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間取り

保険の営業をしている岩崎さんの話だ。

岩崎さんには、昔から特技があった。
それは、一度行った家の間取りを
覚えることが出来るというものだった。
今はもう建て直された祖父の家。
一度だけ行った友達の友達の家。
幼い頃旅行した遠い親戚の家。
酔い潰れて泊まった同期の家。

玄関から入って自分の目で見た景色から
間取りを鮮明に覚え、説明出来る。
両親に幼少期に一度見た、家の間取りを
話すとそのあまりの鮮明さに驚かれた。
勿論、それらが誰々の家かまで、
岩崎さんはちゃんと覚えていた。

ただ、一軒の家を除いて。

特段、変わった家ではなかった。
昭和中期頃に建てられたであろうその家は、
引き戸の玄関から向かって正面に階段があり、
左手には仏間兼茶の間。
机とテレビ傍にこけしが4つ。
右手横には手洗いと風呂場、
右手奥に進めば台所。
仏間の奥には、更に扉があって、
その奥に部屋がある。ベッドがある寝室だ。
だが、奇妙なことに、
ここまで鮮明に覚えていながら、
誰の家かは全く思い出せなかった。

岩崎さんの記憶には、
必ず家と人の顔が結びついている。
当たり前だ。無断で家に入るわけがない。
必ず招いてくれた人がいる。
だというのに、件の家に関しては、
記憶をどれだけ遡っても
人っこ一人顔が思い出せなかった。
こんなことは他にはなかった。

岩崎さんは親戚の集まりがあった時に、
件の間取りを話して、家に思い当たる人が
いないか尋ねてみたが、
残念ながら心当たりのあるものはいなかった。
同窓会の時にも、何人かに聞いてみたが、
めぼしい成果はなかった。
これ、とピタリ当てはまる家がなかった。
とはいっても、思い出せないからと言って
何かあるわけでもない。
暫くして、岩崎さんはその家の事は忘れた。


茨城生まれの岩崎さんは、
大学進学時に上京し、就職も都内で済ませた。
社会人一年目の夏。
岩崎さんは、新人営業マンとして、
とある住宅地で飛び込みを行っていた。
蒸し暑い日が続いた、8月の半ばの事だった。
担当地域は、初めて来る古い住宅地だった。

都内だというのに未だに、
木造の古い家が立ち並んでいる。
岩崎さんは、Googleマップで
地図を開くと端から端まで
飛び込み訪問を開始した。
営業は数をこなせ。上司の口癖だ。

午前9時から初めて、昼休憩を取り
時間は既に午後2時を回っていた。
この頃になると、主婦の在宅率が上がる。
飛び込みには、狙い目の時間帯だ。

流れ出る汗をハンカチで拭きながら、
岩崎さんはとある一軒の家の前で泊まった。
そこは、周りと同じく木造の古い外観の
二階建ての家だった。
玄関はガラス引き戸で、
入り口脇に古びたチャイムが
備え付けられている。
表札を見ると、どうやら4人家族のようだ。
男性の名前が2つ。女性の名前が2つ。
岩崎さんは、小さなチャイムを押す。
チャイムの音が鳴り、少しして、
「はぁい」と奥から女性の声がした。
「ごめんください。この度、この地域担当になり、一軒一軒皆様に挨拶周りをしております。」
何のとはあえてつけず、
岩崎さんは声をかけた。
こうすると玄関までは、
来てくれる可能性が高いのだ。
会話になれば、そこからが営業の始まりだ。
「はぁい、なんでしょう」
引き戸を開け、50過ぎの主婦が顔を出した。
人の良さそうな女性だった。
「私、〇〇の岩崎と申します。今日から、こちらの地域を担当させて頂く事になったので、地域の方に一軒一軒挨拶しております」
岩崎さんが、にこやかに挨拶すると、
人の良さそうな主婦は笑って、
それはご丁寧にどうも、と返してくれた。
好感触だ。岩崎さんは、この家が
今日一番の頑張りどころだと確信した。

しばし、他愛のない世間話をしていると
岩崎さんが気に入ったのか、
主婦は「暑いのに大変だね。何も出せないけど、麦茶くらい飲んでいったら?」
と言ってくれた。
どうやら、家にあげてくれるらしい。
岩崎さんは、これ幸いとありがたく
申し出を受けると、一礼して玄関へと入った。


岩崎さんは、頭を下げた際に
まず玄関の靴を確認した。
主婦が履いていたサンダルと
横に古びたスニーカーが2足。
若者向けだか、暫く履いていなさそうだ。
他にも男性物の靴がいくつか置いてある、
革靴がないところを見ると、
旦那は外仕事かな?
4人家族で子供2人はもう外に出てるのかな?
そんな当たりを岩崎さんはつけた。

