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私が星の旅人だった頃

発熱で丸2日寝込んだ。
しかし寝返りを打てないほどに痛む身体より、放り投げてきた山のようなタスクを思い出すことの方が苦しかった。
徐々に引いていく熱に代わって、もう出社したくない...という思いがどんどん自分を蝕む。
「会社に行きたくない、月曜日までにどうにかして地球が滅亡しますように」と心から祈った。

人生の大半を費やす仕事に全力であることは「善く生きること」だとされている。もはや「人生≒仕事」であるという思想を目にしない日などなく、自己啓発本、電車の吊り広告、SNSや動画など、世の中は「いかに仕事によって人生を充実に導くか」を説く者たちで溢れている。
私自身も、できるだけ好きだと思える、自分自身が納得できる仕事を選んで生きてきたように思う。だって楽しく生きたいですもの。

しかし同時に「好きなことを仕事にする」「目の前のことを全力で頑張る」ような考え方は、副作用として「好きなことを仕事にしていない、目の前のことを頑張らない人は落ちこぼれだ」という対偶をもたらす。
16世紀以前の欧州におけるキリスト教や平安貴族の祈祷よろしく、かつて神仏の存在が君臨していた大衆の生とか善とかの基準には、近頃  "仕事"  が鎮座している。
一生懸命頑張れば、成長すれば、視座を上げれば…かつての天国に代わるようなどこか高みに昇れる、と信じてやまない人々。
どんなに文明が進化しようとも、何かしら価値基準を打ち立てなければ、人は自分自身の存在価値すら肯定できない。

かくいう私も、自分の健康に集中することが許されたはずの2日間でさえ、仕事のことばかり考えてしまった。
私はなんて悲しい人間なんだ。今この瞬間を生きる、ということを、この2日間どころかずいぶん前から忘れてしまっていたなあと自省した。

「どの国が一番よかった?」
大学生の頃バックパッカーをやっていた、という話をすると必ずと言っていいほど聞かれる質問である。

そういうときは決まってスペインの "Camino de Santiago (カミーノ・デ・サンティアゴ)" だと答える。
スペイン北部を横断する約800kmの巡礼路全体が世界遺産に指定されている Camino は、歩き通すには1ヶ月ほどかかる。小学生の頃に読んだパウロ・コエーリョの本に出てきた場所で、絶対にいつか歩こう、と憧れ続けた道だった。

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Mesetaにて撮影。前も後ろもまっすぐな道が続く

道中にはたくさんの出会いと別れがあった。
「また後で!」と挨拶をしたのにその後2度と出会うことがなかった人、旅程が1日でもずれていたら出会わなかったであろう人、自分よりも先を急いでいった人、後方に置いてきたゆっくり自分のペースで歩く人。
時には一人で歩き、時には誰かと並んで歩いた。

歩く理由も人それぞれだった。
彼女に振られたことがショックで歩き始めた人、自分探しの旅をしている人、宗教的な理由による巡礼、耐え難い苦しみから逃れたかった人、この道が好きで何度も歩いている人、未知なる冒険が大好きな人、などなど。

歩いている間は幾度となく「1ヶ月というのはこんなに長かったのか」と感じたものだった。
距離が近すぎて仲間を少し嫌いになったり、天気が悪くてみんなで不機嫌になったり、どこの宿に泊まるかで喧嘩したり、道に迷ってFワードを連呼したり、早くゴールしたくて少し無理をした日もあった。
長い一日を、毎日ひたすら、西へ西へと歩いていく。

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クリスマスイブに泊まった場所。古い教会を改装したようなアルベルゲ

いざゴール地点である聖地 "Santiago de Compostela(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)" に到着してみると、感じたのは喜びや達成感ではなく、胸がはち切れそうなくらいの堪え難い悲しみだった。
1か月って、全然長くなかったじゃん。
終着地点に来たということは、ここまで一緒に歩いてきた仲間がそれぞれの国へ帰るということだ。

別れの時だった。
たまたま同じ日に同じ場所を歩いてきただけのみんなが顔を揃える日なんて、きっとこの先もう来ない。

終わるとわかっていたはずなのに、終わりに向かって毎日歩いていたはずなのに。突然それまでの日々の記憶がどうしようもなく輝いて見えた。

毎日当たり前に背後を染めていた朝焼けのなんと綺麗だったことか。
あいつ自己中な奴だなと思っていたけど、そんなの全部許してあげればよかったな。
みんなで歌って踊って酔いつぶれた、最悪の思い出が愛おしい。
どんなに雨が降っても最後には必ず虹が見えた。
今にも落ちて来そうな冬の天の川と流れ星。

そんなに急いで来なくたってよかった。
1日として同じ日なんてなかった。
みんなと過ごす毎日をもっと大切に生きればよかった。

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雨上がりの虹と、前を歩く友人のFabio

出発地点はみんな違って、歩く理由は人それぞれで、道だっていくつも分岐があって、全く同じ道を選ぶ人はいないけれど。
最後はみんなが同じ場所で巡礼を終える。
別々の場所で生まれ、各々の生活を営み、等しく死んでゆく人生と同じだと思った。

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私のCredential。巡礼者は歩いた証明として、宿泊先やレストランでスタンプをもらう

旅の途中、私は2つの素敵なスペイン語を教えてもらった。

Sin dolor,  no hay el camino.
(痛み無くしてカミーノはない)

とても穏やかなバッサーノ・デル・グラッパの Roberto が教えてくれた

Con pan, queso y vino, se hace el camino. 
(パンとチーズとワインがあれば進んでいける)

明るくて優しいふたり、カタルーニャの Alberto と Agueda が教えてくれた

このリズムの良い2文を私はとても気に入っていて、今でもたまに口ずさむ。
飴と鞭のような2つの言葉は、私が何かを諦めそうになったとき、ぴしゃりと叱って優しく背中を押してくれる。また暗い地の底まで落ちていくような気分のときは、明るく光が差す方へと、私の手を引っ張り上げてくれるのだ。

仕事が山積みのときは淡々とこなすほかない。痛みのない人生などないのだから。
でもどんな困難に直面したって死にやしない。おいしいパンとチーズとワインがあれば、きっと明日も生きていけるのだから。

痛む身体と手にしたパン、そしてふと頭上に広がる空の美しさに気が付くとき、平凡な自分に与えられた非凡な時間を知る。
きっと日々の幸せというのは、そうやって見つけるものなんだろうなと思う。

現代の「仕事信仰」に心と身体が飲み込まれると、だんだん痛みと目の前の道しか見えなくなってしまう。責任感に押しつぶされそうになったり、仕事だけが人生だと思えてしまったりする。

そんなときは一度手を止めて目を閉じ、長くて短い旅の記憶を辿ってみる。
すると「全てはいつか終わるのだ」という恐ろしくも美しい真実が、不思議と私の心と身体を軽やかにしてくれるのだ。


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