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小説家になる方法?

 以前は嫌悪感を持っていた漫画やアニメ、小説が、改めて読んでみると、実はとても面白いし、とても貴重なことを書いていた、と気づかされることがままあります。
 また、たとえ嫌悪感は持っていなくても、サラッと流していたものが、強烈なフックを持ち始めたこともあります。
 
 そういうとき、わたしは、今のわたしと過去のわたしが別人であることを実感します。
 まったく異なる価値観で、まったく違うように世界を見ていて、まったく別の人生を生きているように思えます。
 
 まさに、不思議の国のアリスです。
 
(引用開始)
 
I could tell you my adventures--beginning from this morning.' said Alice a little timidly: but it's no use going back to yesterday,
because I was a different person then.'

「冒険の話といっても、言えそうなのは、けさからあとのことだけよ」と、アリスは、いくらか気おくれしながら言いました。「昨日のことになると、もうだめなの。だって、昨日のあたしは、だれかべつのひとだったんですもの。」
不思議の国のアリス(岩波少年文庫)

 

 
(引用終了)
 
 わたしはまだ、アリスと同じ境地に立ったとは言えませんが、いずれは「昨日のわたしを語るなんて無理だよ。別人なんだから」と言えるようになりたいものです。
 
 とはいえ、本題はアリスとは別です。
 
 あなたは『響 〜小説家になる方法〜』をご存じですか?
 

 
 簡単に説明すると、類い稀なる文才と個性を持った女子高生、鮎食響が小説を書くことで、世の中をしっちゃかめっちゃかにかき回す物語です。
 
 しかし、面白いのは、主人公、鮎食響の性格です。
 
 彼女は一切我慢をしません。
 やると決めたことは必ずやりますし、やりたくないことは絶対にやりません。
 社会のルールよりも、自身のルールを大切にしているので、社会に対して絶対に折り合いをつけません。
 
 気に入らない奴がいれば容赦なくぶん殴るし、一度やられたなら、どんな手段を使ってもやり返します。
 なのに、妙な存在感があって、言動が一致しているので、なんだか格好いいなと思わされてしまうのが悔しいですね^_^
 


 わたしがこの漫画を読んだのは、たしか高校生くらいでしたが、わたしはこの漫画が嫌いでした。
『小説家になる方法』ってサブタイトルつけてるのに、ただ主人公が才能で蹂躙しているだけじゃん!
 天才を、暴力なんかで表現しやがって!
 ふざけんな!
 
 そう思っていました。
 でも、今改めて読み返してみると、ちゃんと小説家になる方法が書かれていたなぁ、と気づかされたのです。
 
 いえ、たしかに暴力はいけないことです。

 それは、殴ったら相手が傷つくから、という理由ではなく(もちろんそれもあるけれど)、シンプルに暴力を振るえば、人から避けられるからです。
 わたしは書籍や伝聞でしか知りませんが、昔は、体罰などがあったそうです。

 生徒を叱るときに暴力を用いる先生。そして、なぜか感動する生徒。
 昔の、青春ドラマなどが、そんな感じです。
 でも、今は流行りません。昔は感動的に見えたものが、今はなんだか眉を顰めたくなります。
 
 それが、いわゆるホワイト社会の到来なのだと思います。
 ホワイト社会というと、こちらのまといのばの記事を引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
実際にまず感性は徐々に漂白されていき、ホワイト社会に適応していきます。
 
乱暴な言葉遣いや、乱暴なボディランゲージ、乱暴なあり方にだんだん不愉快になっている自分に気付くでしょう。なぜ、以前はこれが楽しかったのだろうと不思議に思うかもしれません。
露骨な性的な表現に眉をひそめるようになります(思ったよりこのブラックな世界ではグロテスクな表現に満ち満ちています)。
都会に出てきた人間が、地元に戻ると、ホッとすると共に、なんで「この人達はこんなゆっくりとした時間の中に生きているのだろう」と思うのに似ています。もはや、そのスピード感では遅すぎて、生きていけないのです。感性が以前とは違ってしまうのです。IQと似ていて、一度、禁断の果実を食べてしまうと、もう楽園には戻れません。我々はホワイト社会に適応すると、ブラックな社会のジョークに笑えなくなるのです。

自分の表現をホワイト化していくと、どんどん心身は漂白されていく感じがして、そして感性が最初に適応していきます。言い争いなどが、不毛で無意味に見えたり、暴力表現が強すぎると感じたり、露骨な表現に眉をひそめたくなります。
 

 
(引用終了)
 
 社会に生きていると、わたしたちは日々なんらかのことに怒りを覚え、そのたびにグッと堪え、なんとか社会に対して折り合いをつけて呑み込みます。
 すると、いつしか自分が何に対して怒りを覚えていたのか、忘れてしまうようになります。
 
 怒ってはいけない。
 それが、日本では長らく、美徳されていたことなのだと思います。
 
 でも、実際のところ、わたしたちは怒らなければなりません。
 折り合いをつけてはいけないのです。
 
 その点において、響は理想です。
 響は絶対に折り合いをつけません。
 なにに折り合いをつけるのかと言うと、自らの世界と外部の世界です。
 同調圧力と言い換えてもいいと思います。
 
 少しでも、その圧力が自らの世界に踏み込んできたとき、響は死に物狂いで抵抗します。
 まるで、受け入れてしまった瞬間、わたしは死ぬとでも言うかのようにです。
 
 自らの世界をわたしたちなりに置き換えると、それはゴールの世界です。自分の理想の世界です。
 イエス様に言わせれば、神の国ですね。
 
 わたしたちはきっと、世界に対して、社会に対して、人間に対して、そして、わたし自身に対して、もっと理想を抱いていたはずです。
 世界は、社会は、人間は、わたしは、もっと大きく、もっと賢く、もっと優しく、もっと大きくなれるハズ。
 
