どうやって?」

 呟くように聞いてくる。

「そんなの、決まってるだろ? バンドを解散させずに二人といられて、俺とアイツとあのコの三人がメジャーに打って出る方法なんて。この方法以外にあり得ない」
「……お兄ちゃん……それって、まさか……」

 織姫の瞳が揺れている。俺の選択した恐るべき未来に思い当たる節があったと思われた。

「そうだよ。あの人に頭を下げるんだ。もうそれしかないんだ。アイツがアメリカから泣いて帰ってきたとき、直ぐにでもこうすれば良かったんだ。そうと決めたら喉が渇いた。母さん、今日帰ってきてるよな? 飲み物買ってきてくれたかな。一階か?」
「ちょ、待って! いくら何でもそれは! お兄ちゃん! お兄ちゃん!? 正気!?」

 織姫の頭の中でも、俺が思い浮かんだ唯一の可能性に思い当たったのだろう。織姫はベッドから飛び降りて俺の次の手を封じるべく俺の足にしがみついてくる。

「ごめんな織姫。俺はやると決めたら絶対にやり遂げる。俺はもう決めたんだ。悠人には黙っていてくれ。当然あの二人にも」
「お兄ちゃん!? そんな酷い!」
「放せ! 俺はもう、迷わない」

 俺は織姫を無理矢理引きはがすと、喉を潤しに一階へと向かった。

 居間は酒の匂いで満ちていた。俺の目の前には場違いにも嘘のように綺麗な人がいる。柔らかそうな布をふんだんに使った黄色のドレスを身に纏う美人。年に数度、この家に帰って来ることも今では珍しくなった存在。それが、今俺達兄妹の目の前にいる女の人であり、この人が俺達の母さんだ。ソファーに深々と腰を下ろし、向かい合った父さんと静かに談笑している。二人は酒が入っているようで、両親の周囲には何本も黒ビールの瓶が空になっていた。

「あら? 貴方たち、子供はもう寝る時間よ?」

 母さんの冷めた言葉が投げつけられる。この人は俺が目の前に出るまで、俺達二人の存在に気も止めなかったのだ。俺は百万の呪詛を呑み込み、そのまま目つきの怪しい母さんに頭を下げる。俺に残された手段は少ないと思えた。でも俺が思っていた以上に、この母親に母性なんて高尚なものは欠片も残ってなかったらしい。

 ◇ ◇ ◇

 俺は母さんに自分の想いと悩みと計画の全てを打ち明けた。一世一代の大勝負と言えるだろう。父さんは真摯に一々頷いてくれていたが、肝心の母さんと来たら……。

「充ちゃん。あなた幾つになった? 確かこの前、小学校の入学式だったよね。行かなくてごめんね?」

 小学校って……あんた……いつの話だよ。それに行けなかった、ではない。行かなかった……行くつもりがなかったと言い切ったよ、この母親!

「ちょ!? お母さん、小学校って何!? 何年前の話してるの? わたしもお兄ちゃんも、もう十六歳だよ! もうすぐ十七になるんだってば!」

 織姫が両手を振り回し、母さんに現実を教えていた。

「そうなの? 貴方たちはこの前小学校に入学したばかりと思っていたのに。そう。貴方達はもうそんな歳なの」
「お母さん、もうわたし達は高校二年生なんだってば!」
「ああ、そう言われてみれば、背も随分伸びてるような……。ごめんね。お母さん入学式も卒業式も来なくて。……まぁ、それはともかく。そんな歳になったのに、充ちゃんはまだそんな夢みたいなこと言ってるの?」
「ひ、酷……。夢なんかじゃないよ。母さんが協力してくれさえしてくれたら、きっと巧くいくに違いないんだ!」

 黒ビールを煽る母さんのトロンとした赤い目はひたすら冷たかった。

「充ちゃん。あのね、そんな地に足がつかない事は止めておきなさい。母さんね、あなたにはきちんとした職について欲しいと思ってる。音楽なんて、金輪際止めて。それとあなた、その女のコと遊んでいるの? 父さんから聞いたわよ? そういうの、母さんは認めません。ぜーったい、認めません。そのコと学校で顔を合わせても挨拶程度にしてね。付き合うなんて、絶対禁止。良い? 充ちゃんは小さいときから聞き分けの良い好いコで、母さんを困らせたことなんて一度もなかったんだから、わかるわよね?」
「そんな事が出来るわけ……それはあんたの思い出の中だけだろ!?」

 母親らしいことなど今の今まで一切やってこなかったくせに、そういう所だけは一般人以上に堅いことを言う……なんて母親だよ!