そして、サッと顔を上げる。
笑顔は忘れずに。
主婦に改めて感謝を述べつつ、
さりげなく奥を見る。
玄関は小上がりになっていて、
目の前には階段があって。
右手側は……。
そこではたと気付く。
自分は、この家を知っている。

そこは正しく記憶にあった、
誰のものか思い出せない例の家だった。


岩崎さんは間違いなく
この地域に来たのは、初めてだった。
知り合いもいないはずだ。
両親の親戚も茨城の方だ。
だというのに、今上がった家の景色は、
まず間違いなく記憶の家そのものだ。
左手には仏間。
机とテレビの脇にこけし。
右手横には手洗いと風呂場、右奥に台所。

岩崎さんは動揺した。
そんな岩崎さんの心知らず、
主婦は左手の仏間へとどうぞ、と案内し、
自身は台所へ向かって行った。
入り口に立ち、部屋を覗く。
入って右手に仏壇。記憶の通りだ。
テレビのメーカーも記憶と同じ。
思わず、立ち尽くしていると、後ろから
「どうしたの?座って座って」と、
麦茶を注いできた主婦に声をかけられた。


岩崎さんはハッとして返事をすると、
机の手前側に座らせてもらった。
主婦は対面に座り、机に麦茶を2つ置いた。
岩崎さんが、キョロキョロとしているのが、
不思議なのか、主婦が笑って
「古い家でごめんなさいね」と言った。
そこで岩崎さんは、本来の目的を思い出し、
一先ずこの奇妙な記憶との一致は忘れて
営業トークを再開した。


暫く話し込んでいると、
外から「〇〇さん。雨、雨」と
主婦の苗字を呼ぶ声が聞こえてきた。
どうやらご近所の方らしい。
主婦は慌てて、「ごめんなさいね。2階に洗濯物が干しっぱなしなの。ちょっと待ってて」と
岩崎さんを残して、部屋を出ていった。
通り雨のようだ。
2階にベランダがあるのか。
岩崎さんの記憶に、階段はあっても
直接、2階を見た記憶はなかった。

主婦を待つ間、岩崎さんは考えた。
果たして、この家と記憶の家は
同じ家なのだろうか。
少なくとも間取りや置かれているものは、
一致している。
ただ、違っているのは、
そこに人が存在していることだけだ。
とても奇妙な感覚だった。


出された麦茶を空にすると、
そういえば、この仏間の奥は寝室が
あったな、と思い出した。
そちらを見やると、やはり記憶通りの
扉があり、そしてその扉が
少しだけ開いていた。

更に岩崎さんはある事に気がついた。
あの奥が寝室であることは知っている。
しかし、寝室の景色は知らないのだ。
つまり、見ていない。案内されていない。
それなのに、あの扉の向こうが
寝室であることは間違いない。と知っている。

なぜだろう。誰から聞いた?
この家の人の記憶は無いのに?
そのうち、岩崎さんは扉の向こうが
気になって仕方なくなってしまった。
幸い主婦は2階で洗濯物を
取り込んでいるようだ。
まだ、上から物音がする。

扉を閉めるついでに
少しだけ、中を確認してみよう。
岩崎さんは立ち上がった。
そっと扉に近づく。

ドアノブを掴み、隙間からちらりと
部屋の中を覗くとベッドの端が
少しだけ見えた。
やはり寝室だった。
ただ、普通のベッドではないようだ。
傍に手すりとリモコンが見えた。
恐らく、介護用のベッドだろう。
岩崎さんは仕事柄目にする機会が
多いので、すぐに気がついた。
そして、どうやらそのベッドには
誰かが寝ているようだ。
僅かに布団が上下している。

しまった。今更だが失礼になる。
急に我に帰ると岩崎さんは
そっと扉を閉めた。
出来るだけ物音を立てずに。
恐らく夫婦どちからの親だろう。
介護をしているのかな。
そんなことを考えながら。

扉を背にし、また元の位置に座ろうとした時、
閉めた扉の奥から小さな声が聞こえた。
「おかえり」
か細い老女の声だった。

しまった。起こしてしまったか。
家人と勘違いさせたのだろう。
申し訳ない。後で主婦に謝ろう。
そう思った矢先、老女の声は続いた。


「おかえり、ゆきお。おかえりなさい」


その言葉を聞いた岩崎さんは
急いで荷物をまとめ、
仏間を出て階段下から上階の主婦に向けて
声をかけ、すぐさま家を飛び出した。
そして、もう一度表札を確認し、
後はもう急いで、その家から離れた。

玄関でチャイムを押すときに、
岩崎さんは確認していた。


あの家の表札にゆきおと読める
名前は無かった。
そして、岩崎さんの名前は、幸夫だ。

いわさき ゆきお


それから、岩崎さんは
その町には近づいていないという。


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