 そう思いながらも、しかし現状に対して心が折れて、いつしか現状に折り合いをつけてしまいます。
 
 でも、その瞬間、わたしたちは死ぬのです。
 自らの意思に依って立つ人間ではなく、社会を動かす歯車になってしまうのです。
 そうして生きる個人なんて、ほんとうに小さな歯車なので、いてもいなくてもどうでもいいのです。
 
 この世界は狂っています。
 もし、そう思えないのなら、それは、そう思わないように洗脳されているからだと思います
 
 作中の響の言葉は、ごく少数の人間に深く突き刺さるのではないか、と個人的に思っています。
 
(引用開始)
 
 何も おかしなことをしてないハズなのに、
 どうしていつとこうなるんだろう。
 どうしていつも、
 一人に……
 
(引用終了)

 
 結局のところ、作家などのクリエイターになれる者は、もう我慢できないほど世の中に不満を抱いている人たちだけなのだと、わたしは思います。
 
 この世界はおかしい!
 なんでみんな受け入れてるんだ!
 みんなみんな狂ってんのか!
 
 そういった激しい情動を持つ人しか、根本のところで、クリエイターとは呼べないように思えます。
 
 なぜなら、なにかを表現するということは、そのなにかに不満を抱いていないと、おかしいからです。
 たとえば、誰も、人が歩くことをテーマに作品は作らないでしょう? 
 それは、みんな人が歩くことに不満を抱いていないからです(まあ、もしかしたらいるのかもしれませんが)。
 
 理想の世界と現状の世界。
 その二つの世界の差異に対する不満や苛立ち、それを認知的不協和と呼び、作家の創造力の源泉はそこにあります。
 
 だから、折り合いをつけてしまったら終わりなのです。
 それが普通だとか、それが常識だとか、世間一般の考えを受け入れてしまった瞬間、作家としての自分が死ぬのです。
 
 そう考えると、作中で、一度芥川賞を取ってから、同じような小説しか書けなくなり、停滞してしまった鬼島仁の言葉が、強烈な臨場感を持って立ち上がります。
 
(引用開始)
 
 お前の言う通り、
 オレに才能があったのはもう昔だ。
 
 今でも覚えてる。
『花枯れ国朽ち』で芥川をとった時のやり遂げたって感覚。
 
 あの時からオレにはもう、
 世の中に対して言いたいこととか特にないんだよ
 
(引用終了)

 
 おそらく、鬼島仁先生は、デビュー当時では、見下されたり、軽く扱われたり、さまざまな理不尽に遭ったのでしょう。
 しかし、それは認知的不協和となり、小説を書く推進力になったはずです。
 
 しかし、芥川賞に受賞してからは、誰も鬼島先生を不遇に扱いません。
 少なくとも、目に見える範囲では。
 そうすると、ゴールを新たに更新しない限り、自ずと不満は消え、停滞してしまいます。
 
 ならば、ブーイングや、バッシングは、まさにチャレンジャーの勲章なのでしょう。
 もし、わたしが目指す道が誰かに否定されたりしたら、きっと死ぬほどムカつくとは思いますが、ある種の福音のようにも思えるハズです。
 
 否定されるということは、理解されないということは、現状の外側である可能性が高いからです。
 
 わたしの中の響はこう言っています。
 
 小説家になりたいのなら、不満を持て。
 不満を持つためには、ゴールを設定しろ。
 お前は、社会に、人間に、そして自分に、どうあって欲しい? なにが理想だ?
 
 そうやって世界に対して強烈に不満を抱き、そして、あなたが作家という生き物であるならば、自ずと書き始めるはずです、小説を。
 文章力や、ストーリーテリング能力は二の次です。
 必要になれば、後から付いてきます。
 
 まさにリルケです!
 
(引用開始)
 
詩人のリルケは若き詩人にこうアドバイスしています。

自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。(リルケ『若き詩人への手紙』)


 
リルケを踏まえると、真の意味で文章を書くことの難しさと、逆説的な易しさを感じます。すなわち、書くべきもの、書かなければ死んでしまうようなものさえ自分の中に見つかれば、文章を書く手が止まることはなくなるということです。

 

 
(引用終了)
 
 響がわたしたちに教えてくれることは、決して、社会(現状)に対して折り合いをつけてはいけないということです。
 しかし、真正面から戦ってはいけません。
 当たり前ですが、普通に負けます。
 
 あなたにとっての正気とは、大多数の人々にとっての狂気であり、あなたにとっての狂気とは、大多数の人々にとっての正気です。
 
 世間一般から見れば、あなたの方が狂っているのです。
 そこをとやかく言ってもしょうがありません。
 粛々と受け入れるのみです。
 
 なので、まといのばのブログの、白鳥とアヒルの喩えは、とても秀逸だと思いますので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
社会を進歩させる者(白鳥)が、高く評価されるべきで、白鳥のふりをしているアヒルたちは評価されるべきではないと白鳥たちは確信しています。でも、現実は違います。
白鳥がアヒルのように扱われ、ニセモノのアヒルたちが白鳥のように扱われます。
そりゃ、怒りたくなり、憤りたくなり、神を呪いたくなるでしょう。
でも、それは僕等の価値観が狂っているせいです。誰も、真に白鳥であることに価値を見いださないのです。いや、少なくともアヒルは見出しません。
そして、社会的に間違った価値観で怒っている人は排除されます。みにくいアヒルの子以上に排除されます。

 

 
(引用終了)
 
 わたしたちは、アヒルの着ぐるみをまとった白鳥です。
 賞賛も承認も、わたしたちには必要ありません。
 美しさは誇示せず、隠れ住んで生きましょう。
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 

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