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エゴは否定するべきものではなく、意識的に操作するものかも

『魔法少女まどか☆マギカ』とは、徹頭徹尾、少女たちのエゴを扱った物語のように思いました。
 エゴというと、最近はブルーロックを思い出しますが、ああいう剥き出しのエゴではなく、もっと見えにくいエゴの話です。
 たとえばわたしたちは、謙遜する人からエゴを観ることができます。
 
「いえいえ、わたしなんて」
「いや、あなたはすごいよ」
「いえいえ、わたしなんて、そんな」
 
 心の底から褒め讃えているのに、悪意なくその言葉を否定する人たちは、自分のことしか考えられないのだろうか、と思います。
 自分しか見えていないのです。
 自分の考えだけに囚われているのです。
 だから、他者の言葉を信じられないし、他者の力を借りようなどとは、夢にも思いません。
 
 このような人間を指して、まといのば主宰は『すずめの戸締まり』から引用して、「環」と言っておられます。
 
(引用開始)
 
自力で完結し、自分だけで解決しようとしてしまい、他者に頼れず(他者とは頼る存在ではなく、助けるだけ)という草太のような「自力」信仰を「TAMAKI」と呼んでいます。
どこかのつばめの娘も同じです(環伯母さんの存在は何なんだよ)。
4歳からなら、ほぼ育ての親だろって。友達じゃないんだよ。

 

 
(引用終了)
 
 すずめの戸締まりの草太さんは、この環から抜け出すことができましたが、まどマギ(魔法少女まどか☆マギカの略)では、魔法少女たちはずっと環に囚われていたように思えます。
 


 まどマギにおいて、魔法少女とは、願いをひとつ叶えてもらう代わりに、魔女と戦う使命を与えられた少女たちのことです。
 魔女は放っておくと、人々を自殺に誘うので、そうなる前に魔女を退治しなければなりません。
 そして、その魔法少女の功績は、誰にも知られることはないのです。
 
 魔法少女の絶対数は非常に少ないので、魔女と戦うときは、基本的にひとりきりです。
 そのせいなのかは知りませんが、どの魔法少女もひとりに慣れてしまいます。
 
「自分ひとりでやらないといけない」
「周りに頼ってはいけない」
 
 魔法少女は、エゴに陥りやすい印象を受けます。
 でも、きっと、どの職業でも、エゴに堕ちるのは簡単なのかもしれません。
 素直に周りに頼ることができる人が、わたしやあなたの周囲に一体どれほどいるのでしょうか。
 きっと、とても少ないと思います。
 
 周りに助けを求めないのは、なぜでしょう?
 人に助けられると、自分の価値を損なうように感じてしまうからでしょうか。

 わたしもなぜだか、分からないことを人に教えてもらったとき、ムカッと感じて、苛立ったことがありました。
 一生懸命抑えようとしても、その苛立ちが少しだけ漏れ出て、相手を不快な気持ちにさせてしまいました。
 今思うと、とても申し訳ないです(謝りたい)。
 
 そういうとき、わたしの先生がまといのばのブログを引用して、紹介していただいた言葉が響きます。

(引用開始)
 
利己的な人は、自分を愛しすぎているのではなく、愛さなすぎるのである(エーリヒ・フロム)
 

(引用終了) 

 自分を愛している人間は、間違いを指摘されたくらいで、動じません。むしろ、「教えてくれてありがとう」と礼を言うでしょう。
 なのに、なぜだか、わたしたちは間違いを指摘されたとき、ムスッと不機嫌そうな顔をしてしまいます。
 
 べつに、その間違いは、わたしたちを指して言っているわけでもないのに。
「この答えは間違ってるよ」を「あなたは間違ってる」となぜか変換してしまいます。
 自分自身が否定されたように感じるのです。
 
 それは、なぜかと言えば、自分を愛していないからなのでしょう。
 
 まどマギでは、美樹さやかという魔法少女が登場します。


 彼女は自分の好きな幼なじみを助けたくて、願いを叶えてもらう代わりに、魔法少女になりました。
 そして、先輩の魔法少女のように、自分も魔女を倒して誰かを助けようと、純粋な善意の心で戦います。
 
 しかし、彼女は魔女との戦いで、人や自らの醜さに直面し、どんどんその心を濁らせていきます。
 しまいに、その心の闇は、自らが愛する人たちにまで牙を剥くようになったのです。
 


 まといのば主宰は、美樹さやかを指して、このように説明されております。
 
(引用開始)
 
