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2021.12.01日記

今季初めての雪に降られ、この町で暮らす2回目の冬が始まった。雪の日、県境の峠を越えてやって来る風は日本海の水分を含んで重く湿っぽい気がする。土地の人が言う"雪が降る気配"の構成要素のうち何割かは、山肌を枯らしながら吹き下りるこの冷たい風を指すんだろう。

今日は、県境に跨る山の中を歩いた。横殴りの雪に吹き付けられながら、しずまりかえった山道を進むのは恐ろしい。遭難や低体温症の懸念ももちろん、いちばん現実的な恐怖がクマ。クマは恐ろしい。勝てないしほとんど防げない。遭遇した時の逃げ方のハウツーだって、どれほど信頼して良いものか正直半信半疑のままだ。年中リュックにしまっている熊よけの鈴も、今日に限って忘れている。スギやヒノキの幹の間に、冬眠し損ねたクマがふらついていないか警戒しながら歩いているうち、こんな短歌を思い出した。

森のなか鈴を鳴らして歩くようタイムラインにさみしいと書く/森山緋紗

塔短歌会所属の森山緋紗さんの短歌です。どこで拝読したのか覚えていなかったけれど、調べたら2021年1月24日に短歌投稿サイト「うたの日」で発表されていました。http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=2491f&id=32▶︎▶︎うたの日https://twitter.com/moriyamahisa/status/1353237612769677313?s=21 ▶︎▶︎森山さんのツイート

比喩の森のなかで鳴らして歩くのは熊よけの鈴でしょうか。あーこの人は熊よけの鈴持ってんだよなぁうらやましいなぁと思いつつも、改めて考えるととても良い歌でしみじみ感じ入ってしまった。

熊よけの鈴は、熊に人間の存在を知らせるために使う。基本的に熊は人間と遭遇したくないから、人間にしか生み出せない金属同士が触れ合う音をこわがって音のする方には近づかなくなる...という原理だそう(科学的な根拠のある説明ではなく、昔お母さんに聞いた話)。

薄暗い森のなか「私はここにいるよ」と、いるのかいないのかわからない獣たちに知らせる鈴は、だれがいま見ているのかわからないタイムラインに孤独を書き込むことと同じなんだという比喩が巧み。森のなかでちりんと響いては静寂に吸われてしまうひそやかな鈴の音と、反応の返ってこない無機質なタイムラインを下っていく心の吐露が対比されて美しい。比喩がぴったり着地を決めているだけの歌はうそっぽくなってしまうけれど、この歌にはちょっとした比喩のズレというか、ねじれがあってそれが「本音っぽい」と思う。

ねじれがなにかというと。ふつうは「さみしい」なんて書くのは"構ってちゃん"なんてばかにされて、"誰かに大丈夫?って心配してほしいんでしょ"なんて見方をされてしまう。つまりは、多くの人(病みツイをせず、病みツイを見るだけの人)にとって「さみしい」は人を"呼び寄せる"誘い受けなのだ。でも主体はそうではなく、「さみしい」というつぶやきは、だれかに自分の存在を知らせつつ、そのだれかを寄せ付けないための"鈴"なのだと感じている。

考えてみれば、「さみしい」とツイートしている人にわたしはどう声を掛ければいいのかわからずそっと距離を置いてしまう(自分も病みツイするくせに)。その人のことが嫌いじゃなくても、本当にどうしたらいいのかわからなくて見てはいけないものを見た気になる。実際、病みツイを見てリプライを送る人の方が特殊で、タイムラインのほとんどの人はスルーするしかない。でも、それでも主体は、周囲を困らせるかもしれない嫌われてしまうかもしれないと客観しながら、この時は「さみしい」と書くことでしか心を発散できなかったんだと思う。すごく人間味があるし、わかる。すごくわかる。私もツイートにうつうつとした気持ちを込めて、あとから後悔する人間だから。でも、長くSNSをやってる人間には、みんなきっとそんな夜がある。

歌会では「読み手の心のひだに触れる」という評がときどきされる。けれどこの歌は、どちらかというと作中主体の心のひだや屈託に触れさせてもらったような気持ちになる。生きた人間が歌の向こう側にいて、さみしい夜に心強く、その存在に励まされる。

...話がぶっ飛びますが、山道の行き止まりは滝でした。周囲を茂るシダに降りたての雪がうっすら積もって、神々しいくらいきれいでした。戻りの道は大きな声で「ザ⭐︎ピース」を歌っていたおかげかクマには会わずに済みました🧸