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ほんの一部を掴むことができれば、すべてを掴んだのと同じ

 文章を書いていて困るのは、定期的に、なにを書けばいいのか、分からなくなることです。
 闇の中をひたすら彷徨い歩いているようで、これだと思った光に向かって進んでも、近づけば、砂漠の蜃気楼のように消え失せます。
 というと、ちょっと文学的ですので、もっと地に根ざして語ると、あるテーマについて書いてみようとします。すると「なんか違うな」と首を傾げ、また新たなテーマを探すことになるのです。
 
 わたしのような初学者でも、このように、たびたび壁にぶち当たるのですから、無理やり頭を振り絞って、存在しないものを生み出さんとするクリエイターの方々を、深く尊敬いたします。
 
 この無いものを無理やり振り絞って書くという感覚は、ゴール設定に似ている、と思います。
 面白いのは、わたしには、文章を自分の意思で書いている、という感覚がないことです。
 アイデアとは、まさしく自らの内から作り出すものですが、どうも能動的ではなく、受動的のように感じます。
 
 ふっ、と目の前に現れるので、それをいかに見逃さずキャッチするかが、重要な気がします。
 そして、キャッチしたものを書き出します。そして、またキャッチします。また書き出します。
 これの繰り返しです。
 でも、これは、段階的ではなく、同時に行われているように、わたしの意識は感じています。
 
 つまり、アイデアをキャッチすることと、書き出すことは同時です。
 少なくとも、わたしの感覚では。
 
 というより、書き出さないとすぐに揮発するので、掴んだアイデアは超特急で書き出します。
 でも、そのアイデアは全体の一部なので、すぐさま新たな一部を探すことになるのです。
 
 なぜだか全体の文章はすでに出来上がっていて、わたしたちはその一部、その一部をしっかり掴むことで、自らの近くまで引き寄せていきます。
 
 ふと、わたしの先生が紹介いたしました、エーリッヒ・ケストナー先生を思い出します。
 
(引用開始)
 
子どものために書かれた小説に、そのことがサラッと書かれています。書いた人はエーリッヒ・ケストナー、小説の名前は「エーミールと探偵たち」です。ケストナーさんはナチスの時代のドイツ人ですが、ファシズムを批判しナチスから書いた小説を焚書扱いされるも、あまりにも国民的人気(特に子どもから)が高く、児童文学だけは見逃されたりしました。

 


 そんな気骨のあるケストナーさんは子どもたちに向けて(あるいは僕たち大人にも向けて)、ひらめきについて小説という形で書き残してくれています。

(引用開始)
ひらめきのつかまえかたは、ちょっとちがう。ひらめきはこま切れでつかまえる。まずは、たぶん頭の毛かなんかをつかまえる。すると、左の前脚が飛んできて、それから右の前脚もやってくる、おつぎはお尻、後ろ脚と、すこしずつやってくるのだ。そして、これでもうお話はぜんぶだな、と思っていると、なんとまあ、耳がひとつ、ぷらぷらやってきたりする。そうやって、運がいいと、お話はぜんぶそろうのだ。
(引用終了)

 

(引用終了)
 
 運がいいと、お話はぜんぶ揃います。
 これは、あくまで感覚ですが、書き進めば書き進むほど、つまり一部を掴めば掴むほど、完成する可能性は高くなるように感じます。
 
 逆に、運が悪いとは、もしかしたら、まだゲシュタルトが出来上がっていない、というだけなのかもしれません。
 全体が出来上がってないものは、ぶっつけ本番で書こうとしても、書けないのです。
 だから、運が悪いのです。まるで、宝くじが外れた気分。
 
 まだ全体――ゲシュタルトが出来上がっていないから、わたしたちは、いつも書き始めてから、「あれ、違うな」と感じるのかもしれません。
 
 なんていうか、こう、熟成されていない?
 そう! 熟成されていないのです。
 
 運が悪いというのも、視点を変えれば、時間の問題です。その一部を掴み、時間の経過を待てば、勝手にゲシュタルトは出来上がります。
 
 事実、というのもなんですが、わたしはまどマギについて書こうとしたとき、一旦放置してから、書きました。
 まだ、わたしの中で完成されていない、と思ったからです。
 だから、なんとなくアイデアをメモに書いて、まどマギの映画をじっくり観てから書きました。
 
 そうしたことで、自画自賛ですが、そこそこいい文章が書けたと思っています。
 
 だから、わたしは自分の意思というか、自分の力で文章を書いた、という意識は希薄です。
 すでに出来上がっていたものを必死に探し出して、ちょっとずつ捕まえて、書き出しただけです。
 まるで、希少動物を捕獲して、市場に横流しする密猟者のような気分です。
 
 いえ、そこまで自分を卑下するつもりもありませんが、なんとなく感覚として、そんな感じなのです。
 
 わたしが、ある程度ハードに頑張っているのは、そのゲシュタルトを必死に探し、ほんの一部であろうとも掴むことだけで――書くことは自動運転なのです。
 
 これを、イエス様の言葉になぞらえると、「叩けよさらば開かれん」なのでしょう。
 それが重要で、もしかしたら、それだけが重要なのかもしれません。
 
(引用開始)
 
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ7:7)
 
(引用終了)

 
 このイエス様の言葉をコーチング用語で解釈すると、必死に探し求めることで、そのゲシュタルトへの重要度は自然と上がり、スコトーマが外れるのです。
 実は、元から目の前にあったものなのに、今まで見えてなかったからこそ、突然、目の前に出現したかのように感じるのです。
 