「で、その女のコ。可愛いのよね?」

 しかも人の話を聞いてないし。

「朔耶っちは母さんの若い頃より美人だって、父さんも言ってたよ。ね、お兄ちゃん」

 ば、バカ! お前は織姫、話を台無しにする気か!?

「そう。サクヤ、って言うの。名前も可愛いのね。まあ、充ちゃんが好きになったようなコだから、当然ね。母さんも一目会いたかったかも。……でも諦めなさい充ちゃん。判った?」
「どうしてだよ!?」

 ひ、酷……。なんだか熱いものがこみ上げてきた。こんな人間が自分の母親であることが怖いと思う。充分わかっていたつもりだったけど、この人がまさかここまでのクズだったとは。でも、俺はここで引き下がるわけにはいかないんだ。頭を下げ続けるしかないんだよ……。

「そんな、一生のお願いだよ! 俺、あのコたちのバンドをステージに引き上げて、メジャーにしてみせる、って約束したんだ。当然俺も頑張るけど、母さんが後押ししてくれたら、絶対売れること間違いないんだ!」

 床に頭を擦りつけて頼み続けた。でも、この人は俺のそんな言葉なんか聞いちゃいないし、そもそも会話が成立しているのかも疑わしい気がしてきた。

「……『俺』? あなた充ちゃん、一体いつからそんな野蛮な言葉を使うようになったの。きっと悪い女のコの影響ね。そうでしょう? ね、織ちゃん?」
「え? んーと、確かお兄ちゃんが、以前カナミちゃんから自分のことを『俺』って呼ぶように頼まれた、って……」

 !? またも伏兵が! なんだよ織姫、どっちの味方なんだお前!

「カナミ……? 織ちゃん、さっきはサクヤ、って名前じゃなかった? 違った?」
「え? あ? はわわわわ、ええと、その……」

 ああ、織姫の口を塞げるものなら塞ぎたい。

「充ちゃん……。はぁ。あなた、女のコと遊ぶのは絶対に止めなさい。二股なんて、最低なんだからね! ……ねぇ? お父さん!? ……とにかく、音楽なんて止めなさい。絶対禁止。だいたい貴方たち程度の音楽なんて、たかが知れてるに決まっているんだから!」

 母さんの怒声に俺と織姫は縮み上がった。その母さんが父さんを睨む目には明らかに殺意がこもっていたとしか思えない。思えばこの母さんの冷たさも、家庭を顧みない生き方も、父さんのせいなのかも知れないと思えた。母さんは居間の小型冷蔵庫から新たなビール瓶とジョッキを取り出し、栓をまた一本抜いたかと思うと、手酌で冷え冷えのジョッキに注ぎ込む。母さんの足取りは今だしっかりしていたが、その目は当の昔に据わっている。

 母さんが父さんを睨み付けた行動が示すところの事の真偽など、今はどうでも良い。そんなことを問い詰めたとしても家庭の不幸が待っているだけだ。今は俺たちとアイツらの話をしよう。でもこのままじゃダメだ、話にならない。予定通り、俺は奥の手を使うことにする。俺は墓穴を掘りまくった織姫を蹴飛ばすと、ホームシアターのスイッチを入れさせた。

「あら。織ちゃん。何を見せてくれるの? 新作のハリウッド? ねえ、なになに?」

 暗く濁っていた母さんの目が、溢れんばかりの好奇心で子供のように輝いた。

「はわわわ、お母さん、あのねそのね……」
「母さん、とにかく視てくれよ。その上で判断して欲しいんだ」
「なあに? 充っちゃん。母さんのいない間にホームビデオでも撮った? ずるい! 今度は母さんも絶対混ぜてね?」

 動画は、なんの前触れもなく始まった。アイツの容赦ない罵声が大音量で居間に轟く。

『委員長、今度しくじったらコロスからな! 一晩中、説教の電話かけて、睡眠不足にしてやるから覚悟しておけよ!?』

 スピーカーから聞こえて来たアイツの言葉に、母さんが血相を変えて顔を上げた。でも、それは音の大きさにではなく、声そのものに反応したらしい。

「あれは……、ま……まさか。ゆ、由美子ゆみこ……? どうして……」

 画面はあのレンタルスタジオ。小汚い部屋に、機材が並んでいる姿が映し出されている。

『カナミ! 何適当な事言ってるのよ!』
『サクヤ、お前はイケてるフィルインでも考えてろよ。こんなバカの事なんて気にするな。じゃ、織姫、始めるぞ?』
「織ちゃん? ……これ何?」
『はいはいカナミちゃーん、スイッチもう入ってるよ? 始めて良いってば!』
『そうかよ。サクヤ、聞いたよな、始めろ』
『うるさいわね、何よ偉そうに! カナミ、君に言われなくても始めるわよ!』

