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夏に願いを(4)

叶居さんが引っ越す八月になり、吹奏楽部の県大会の日がきてしまった。あの日の気まずい気持ちのまま、行くか行くまいか迷ったあげく、誰にも会わないようにギリギリに行って叶居さんにも声を掛けないで帰ることにした。会うのも行かないのも、どちらにしても気まずいと思ったからだ。

天気予報では曇りのち雨となっていて、このところのカンカン照りよりはマシかと思って家を出たものの、湿度が高くて殺人的にうざったい暑さが体にまとわりついてきた。あまり気乗りのしない外出な上、こんなサウナ状態。何かの罰ゲームなのかなとさえ思いたくなる。ローカル線のホームに降りてしばらく待っていたら、蜃気楼のように視界を揺らす熱気の向こうから目的地へ向かう電車が僕を迎えにきた。あれに乗ればきっとエアコンが効いているはずだと思った瞬間、気持ちだけで体感温度が下がった気がした。

僕たちの住む県は全国としては珍しく地区大会がない県らしく、参加イコール県大会進出なのだそうだ。「他の県はまず地区で勝ち抜かないと県大会に出られないからね」と叶居さんが言っていた。そういうわけで市民会館には今日ようやく本番を迎える七校が集まっていて、出番のひとつ前の学校の演奏時間になってから会場に入った。

演奏中はロビーでお待ちくださいと言われ、広いロビーの大きすぎるソファで時間を待つ。わずかに漏れ聴こえてくる音楽を聴きながら、二階席まで吹き抜ける空間を見上げる。壁面の巨大なモザイクアートや天井から垂れ下がる照明をなんとなくスマホに収めて、ちゃんと会場に来た証拠を確保。このまま二度と会わないかもしれないのに、会ったときのことを考えて行動してしまう僕は滑稽だと思った。だいたい、二度と会わないつもりなら今日ここに来る必要もなかったのだから。気持ちを伝える気もないのに未練なんて、この間のことを謝る気もないのに好きな気持ちを持ち続けているなんて、滑稽だし卑怯だなと思った。
やっぱり帰ろうか。そう思ったとき、会場から拍手が聴こえて同時に客席の扉が開いた。

わずかに残ったペットボトルの中身を喉に流し込み、僕は客席へと向かった。

ステージからこっちが見えないように、後ろの席に座った。どの道、前のほうは参加している他校の生徒たちで賑わっていてアウェイすぎるのだ。遠くてもステージは明るく照らされていて、豆粒だけどなぜかよく見えた。部員たちが続々と楽器を携えてステージに現れ、大きなコントラバスを抱えて叶居さんも位置についた。

感染症対策で開け放たれていたロビーよりも涼しいはずなのに、叶居さんの姿を確認した途端に体温がぐんと上昇したのを感じた。

全員が姿勢を正したところで顧問の隅野が指揮棒を持った腕を上げた。空気が張り詰めて僕まで指揮棒の先に集中して緊張する。課題曲は前に一緒に動画を見た『煌めきの朝』だ。

指揮棒が降り下ろされた瞬間、舞台の上が空中に浮き上がったかと思うような大きな音が放たれた。音楽室や体育館で聴くのとは全然違う音だった。学校で聴いていた生音はもっと、金管楽器独特のピーピーばかりが大きくて、シロフォンやコンバスが負けていて、なんでラッパがこんなに多いんだろうと思っていたけれど、今は違う。全部の音がちょうど良く混ざって聴こえて、コンバスの音もしっかり聴こえる。

曲が始まってからは、心臓がマーチのリズムになったようであっという間だった。叶居さんが皆の音が揃わないといっていた出だしは、僕的にはきっちり決まったと思ったし、一発目のファンファーレもかっこよく吹けたと思った。一緒に見たときに叶居さんが言っていたいろいろを思い出しながら曲を追いかけたけれど、難しいところだとかは全然わからなかった。だけど何よりも皆の音が楽しんでいるのがわかったし、こちらに向かって飛んでくる音の束に圧倒されて、転校で吹部を諦めなければならないことをなかなか受け入れられなかった叶居さんの気持ちがようやく理解できた気がした。