「奇跡も魔法もあるんだよ」は白い小さな可愛らしいメフィストフェレスだけで十分です。

いや、白いメフィストフェレス(キュウべぇ)の言葉かと思ったら、純粋な善意が魔を呼び寄せる美樹さやかの言葉でした。勘違い。

美樹さやかの問題はヒーラーに普遍的な問題です。我々は魔女になる前に自我を殺さないといけません。

もし奇跡も魔法もあると考えるのであれば、それは個人の超人的な能力(もしくは悪魔との契約)でなされるのではなく、世界のなりたちがそうであると考えるべきです。

アインシュタインの言うように(言ったとして)、すべてが奇跡であるかのように生きるべきです。

個人の能力で奇跡や魔法が引き起こせると考えれば、それはキリストの言うヒュブリス(傲慢)の罪です。

だからこそ、イエスは私がしたことはあなたもできる。むしろそれ以上のことができると言ったのです。奇跡や魔法は超越的な個人、もしくは神の子にのみ許された特権ではないのです。イエスの癒しの業(わざ)は人類に普遍的なテクノロジーということです。

また、イエスは神の国はここにある、あそこにあると言えるようなものでも、見えるものでもなく、ただ人と人の間にあると言いました。人と人の関係の中に神の国は立ち現れます。

ヒーラーを職業とすると、まれに悪魔的な力を手に入れたように感じる瞬間が来ます。圧倒的な力です。これがエゴの肥大を生みます。平たく言えば、愚かな勘違いを生じさせます。その力は個人の力ではなく、共同体の力であり、人と人の間にあらわれた神の国の力と言えるようなものです。イエスが神の国と呼んだものが、ヒーリングの源泉です。

またエゴが肥大すると、自己犠牲的になりがちです。それも誤った方法で。

美樹さやかは自己犠牲を喜んで選びましたが、イエスは自己を犠牲にせよとは言っていません。

自分を愛するがごとく、他人を愛せよ、であり、自分を愛せず、大事にせずに、他人だけを愛せよということではないのです。

自己犠牲的に見える命令があるとしても、それは永遠の命につながるためであり、自分を愛する結果です。それゆえに命を失うものは、命を得るのです。

このエゴの肥大と自己犠牲の誘惑がヒーラーにまつわる大きな問題です。

まどマギという神話はそれを残酷なまでに美しく教えてくれます(本当か?w)(まあ神話というのはどんなものでもそうですが、読み解く人がいない限りは読めないものです。聖書もしかり)。
 

 
(引用終了)
 
 美樹さやかの最大の問題は、自分に自信が持てていない、自分を信じられない、自分が救われていない状態で、誰かを助ける正義の味方になろうとしたことだと、個人的に思います。
 
 これは、たとえるなら、言い方はキツイですが、身体をまったく鍛えていないひょろひょろが、生徒に筋トレを教えるようなものです。
 
 もしくは、全身ぼろぼろの人間が、転んだ子供を助けようとするようなものです。
「大丈夫、痛くない?」と聞かれても、「いや、お前の方が痛いだろ! 安静にしてろや!」と言わなければなりません。
 
 けれど、身体の傷は心配されますが、心の傷は、ほとんどの人は見向きもしないものです。
 誰かを殴ることには抵抗を覚えても、誰かの心を傷つけることに人は無頓着です。
 きっと、わたしも含めて。
 
 誰かを救いたいと思ったなら、まずは、自分が救われなければなりません。
 溺れている人間が、溺れている人間を助けることはできないのです。
 
 美樹さやかもまた、誰かを助けるより先に、自分を救わなければなりませんでした。
 自分を愛し、自分を尊重しなければなりませんでした。
 自分ファーストです。
 誰よりもまず先に、自分を優先するのです。
 
 そして、それが他者への愛につながります。
 まといのばのブログでもまた、そう言ってくれている気がします。
 
(引用開始)
 
ちなみにエゴとは愛の対概念です。ただイエスはエゴを否定せず、エゴが昇華したものとして、愛を考えています。すなわち対概念であり、順序集合ということです(だから厳密には対概念とは言えないということですが。対概念に見えます)。エゴの抽象度を上げていけば愛となるという論理構造です。

それが端的にあらわされるのが、「『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」という善きサマリア人の譬え前に出てくる律法の言葉です。『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』であり、自己を犠牲にしてではありません。
 

(引用終了)
 
 自分が! 自分が!
 とエゴを爆発させている人を相手に、言っているわけではありません。

 自分も辛いはずなのに、他者のことばかりを考えてしまう人たちにこそ、わたしは伝えたいのです。
 誰かを救いたいのなら、まずは、自分を先に救わなければなりません、ということを。
 
