揺らがない場所?

揺らがない場所って何処だろう。周りの木々はあっという間に開発で壊された。平穏はすぐ揺らぐ。何故?
平穏って言葉がゆらゆらとしていて地に立っているようには思えないでしょう?故に簡単に崩れるの。覚えていて欲しい、今の環境はすぐに崩壊してしまうよ。いつまであなたがそこにいられるかなんてわからないでしょう?考えてみるととても恐ろしいことだと思いません?これを常に人間、全ての生き物は考えなくてはなりません。周りが駄目なら自分しか指標はない。だからね、己を持って保つことがとても大切なの。せめて自分の心だけでも揺らがないようになりたい。これからその望みを叶えるためのことをたくさん吸収しながらしばらくは生きていようと思う。
嬉しいことに最近は希死念慮が薄くなっている。この嬉しいこととは私以外の存在からしたもので。悲しいことに私はその希死念慮を失っていくのがとても怖い。死に指一本程度だが触れても尚それは変わらず。私は死後の世界など信じていない。脳の機能が停止した先にあるものなんて無かろうと思っている。無。ただの無。私が終わるだけでそれ以上でもそれ以下でもないでしょう。私の中にある憎悪も愛情も打算的な善意も純粋な善意も全て、そして私の中にいる他の存在も全て感じることがなくなることを望んで望んで望み尽くした。故に死が救済だと信じて止まなかった。だがその救済は自分だけのもので。失うことはとても苦しく恐ろしく何もかも残された者にとっては残酷でそれを思うと死ぬにも死ねない状態まで来てしまった。そのせいで死すらも救済とは思えなくなってしまった。きっとこれでいいのでしょうがどうしても腑に落ちなくてやるせない。「自分はひとりではない」とそれを認識した瞬間救われた気持ちにもなったし死を選ぶ権利を剥奪されたような気持ちにもなった。感情は複雑すぎる。情報が溢れる社会で生きる身には今の人間の脳はあまりにも苦行だとは思わないかい?
突然ロボトミー手術の単語が頭に浮かんだ。せっかくだし紐解こう。あれは患者自身の為ではない。患者の世話をしきれず消耗し疲れ果てた結果だと私は感じている。誰にも罪がないから余計にいたたまれない気持ちになるよ、そんなことない?殺すことは罪だ。今も昔も。当人も周りの他者も望んでそうなったわけではないのにそうせざるを得ない状況化で非人道的だが最後の手段だったんだろう。そう言われると肯定と否定を天秤にかけるような浅はかな考えには至らないような気がする。死が救済になる世界だって絶対的に存在はしているだろう。だが許してはくれないんだ。誰も。
何を伝えたくて書いているのかもうわからなくなってきたから今日はもうやめるよ。またね。

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