 朔耶の打ち鳴らすスティックの響きが聞こえた。

「えへへ、わたし達のバンドの動画なんだ。お母さん、ちょっと聴いてみて?」

 俺達を出会わせた、あの曲が流れ始める。

「……って、よりによってこの曲!? どういうつもり!? どうしてあの女の曲なんて流すの!!」

 『夜空を君と』。諸星由美子もろぼし・ゆみこの代表曲だった。アイツの力強い歌声が居間を震わせる。始めの内こそ動画を止めろ、と何度も口にして煩かった母さんも、織姫と朔耶のコーラスが入る頃には、自分から食い入るようにスクリーンを覗き込んでいた。そう。最早、誰も言葉を発しない。

『もう一曲あるんだけど、続けてOKかな?』
『え? 初見なんだけど?』
『黙れ委員長。この程度の曲を初見で弾けないのなら、今すぐ音楽なんて止めちまえ!』

 アイツの酷い言葉に、何故か母さんは笑みを浮かべている。既に怒りの表情なんて欠片も見つけることは出来なかった。

「あら。この曲は……」

 二曲目。アイツのお気に入りのSAKIの新曲、『夜明けをみつめて』だった。アイツの歌声が、再び居間に染み渡る。

「あら。この曲、歌っている歌手本人より熱く想いを込めて歌っているじゃないの」
「そんな事ないと思うけど」
「嘘をつくのが下手ね、充っちゃん。あなたもお母さんと同じ意見のくせに」

 母さんの声が凄く優しい。俺は顔が綻ぶのを押さえられなかった。こんなの、俺の母さんではない気がする。

「このコ、由美子のコピーなんかじゃないわね。……由美子にはこんな歌唱力はなかった。それに、ギターをこんなまるで自分の手足のように使えなかった。それになにより、こんなに楽しそうな顔なんて見せたことないもの」
「アイツがカナミって言うんだ。アイツが俺にベースをくれたんだ」
「凄いコね。こんなコ、本当にいるんだ」
「うん」

 俺は自分のことのように嬉しかった。

「織ちゃん、歌もギターも巧くなったわね。もう、ちっちゃい頃の音じゃない」
「ありがと。お母さん」
「バックバンドもしっかりしている。特にドラムなんて、あんな音は滅多に出会えない。誰あのコ。どこで拾ってきたの?」
「俺の方が拾われたんだよ。あのコが朔耶。バンドやりたいって言うのは、あのコの願いなんだ」
「そうなの。良かったわね。……そうだ! 充っちゃん。今使っているベースのピックは全部捨てなさい。良い品があるの。明後日……いえ、明日宅配で届くようにしておく。それ使うといいわ。それと、充ちゃんは約束を守るのよね? そもそも出来ないことは約束しちゃダメなんだから。わかってる!? 充っちゃん!」

 なんだって!? 望んでいたくせに、いざその言葉を聞くと驚く俺がいる。

「え? ……母さん、それって……それじゃ俺達を……」
「ストップ! 勘違いしないの。これでこのバンドを母さんに手伝えと言うの? 冗談でしょ。バンドも恋路も自分たちでどうにかして。そのかわり母さんはもう反対しないから」

 ……。
 前言撤回。やっぱり酷いよこの人。

「手伝ってくれよ!?」
「お、お願い、わたしからもお願いだよ、お母さん!」
「甘えないの。自分たちのことは自分で切り開いて。その力があることは今、貴方たちに見せて貰った。出来るわよ。貴方たちなら」

 自信たっぷりに言われても、ちっとも嬉しくないから!

「そんなぁ」
「お母さん……」
「……あのメインでボーカルを張っていたコ、由美子の娘よね?」

 母さんの目が光る。

「……知ってたの?」
「あの顔、あの声、それにあの技術を見れば誰だってわかるし、そう思うわよ」
「そ、そうなんだ」

 ダメだったか……。仕方ない。他の手を考えるしか。でも、一体どうしたら良いんだよ。

「充っちゃん、織ちゃん、何を落ち込んでるの?」

 何って、自分が今そう言ったじゃないか!

「え? だって母さんが……」
「そうだよ、お母さん、手伝ってよ!」
「イヤよ。母さんは由美子の娘の世話なんて絶対イヤ。母さんね、自分の子供の世話すら今の今までやったこともないし、そもそも興味ないから育てる気も全くないの。でも由美子は母さんと全然違う趣味をしているから、子供の世話が好きかも知れないわね」

 ……やっぱりこの人、滅茶苦茶クズい……。
 でも、母さんはヒントをくれたのかな? それともただの嫌味だったのか?

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