 自己犠牲の精神はストーリーとしては大変麗しいのですが、現実の社会ではおそらく、周囲に大迷惑を与えて終わりそうです。
 
 だから、自分を愛することは、社会に生きる上での義務なのだと思います。
 
 自分を愛する上で、大切なのは、自らの能力の輪に留まることです。
 能力の輪とは、自分にとって得意なことで、そこに留まり続けることで、わたしたちは自らを愛することができます。
 
 これは、わたしのオリジナルのアイデアではなく、わたしの先生の文章のパクリであり、その文章もまた、まといのばの引用から来ています。
 
(引用開始)
 
その『自分を愛する』を気功で実装するのが、能力の輪(©︎ウォーレン・バフェット)に留まることだと僕は理解しています。本来の自分と向き合い、それがどんなに醜いものでも受け入れ愛すること。

それもまた能力の輪の中に留まることの一面です。

僕たちが利他を実践する上で前提となるのは、そんなことかもしれません。

https://ameblo.jp/healing-quigon/entry-12778696747.html

 
(引用終了)
 
 能力の輪を見つけるのは、なかなか一筋縄ではいかないでしょうが、少し前に先生に教わった言葉が、ふと頭に響きました。
 
「勉強は、セミナーとか、俺のブログやまといのばのブログを読むだけで十分だから、あとは好きなことだけやって」
 
 ちょっと改変されていますが、内容はだいたいこんな感じだったと思います。
 
 改めて考えると、深いなあと感じます。
 
 自分を愛するとは、たとえば、自分の好きなことをする、ということも含まれるのではないでしょうか。
 それが、たとえ、側から見てどんなに低俗な趣味であろうとも、罪悪感や負い目など感じず、ただ自分の喜びのためだけにやる。
 
 それは、もしかしたら、まっすぐに自分を愛する行為なのかもしれません。
 
 コーチングにおいて、趣味のゴールとは大切です。
 その定義とは、自己満足であること。
 社会や他者に対して、一切機能を果たさず、ただ自分の喜びのために行うことを、趣味と呼びます。
 
(引用開始)
 
純粋に自分の喜びや楽しみのためにやり、全く社会に益しないもの、社会に機能を果たさないものだからこそ、それをやるべきだとT理論は言います。


なぜそれをやるのかと言えば、ランダムネスを付与するためではないかと「まといのば」では考えます。

全く異なる世界、全く異なる価値観(重要性関数)、全く異なる仲間と、全く異なる言語で生きることで、閉じていた自分の世界が開かれるのです。いや、開かれる可能性が生じます。
 
(中略)
 
そのような無益なこと、消費にしかならない(投資にならない)純粋な喜びのためにやること、社会の役に立たないことに対して、「趣味」と名付けたとします。

すると、「趣味」という言葉だけが暴走を始め、最初の定義とは異なるそれぞれ独自の解釈が広がり、その意味のネットワークに絡み取られて、我々は身動きが取れなくなります。
 
「趣味を持ちましょう」と言われて、「私は読書が趣味です」と答えてしまうようなものです。いや、一般的な回答としては悪くないのですが、理論に従った場合はアウトです。
読書は趣味ではないのです。いや、読書だと広いかもしれませんが、たとえばコーチのような人であれば、漫画であれアニメであれ読者であれ、全て職業のゴールに関わってきます。
ですから、それは趣味ではないのです。
本当に無意味に見える楽しそうなことを必死で探さなくてはいけません。
そして、一生懸命に楽しむ必要がありますw
心の底から。

 

 
(引用終了)
 
 自分の喜びのためだけにするなんてエゴ丸出しです。でも、それで良いのだと思います。
 自分を喜ばせることで、はじめて他者を喜ばせることができます。
 その導線上では、エゴは、肯定されるべきもののように思えます。
 
 だから、自分を愛せない人は、まず自分のエゴを肯定できる場所=趣味を見つけてあげればいいと思います。
 まったくの無益で、誰の役にも立たない、しかし自分が心から喜べるものを探してみるといいと思います。

 そして、その場所だけは、自分のことだけを考え、ほかの場所では、他人を第一に考え、エゴを殺せばいいかもしれません。
 
 たとえば、わたしは最近、自分の好きな作家の文章を丸々コピーして書いています。
 意外とこれが、結構楽しいです。
 
 わたしは作家ではありませんし、小説も書いていないので、これは趣味のゴールに入ると思います。
 
 逆に、小説や漫画を読んだり、アニメを見ることは趣味でしたが、今では、このnoteの記事を書くために読んでいるので、趣味ではなくなりました。
 
 他にも、趣味のゴールをたくさん見つけていけたら、と思います。
 
 あなたもまた、そうした趣味のゴールをたくさん見つけていけるように願っております。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 
 

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