見出し画像

わたしが変われば、世界も変わる。よくも悪くも

 どうも二日ぶりです。
 ちょっと友達と旅行していたので、noteの更新ができませんでした。ごめんなさい。
 
 その友達とは中学の頃から仲が良くて、高校を進学し、卒業して、袂を分かってからも、定期的に親交を交わしてきました。
 けれど、その友達がこれから遠い場所に赴任するので、当分会える日は来ないだろうと思い、記念に旅行をしてみたのです。
 
 旅行当日、久しぶりにその友達に会ったのですが、わたしは彼に精神的な距離を感じていました。
 彼が変わったからではありません。
 もちろん、彼は社会人になって、学生だった頃よりも、お洒落に、かつ格好良くなっていたのですが、彼以上に、わたしが変わってしまっていたのです。
 
 まるで、見えない壁が作られたかのような。
 ふたりの関係が断絶されているかのような。
 そんな精神的な距離が、わたしの目には可視化されていました。
 
 でも、それは、きっと、ずっと前からあったものです。
 昨日、今日いきなり作られたものではなく、昔からあったもので、ただ、それが突然見えてしまっただけなのだと思います。
 
 なぜなら、わたしたちは、宇宙をありのままに認識することはできません。
 人には重要なものがあり、スコトーマがあります。そして、それは人それぞれ違うのです。
 
 花が好きな人は、ふと花を見かけたとき、その花の名前や歴史を思い出すでしょう。
 車が好きな人は、ふと車を見かけたとき、その車の名前やメーカー、機能を思い出すでしょう。
 
 でも、花が好きな人はその車の名前を知らないし、車が好きな人も、その花の名前は知りません。
 
 重要度が異なり、築かれたスコトーマが違えば、見える世界は異なり、そして、互いにその宇宙を理解することはできません。
 わたしが今見ている宇宙は、決して他人には見ることのできないものであり、わたしが死んだ瞬間、この宇宙は消えてなくなります。
 
 それを「一人一宇宙」と言うのでしょうか。
 一人一宇宙についての解説は、苫米地博士の書籍より引用いたします。
 
(引用開始)
 
 私のこれまでの著作をお読みの読者には繰り返しになりますが、人間の脳というのは、世界(=宇宙)を正確に認識できているわけではありません。
 交差点の赤信号で止まっていて、信号は視界に入っているはずなのに、ぼうっとしていたために青に変わっても気がつかないで止まっているという経験はないでしょうか。青信号の視覚情報、青い色の波長は目の中の網膜を刺激し、視神経を通って、脳に達しているはずです。にもかかわらず、認識できなかったわけです。
 人は、自分ではありのままの世界を認識していると思っているかもしれませんが、世界のほんの一部を、しかもかなり都合のいい形に変形させて認識しているのです。
 
(中略)
 
 そして、あなたが宇宙だと認識しているものは、あなたの脳の中にしかありません。私はこれを「情報宇宙」と呼んでいます。読んで字のごとく、情報としての宇宙です。あなたが「これが宇宙だ」と認識している宇宙ということです。
 この「情報宇宙」があなたの脳内にあるということは、理解してもらえると思います。むしろ、純粋な「物理宇宙」というものを誰も認識できないのだから、宇宙とはこの「情報宇宙」以外にないのだと言えます。
 物理学者が「物理宇宙」の研究をするのは何の問題もないですし、どんどんやっていただきたいのですが、私たち一人ひとりは、私たちの認識できる「情報宇宙」について考えていくほうが大いに意味があるでしょう。純粋な物理宇宙を認識できない以上、「死」や「生」を考えるうえで重要になるのは「情報宇宙」のほうです。
 さて、こうして「情報宇宙」というものを考えてみると、人間が一〇人いたら、一〇個の「情報宇宙」があるということになります。六六億人いたら、六六億個の「情報宇宙」があります。
 つまり、人の数だけ宇宙がある「一人一宇宙」ということになります。
 

 
(引用終了)

 
 純粋な物理宇宙は誰にも認識することはできません。
 なぜなら、先ほども述べたように、人には重要度があり、重要ではないものにはスコトーマが築かれるからです。
 
 山の上から同じ景色を見たとしても、ある人は澄み渡るような青空を眺め、ある人はその空の下の街並みを眺めているのかもしれません。
 
 そのときに、「なんで、空をあんなに眺めていたの?」と尋ねたとして、その人がその理由を懇切丁寧に説明してくれたとしても……わたしたちは、その理由を、本当の意味で理解することはできないのです。
 
