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蝶の夢を見なかった潜水服は

父が以前の父でなくなってから、もう3ヶ月が経とうとしている。

季節がひとつ巡ってしまった。わたしの父は今年咲いた桜を知らない。
寒かった冬もいよいよ終わりかけていた2月、実家で熱を出して寝込んでいた父と会話がかみ合わなくなったと、母が救急車を呼んだらしい。搬送当日までは、名前を答えたり自分で病院食を食べたりしていたそうだ。重度のヘルペス脳炎と診断が下されたのは、すでに父の意識と言葉が失われたあとだった。

目を開けることもしない、身体も動かない、声をかけると時折唸るだけの父に向かって、
「お父さん、今潜水服着ているんだよ。だから言葉を伝えられないし、身体も動かないと思う。不便だけどしょうがないよ」
とわたしは言った。
もし何か伝えたいことがあったなら、状況が把握できないままでは困惑して落ち込むかもしれないから。映画好きだった父には病名よりも「潜水服」の方が伝わるんじゃないかと思った。


脳梗塞によって、片目以外どこも動かすことができなくなってしまった男性を描く『潜水服は蝶の夢を見る』という映画がある。
編集者のジャン・ドミニクは女たらしの遊び人だった。片目以外動かなくなっても、しばらくは頭の中が怒りや悪態で満たされていた。
動くこと、食べること、触ること、会話することすらできない。彼に残された「生」の行き着く先は、言葉による自らとの対話だった。元編集者で言葉を生業としてきた彼は、自らの言葉によって対話し、迷い、想像し、変化して、「言葉」の持つ意味そのものまで変えてゆく。彼にとって言葉が世界となる。
片目の瞬きだけで言葉を紡ぐ。20万回に及んだというその瞬きは、もはや狂気である。

崩壊する氷河を写したエンドロールがとても好きで、きっとこれは人間と同じなのだ、と思った。
科学技術は発展し続けているのに、人の価値観は十人十色、しかも各々の人生ごとにリセットされてしまうのだから、なかなか前進しない。
それでも、雨、雲、氷河へと繰り返し姿を変えながら在り続ける水のように、人間は続く。言葉と想像力が、人間と時間の狭間を繋いでいく。
ときにそれは、人間が失ったものも満たしてくれる。ジャン・ドミニクのそれのように。


わたしの父が伏す姿は、主人公である編集者のそれとよく似ていた。ひとつ違うのは、彼にははっきりとした自我が閉じ込められていたけれど、わたしの父の意識はもうちょっと深いところにありそうだということ。
『潜水服は蝶の夢を見る』という映画のタイトルにある「蝶」が意味するのは、どこまでも羽ばたく人間の想像力である。
では言葉と想像力を失ったわたしの父は、潜水服を着てどこへ向かったのだろう?

宙を舞うことができなかった父は、記憶の海に潜っていったのかもしれない、と思う。私の声に反応して時折唸るのは、声によって深海に灯される記憶があるからだとしたら? その記憶には少し心当たりがある。
わたしが父に対して冗談っぽく反抗的な反応をすると、わざとらしく悲しい顔をしながら話すお決まりのエピソードがあった。100回は聞かされた思い出話。父にとっての幸せな記憶。

「お前と2人で映画館に行くとな、俺がポップコーンとジュース買うだろ。いくみは席で座って待ってる。予告編が始まる時間になって暗くなると、小さい女の子が叫ぶ声が聞こえて来るんだよ。映画館中に響いてさ。
『パパ〜〜!映画はじまっちゃう〜〜!』ってね。
まったくあの頃は、1人で映画も観られなくて可愛かったのになあ...。」

この先101回目を彼の口から聞かされることは、もうないのかもしれない。
それでも、私の声が彼の記憶を灯し、深海に漂う孤独な潜水服を暖めることを願って、今日も一人で語りかけている。



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