今までも叶居さんが廊下で弾いている姿は見たことがあった。だけど真剣な眼差しで指揮棒を見つめながらコントラバスを弾く叶居さんは、見たことのないかっこよさだった。視線、背筋、弦を押さえる指や腕の動き、弓を引く肘の規則的なストローク……。正直、見るほうに気が向かっていて音楽がよく聴こえていなかったかもしれないとも思ったし、本当に圧倒されたのは、自由曲のほうだった。

プログラムには『巨人の肩に乗って』と書いてあった。ニュートンが哲学者の言葉を借りて手紙に書いた有名な言葉だ。今いる僕たちに並外れて優れた何かがあるわけではなく、先人たちの積み上げてきたものの上に立たせてもらっているのであって、僕たちはさしずめその肩に乗る小人のようなものだと、膨大に積み上げられた叡智を巨人に例えて表したものだ。

タイトルから、巨人の肩に乗って見える景色はどんなものだろうと興味を持ったのだけれど、のっけから物々しい始まり。どうやらこの巨人は簡単には肩に乗らせてはくれなさそうだ。SF映画のような緊張の高まる始まりに、意識が音楽の中へと引きずり込まれた。お前にその資格があるのかと突き放されて、なかなか乗せてくれなくて、どんどん置いて行かれて、暗い森の中で小人が巨人を見失って道に迷ってしまうような、そんな部分もあった。それでも後半になると小人は一念発起して巨人を必死に追いかける。巨人の心が小人に叫ぶ。そうだ、見たい景色があるのなら、あがけ、もがけ、走れ! 決して見失うな、前だけ向いて手を伸ばせ! 我の脚に食らいつき自分の持つ力の全てでよじ登れ! 叶えたい願いがあるのなら、祈れ、願え、そして叫べ! 力の限り本気でぶつかれ! 本気でない者は我の肩に乗る資格などないのだ! さあ、覚悟を決めろ!

音楽の刃を喉元に突き立てられているような圧力。なんとなくでやり過ごしてきた僕に「目を背けるな」と今まで避けて通ってきたものを突き付ける。

巨人の肩に乗れ! あがけもがけ走れ! 祈れ願え叫べ!

聴いている間じゅうずっと全身の血液が沸騰するような感覚で、曲が終わったのにも気づけない程に僕は興奮していた。どれくらいそうしていたか、椅子から立ち上がることもできずにいた僕に誰かが声を掛けてきたのが聞こえた。

「……くん、金出くん、来てくれたんだね。ねえ、ちょっと大丈夫?」

叶居さんだった。僕は慌てて立ち上がり、唾を飲み込んだ。自分でも良く分からない興奮状態のままで何か挨拶をしなければと口を開く。

「この間はごめん! 僕も本気でやってみるよ、バドミントンが好きだから!」

ここでこんなことを言うなんて、思ってもみない言葉だった。だけど思っていない言葉じゃなかった。
僕の中で言いたくて言えなかった言葉。言ったら何かが変わってしまうんじゃないかとしまい込んでいた言葉。声に出した瞬間は焦ったけれど、言ってしまえば心の中にサイダーみたいな夏の青空が広がって、たまらなく爽快な気持ちになった。

「うん! 金出くんも頑張って! あとこれ!」

小さなメモ切れを僕に手渡すと、叶居さんは他の生徒たちに押し流されるように遠ざかりながら大きく手を振ってくれた。メモを見るとラインのQRコードがプリントされていて、帰りの電車で読み取ると叶居さんから『県代表!』とすぐにメッセージが届いた。

それを見たら無性にラケットを振りたくなった。
僕はバドが好きだ。
そして叶居さんが好きだ。


※この小説はPenthouseの『夏に願いを』を聴きながら書いています。フィクションで、バンドの楽曲の世界観とは必ずしも一致しませんが、もしよかったら楽曲を聴きながらお楽しみいただけると嬉しいです。

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