 なぜなら、重要度が違うのですから。
 結局のところ、それは表面上分かった気になれるだけで、分かってもらえたと感じさせることができるだけで、本当の意味で、人は人と分かり合うことはできません。
 
 わたしたちは、他者の宇宙を生きることはできず、また他者も、わたしたちの宇宙を生きることはできないのですから。
 
 わたしたちの間には、無理解という名の透明の壁が立ち塞いでいるのです。
 
(引用開始)
 
端的に言えば、相手(クライアントさん)とものすごく近くにいるからといって、向き合っているその間には透明だけど分厚いガラスが二人を分け隔てているということです。

自分と相手が、あちら側とこちら側にいるということをどれだけ自覚しているかが重要です。

両者の間には、深くて長い河が横たわっているのです。

次元の深い断絶が二人の間を分け隔てています。
 

 
(引用終了)
 
 そう知識では知っていたはずなのに、いざその事実をほんの少しでも体感してしまうと、なぜだか戸惑います。
 悲しくて、切なくて、少しだけつらい。
 そう感じてしまいます。
 
 わたしの友人は、わたしのことを「変わってなくて安心した」と言いました。
 これなら、また数年後に再会したとしても、今日のように楽しく過ごせる、と安心していました。
 
 わたしは、笑顔を作って「そうかもね」と肯定しましたが、もしかしたら、その機会は永遠に来なくなるかもしれない、と裏では思っていました。
 
 彼は、わたしが変わっていない、と言いました。
 でも、変わっているのです。
 彼が思っている以上に、わたしは、高校の頃から、着々と、ゆっくりと、世界を眺める目が変わりました。
 表にはあまり出てませんが、高校の頃のわたしと今のわたしは、きっと別人です。
 
 半年後、一年後には、さらに別人になっているだろう、という予感があります。
 
 でも、その変化は、彼には見えていないのです。
 彼の目にとって、わたしは相変わらずの変人でした。
 でも、わたしからすると、彼の方が変人です。
 
 わたしが変わってしまったことが原因であることは、分かっています。
 わたしの友達の方が、世間一般の目から見れば正しいことも、分かっています。
 
 でも、わたしは、彼の在り方の方がおかしいと思って、なんでわたしの変化が見えていないんだ、と苛立ちを抱いて、そしてふと「一人一宇宙」だと気づいたのです。
 
 彼は、彼が見たいものを見て、そしてわたしも、わたしが見たいものを見ています。
 そこに優劣はありません。

 ただ、交わらないだけです。
 
 ふと昔のことを思い出します。
 昔のわたしは、さっきのようなことを真剣に考えていたのでしょうか。
 どうだろう。
 考えていたかもしれないし、考えていなかったのかもしれません。
 
 つい、わたしの見ている世界は、彼も見ていると思って、それを語り合おうとして、でも拒まれて。
 彼と理解し合おうとすることを諦めたのは、いつからだったでしょうか。
 道化師のように少しバカに振る舞うことで、わたしは変人だというイメージを友達に抱かせて、排斥を避けようとし始めたのは、いつからだったでしょうか。
 
 家族にも、友達にも、秘密を持つことが当たり前になったのは、一体いつからだったでしょうか。
 
 べつに、これは悲観的に語っているわけではなく……いえ、実はそうなのかもしれません。
 
 気功やコーチングに興味を持ち、学び始めたわたしたちは、総じてマイノリティーです。
 わたしは、べつに自分がマイノリティーだと、本気で思ったことはありません。たぶん。
 
 わたしが気功やコーチングに興味を持ったのは、これからの将来が怖かったからです。
 大した努力もせずに、日々を漠然と生きてきて、その先の結果として、必然的に現れる未来が怖かったのです。
 でも、努力をしようとしても続かなくて、その現状から抜け出す方法を必死に探していました。
 
 だから、きっかけは、ただの恐怖です。
 将来が怖いのは、きっと誰もが同じで、わたしがそこにたどり着けたのは、ただ運が良かっただけです。
 わたしは、自分をすごい人だと思いたいけれど、本当にすごい人であれば、気功やコーチングに出会う以前に、なにかに必死に打ち込んでいたはずです。
 
 マイノリティーとは、きっと、そういった方々のことを言うのだと個人的に思いますし、まだわたしは、そのような人間になれたとも思いません。
 
 だから、わたしは自分がマイノリティーだとは思わないのです。
 でも、客観的に観て、気功やコーチングにのめり込む人はマイノリティーですし、気味が悪いことは確かです。
 