 まさしく、「ユーレカ!」です。

 毎日のように文章を書くのは、正直に告白すると、しんどいのですが、この感覚は病みつきです。
 文章を書き切った瞬間というのは、今まで生きてきた瞬間のなかで、もっとも自身の存在を肯定できる瞬間です。
 
 べつに、その感覚が目当てではありませんが、この感覚があるからこそ、まだ短いですが、今もなお書き続けることができる、と思います。
 
 重要なのは、おそらくふたつです。
 
 ひとつは、アイデアを必死に探し続け、ほんの一本の髪の毛のような断片でも掴めたら、それを絶対に離さないことです。
 脳という記憶装置は、重要なアイデアをすぐに揮発させるので、外部の記録装置を利用することは大切です。
 
 有り体に言うと、メモを書くことです。
 メモでなくても、録音でも動画でも写真でもなんでもいいですが、とにかく外部の記録装置に保存することです。
 
 あなたが、そのアイデアを大切にすればするほど、アイデアもまた、あなたを好ましく思い、新たなアイデアを引き連れてくれるのです。
 ちょっとおバカみたいな子供じみた考えですけど、それがリアルのように感じます。
 
 ふたつめは、アイデアを作ることです。
 どれだけアイデアを引っ張り込もうとも、そのアイデアがまだ出来上がっていないのなら、暖簾に腕押し、焼け石に水です。
 
 これは、意識的にどうにか頑張って行うようなものではありません。
 いかに無意識に任せるかが、重要だと思います。
 
 以下より、まといのばのブログから引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
たとえば、私たちはバートランド・ラッセルの「この仕事を地下で続けよ、と命令すること」を思い出すでしょう。

可能な限りの集中力で、数時間ないし数日間考えたあとに、脳に対して、もしくは潜在意識に対して、「この仕事を地下で続けよ」と命令するのです。無意識にゆだねるのです。

(引用開始)
たとえば、私がある相当むずかしいトピックについて書かなければならないとする。その際、最上の方法は、それについて、ものすごく集中的に――それこそ私に可能なかぎりの集中力をもって――数時間ないし数日間考え、その期間の終わりに、いわば、この仕事を地下で続けよ、と命令することである。何か月かたって、そのトピックに意識的に立ち返ってみると、その仕事はすでに終わっているのを発見する。(引用終了)
バートランド・ラッセル 『ラッセル幸福論』
 
もう少し可愛く言えば、小人の靴屋さんです。

寝ている間に、小人たちが靴を作ってくれるのです。

「まといのば」のブログから引用します。
 
グリム童話に『小人の靴屋』という可愛らしい話があります。
経営難の靴屋に訪れた奇跡の物語です。
彼らは良い素材を手に入れても、それをうまく加工することができません。
しかし、ある朝、気付いたら靴が完成していることに気づきます。そしてそれは非常に高く売れました。
翌日も靴が勝手に完成しています。
勝手に、機織りをしていたのは、靴を作っていたのは裸の小人だったというお話です。

(引用終了)
 
 ここで、あなたは、無意識に仕事をさせるという方法があることは分かった、と言うかもしれません。
 そして、それに興味を持つかもしれません。
「無意識に仕事させることができたら、最強じゃないか! わたしも知りたい!」と思うかもしれません。
 
 でも、あなたはいつも必ず、同じようなことをやっています。
 たとえば、車の免許を取るとき、あなたは車の色々な操作を、可能な限りの集中力で学んでいたと思います。
 そして、免許を取得して、車を運転するときも、あなたは非常に集中して運転しています。
 
 しかし、それが三ヶ月、半年、一年も経つと、あなたは気楽に車を運転できています。
 車を運転しながら、片手でCDを入れ替えるのも朝飯前です。
 
 これが、いわゆる意識が無意識に落とし込まれた感覚、というものです。
 あなたのなかの小人が、勝手に車を操作してくれているのです。
 だから、あなたは車を運転しながら、今日の晩ごはんはどうしようか、と考えを巡らせることができます。
 
 だから、無意識に仕事させることは普通で、わたしたちにとって当たり前のことなのです。
 
 わたしの場合、四六時中「今日なにを書こうか?」と考えていることで、記事のアイデアが生まれます。
 他のなにかをしているときも、常にアイデアを意識的に探し求めています。
 これを何日も続いていると、その思考が無意識に落とし込まれていきます。
 
 ご飯を食べているときも、
 お風呂に入っているときも、
 ゲームをやっているときも、
 本を読んでいるときも、
 無意識は、つねに記事のアイデアを作り続けています。
 
 これは、質問なのです。
 つねにわたしは、無意識に問いかけています。
「どんな文章を書こうか?」と。
 その答えを出すのは、わたしではありません。
 無意識です。
 
 この感覚は、ゴール設定に似ています。
 
(引用開始)
 
そもそもゴールとは「問い」であるというのが、長いこと「まといのば」の提唱する考え方です。

これは哲学的な言説ではありません。シンプルな事実です。

たとえば、「アイドルになりたい」というゴールを設定した女の子がいたとします。
そのゴールは次々と質問を自分に突きつけます。

アイドルとは何?
どんなアイドルが好き?
いつまでにアイドルになる?
歌が上手になる?
お芝居が上手になる?

と次々と質問を自分に突きつけるのです。すなわち、ゴールとはいくつもの「問い」なのです。

そのことについて集中的に考えたら、あとは地下でやらせればよく、寝ている間に小人たちに頼めば良いのです。
 

 
(引用終了)
 
 考えるとは、安易に答えを導き出すのではなく、トロッコ問題のように、答えの出ない問題に取り組み続けることです。
 つまり、問いこそが思考です。
 
 深く、集中的に問い続けたら、あとはスヤスヤ寝て、頭の中の小人に問題を解いてもらえばいいのです。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 

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