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ラン、ラン、ラン!

アナログ作家の創作・読書ノート      おおくぼ系

 

 北風が春一番に変わると、スポーツの季節も開花する。

 コロナで中止されていた鹿児島マラソンが行われた。当日は、朝はやや肌寒いが快晴となり絶好の日よりとなった。

 

系どんの住まいはかごしま市に隣接しており、このマラソン大会の折り返し点にあたっている。それで、陽気にさそわれて野次馬のひとりとして応援にでかけた。最近は、演技者(エントリー者)よりも観戦者となることが多い、見ていて楽しむ方へ変身している。

以前は、演技者となりステージに上がることで燃えた(笑)のだが、傍観者もけっこうわるくないものである。折り返し点まで歩いていくと、まったりとした陽のなかにさらされて、心も体もあたたまって眩しさあふれる異次元世界にワープする。

 

 〈折り返し点〉との看板のある国道の沿道には、結構な人だかりができていて、はやトップグループは過ぎ去っていたが、後続組が三々五々と駆け抜けてゆく。

 30代40代が多いのだが、中には60、70前後の高齢者もけっこう頑張っている。

 女装をしたりして受け狙いの方やウルトマンに変身してシュワッチを放ちながらのパフォーマンスを披露し、そのたびに歓声が上がる。折り返しの看板を背に一休みして自撮りを行い満足そうなアベックもいる。

女性ランナーはファッションセンスもよく輝いて見える。

会社の期待を背負って宣伝ファッションを翻し声援を受ける人、さらに沿道に知り合いがいて、ランナーが近寄り、「けっこうシンドイぞ、足がパンパンで感覚がない」とぼやいて、また走り続けるなど、戸外イベントの面白さにしばしひたった。

 

 春光を浴びながら、スポーツは極上のエンターテイエントであることを再認識したのだが、エンタメをもりあげ、祭り上げる聴衆があってこそのものであると思う。

 おりしも、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)がはじまり、スーパースター大谷翔平の登場で日本中いや世界中が盛りあがり、さらに将棋の分野では藤井聡太竜王の最年少タイトル戦で勝敗に一喜一憂する。

 これらのドキドキ、ハラハラのおかげでテレビとパソコンにくぎ付けとなって、寝不足にもなった。

 ただ、20代の若い、天才を超えた神の子が出現すると、人口減少社会に不景気のなかで衰弱しつつある日本もまだまだ捨てたものではないなと感じる。加えて、大谷選手、藤井竜王ともに男性であるので、挑戦する男の新しい形が始動しはじめたのではとたのもしく思う。いつの時代にも救世主は、突然現れるもので、サッカー人気に陰っていた野球界や古典となっていた将棋界に多くの〈押し〉を獲得することとなった。

 

 小説というエンタメを考えると、あきらかな救世主は、〈ハリーポッター〉のJ.K.ローリングではなかろうかと考える。母子家庭で生活保護をもらい子供を育てながら物語作りに没頭し、世界的規模でのドリームをつかんだ。また、〈ハリーポッター〉は、現在の異世界転生のはしり作品ではなかろうか、コンピューターグラフィックで映像化されてエポックメーキングな映画ともなった。ローリング氏はサクセスストーリーの典型として、人々に多大な夢を与えたのだ。

 

 日本でのエポックはと考えると、まずはマンガである。今日のアニメへの大発展となった分岐点は、やはり、マンガの神様手塚治虫に由来すると考える。以後、鳥山明の〈ドクタースランプ〉、高橋留美子の〈うる星やつら〉など、ビッグネームが連なり、今日の巨大なアニメ文化の山脈が築かれた。

 反面、小説などの文字文化はピークを過ぎて、文学も色あせて古典芸能へと収蔵されていくと思う。気をはいているのは、なろう系やライトノベルに代表される若年層のパワーである。これら世代は、旧世代と違って(と、言うより世代なんかどうでもよくて)人生を、今を、パズルを楽しむかのように、ゲーム感覚で遊んでいる。先の心配もせずに、明るすぎるぐらい明るくはじけているのである。

 

 こうも時代が多様化しつつあり、いろんなエンタメにジャンル分けされていくと、膨大な人気を獲得することは困難きわまりない。それだけに大谷選手や藤井竜王の降臨は、画期的な出来事だと思われる。

 

いままで作家とは、傍観者となり観察者でもあったかと思う。人としての生き方や本質などを模索する……いかにも何かを背負って重たいのである。

YouTubeで大沢在昌氏の〈暗約領域 新宿鮫Ⅺ〉の刊行インタビューを見た。さらに昨年、〈黒石 新宿鮫Ⅻ>も刊行されて、新宿鮫シリーズも超ロングセラーとなった。〈絆回廊 新宿鮫Ⅹ〉までは、読んで棚に並べており、Ⅺ、Ⅻをゆっくりと読みたいと思っている。だが、作品そのものは大好きなのだが、作者が顔をだして自作を語ることには、やや違和感を覚えるようになった。

小説の世界では、著名な作家というものは、ベールに包まれたほうがありがたく思える。生みだされた作品がすべてで、作者は作品に溶け込んで見えないものである方が望ましいのではないか。

なぜか大谷選手や藤井竜王とは違って、生の人物よりも生みだされた作品のみが輝く思いがある。それこそがフィクション(創作)だと。


    (適時、掲載します。ヨロピク!)


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