 気功やコーチングを学んでいる人に対する、身近な人の無理解については、まといのばのブログから引用して説明させていただきます。
 
(引用開始)
 
とはいえ、気功やヒーリングや、まあ、こういう世界に興味がある人は、迫害される人です。マイノリティーですし、家族や友人にももちろん理解されません(家族や友人の理解のある人は幸いです)。
「何しているの?」「宗教なの?」「バカなの?」「常識で考えておかしくない?」という無理解というよりは、ほぼ罵詈雑言にさらされます。それが愛する人からの言葉であれば、なおさら突き刺さるでしょう。

 

 
(引用終了)
 
 たとえば、もし、身近に黒魔術にのめり込んでいる人がいたら気味が悪いでしょう?
 
 それと同じで、気功にのめり込む人がいれば、気味が悪いですし、それにお金を注ぎ込んでいたのならば、「お前、なにかに騙されてないか?」と思われるのも、当然の話だと思います。
 
 家族や友人は、わたしがやっていることに大して興味を持ちませんし、表面上だけ見て分かった気になります。
 
 わたしの母親は、わたしが真剣にソフトボールをやっていたときも、最後までルールを理解しようとはしませんでした。
 べつに、それに恨みがあるわけではありません。
 ソフトボールに打ち込むわたしを、母は献身的にサポートしてくれました。
 すごく感謝しています。
 
 だから、ただ、そういうものなのだと思います。
 わたしもそうですが、意外と、人は、たとえ身近にいる人であろうとも、その人の内面に興味を持ちません。
 
 なにかを精力的に努力していたとして、そのなにかを自分も理解しようとは思いません。
 ただ、頑張っているな、と認識するだけです。
 
 だから、もし、そのなにかが、一般的に悪いイメージを抱かれているのなら、排斥や妨害を受けるのは当然です。
 だって、知らないのですから。
 だって、知ろうとしないのですから。
 
 それに、怒りや苛立ちを抱くこと自体が愚かで、わたしたちはただ、「そういうものだ」と斜に構えて、受け流していくしかないのかもしれません。
 
 むしろ、わたしたちの方こそ、自らの怠惰が原因で、その無理解を振りかざしていないだろうか、と過去を省み、修正していく必要があるのではないか、と思います。

 そろそろ、結論について述べるなら、気功やコーチング、そして、わたしの書いた記事に興味を持った時点で、あなたはマイノリティーである、ということです。

 否定も肯定も自由ですが、いったん受け入れた方が、この先受ける傷は浅くなるかもしれません。
 少なくともわたしは、この言葉を頭の隅に置いておいたことで、無理に他者に理解を求めようとはしませんでした。
 
 たとえ、あなたが身近な人に、どれだけ気功が有用であるかを論理的に説明したとしても、理解される可能性は低いです。
 
 以前、わたしはふと思い立って、母に化粧水には効果がないことを、説明したことがあるのですが……まるで理解してくれませんでした。
 どれだけ筋道を立てて、論理的に説明したとしても、そもそも相手から、勝手に道を逸れていくのです。
 
「あなたの言うことは分かった。うんうん、そういう考えもあるかもね。でも、わたしは違うと思う」
 
 いや、考えとか、そういうことではなくて、世界はそういう風にできているんですよ、なんて説明したとしても、まるで聞いてくれないのです。馬耳東風なのです。
 
 だから、初めから理解は諦めた方が早いと思います。
 それで、隠れて、黙々と自分を変えていくと、周囲に合わせていても、その周囲がどんどん変わっていくこともあるかもしれません。
 
 大切にしたかった、昔からの縁が途切れることもあると思います。
 あんなに楽しかったのに。
 あんなに笑い合ったのに。
 そう思っていたとしても、あなたが変われば、世界もまた変わっていきます。
 
 わたしの友達は、わたしと数年後も仲良く再会できるだろうと思っています。
 でも、わたしは、できないだろう、と思っています。
 そもそも会うことすらも……と考えて、今日の旅行が最後の日になるかもしれない。
 そう覚悟していました。
 
 彼は、そんなわたしの内心を夢にも思わないでしょう。
 その時点で、断裂しているのです。
 深い溝ができているのです。
 
 あなたも、これから先、世界に対する認識が変わり、そして、その認識を身近な人と共有することは、できなくなるかもしれません。
 
 それは、寂しいことだと思いますが、きっと避けられないことです。
 ゴールを目指していくのなら、堪えるしかありません。
 
 この文章が、そんなあなたへの僅かな癒しになることを願います。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?