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個人的くるり観

これまでの私の短い人生のなかで、自分の音楽趣味の幅が一気に広がるきっかけになった音楽が2つある。そのひとつめが中学3年生のときに聴き始めたくるりだ。「ピューと吹くジャガー」にちらっと出てきたこともあって、バンドの名前ということだけは以前から知っていたが、曲を聴いたことはなかった。
聴き始めたときの「これや!ワイの聴きたかったんはこういう音楽やで!」というかつてないしっくり感を覚えている。くるりは、まるで周囲四辺が準備されたパズルの1ピースがハマるように、ぴったりと私の感性にフィットした。

それまで親や姉が買ったり借りてきたりしたCDを聞くばかりだった私は、くるりを知ったことで初めて、能動的に自分の聴きたい音楽を探り始めた。
ネットで色々と調べては、TSUTAYAでCDを借りた。TSUTAYAにないものはAmazonで買った。それまで触れてこなかった良い音楽をたくさん見つけた。

くるりの音楽からは、色々な音が聞こえた。聴いても聴いても、新しい音が見つかるのが新鮮だった。単にそれまでそういう聴き方をしてこなかっただけなのかもしれないが、くるりを聴くことで少しずつ分析するように音楽を聴くようになった。楽器にも興味が湧いた。

分析したところで私は未だにどんなポップスもボーカルばかり聞いているのだが、くるりのボーカルの総じて押しすぎず、かといって引きすぎないその塩梅が、私にとって心地良かった。
曲にもよるが、ハマっているときの嫌味のなさは全国トップクラスだと個人的には思う。
無表情ではない。棒読みというわけでもない。ボーカルに主張はある。しかし強すぎずかつ卑屈でもないから、押し付けがましい感じがない。つい打ち消しの助動詞ばかり使ってしまったが、くるりのボーカルについてはそういう説明の仕方になってしまう。
とにかくこのボーカルのおかげで、説明過多にならない歌詞と相まって、複雑なはずのくるりの音楽はとてもストレートに私の中に入ってきた。
僭越ながら自分の曲を作るときも、CDで何度も聴いた岸田繁の声は、私にとって一つのベンチマークだ。わからなくなったら彼の声を思い出す。当然真似できるわけでは無いが、無意識に歌に添加してしまう無駄なものを取り除く洗剤のような役割としてくるりを聴くことがある。
「余計な色気を出すな」と岸田繁が私を諭すのだ。

幸いなことにくるりは、いまも新しい音楽を作ってくれている。
新作を聴くたびに、いつも私は置き去りにされる思いがする。期待通りのことをあんまりやってくれない。こちらがそれに追いつく頃には、何だか違うことをやっている。しかしたまに、初めからぴったりくる曲がある。
それを軸に聴きなおすと、いつの間にか追いつく。
そんなことを繰り返してきた10数年間だった。

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