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桃とヒキガエル

高額収入バイトの看板が立った。背景に描かれた蛍光ピンクの桃が砂埃で霞む。働く人はいない。島には職場がない。出稼ぎは頭にない。でかでかと赤い字で書かれた本土の電話番号は、先行きを不安に思う人を駆り立てている。本土から来たペット用の犬が看板にマーキングした。世話ができないので、放されたままになっている。母は私に自由にしなさいと言った。私は数年前、島の職員から一人の女性に「子供」としてプレゼントされた。ペットのようで、人形のような「子供」を与えられた母はとても喜んだ。名前をつけるように職員に言われ、アリスと名付けた。四回寝たら名前を忘れたので、私に聞いてきた。覚えていたけれど、私は「子供」なので知んぷりした。思い出しやすいように次はなますとつけられた。なまえからなますへとすぐ連想できるように。だけど、二カ月ももたなかった。島在住の人種名のヒキコモリからヒキを取って、今度はヒキちゃんになった。ヒキちゃんという名前は、ヒキガエルみたいだから嫌いだった。すぐ忘れてほしかったけれど、三年もヒキちゃんで固定だった。職員がヒキちゃんと呼び出したのが辛抱ならなくて、嘘をついた。「お母さん、私はヒキちゃんじゃないよ。ちおさんだよ」「ちおさん?」「うん。チョコレートをもじってちおさん。お母さんちゃんと言ってたよ」「そっか。忘れててごめんね。ちおさん」口の中で母がちおさんを噛み砕いたのがわかった。本当は聞いたのも言ったのも初めてだ。それから母や職員、他の住人が名前を忘れたり、間違えたりすると絶対にちおさんだよと教えてあげるようにしている。島に住むヒキコモリたちは好きに命名や変更ができるし、一つの名前で統一して呼ばれること自体少ない。私の名前を誰も確認できないからこそできたことだった。島に移住してきたヒキコモリ一世の林さんは「引きこもりの定義に反するのに、働かないってだけでそういう人を大勢、島に連れてきた上に、閉じ込めるなんて人権侵害だよ」と私に話した。林さんの言う「引きこもり」は働かずにずっと家に閉じ籠っている人という意味だった。それ普通のことだよと笑うと、林さんは項垂れた。きっと、生まれた時から島にいるヒキコモリ二世の私にはわからない景色が林さんには見えているんだと思った。林さんの話を母にしてあげた。ゆっくりと頷くようながっくりと首を折るような動作をした後、スウェットの紐にいくつも結び目を作り始めた。「あっだめだよ、かた結びしちゃ。取れなくなるよ」母には他人よりも二割増しで優しく話しかける。母を人たらしめるのは私のこういった心掛けからだ。「ねえ。ちおさんは林さんのことが好き?」「好きってどんなレベルかにもよるよね。わかんないよ」「どれぐらい好き。別に嫌いでもいいんだよ」「嫌い、ではないんじゃないかな」「じゃあ、普通?」「普通よりちょい下」「うん。お母さんもそれでいいと思うよ。あんまり影響されないようにね」影響は母から受けるものなんだよと言いかけたが、やめた。住民の集まりの中で母らしくすると浮く。父らしくするとさらに浮く。持ち主対所有物と人間対人間の関係の間をふらふらしながら、子供は大人になっていく。まだ子供なのに「子供」を与えられた同い年の一花は、この頃ずっと子育てに苦しんでいる。「欲しいって言った責任取ろうって思うんだけどね」「うん」「遊びたいよ」「私も一花と遊びたい」「母は育つもんだって職員さんに昨日言われたんだけどさ、誰もそんなんなってないじゃん。形式だけだよって言ってたのに急にハイお母さんですから、ご飯あげてお風呂入れて寝かせてねとか言われても戸惑うだけなんよ」「うん」「人なのに、ペットとかよりも融通利かなくてわけわかんない。もうちょっと大きくなった子供欲しかった。一緒に遊べるくらいの」「遊びたいよね」一花は息子くんを膝にのせてソシャゲをしだした。一花の中でそれは日常であって、遊びではないのだと思う。母も私がいない間ぐらいは遊んでくれたっていいのに、たぶんだけど何もしていない気がする。島にはかろうじてネットがあるので、大半が長時間画面に齧りついている。渡り廊下の横にあるパソコン室で暇つぶしをしようと思ったが、すでに満室で使えなかった。熱の入った丸い背中が似通っていて、住人たちは実は全員で大きな家族なのではないかと疑いそうになる。ヘッドホンから漏れ聞こえる効果音にシンパシーと嫌悪感を覚えた。部屋に帰ると、母が床のワックスを爪の先で剥がしながらムツゴロウを咥えている。ぶにぶにとした黒いムツゴロウの顔が母の赤い口に吸い込まれていく。昼が過ぎているので、主食の芋団子がカピカピになっていた。「ちおさんがいなかったらお母さん寝るしかないなってなって、さっき起きたの」「別に好きなことしときゃいいんだよ」「ちおさんの面倒見てるのが一番楽し」笑うと前歯に尾びれが挟まっていた。母は私を放棄する気はなかったのかな。母の言った自由というのがよくわからないでいる。一花みたいに不満を言えばいいのに、何も言わないのが却って不気味だった。私は母の肉ののり切らない太ももに頭を落とした。反抗したくなったり、離れたくなったりするのはどっちも同じ甘えなんだと思う。だからといって素直になるとぞわっとする。十歳上のあんこちゃんは血の繋がったあんこちゃんママとずっと手を繋いでいる。この間なんかは友達みたいだねと職員に褒められていた。あんこちゃん親子は見合わせてにこにこ笑っていた。親子の距離感でもなくって、あんこちゃんママのことを半身だとあんこちゃんは答えそうな勢いであんこちゃんママと同化していく。口角の釣りあげ方、歩き方、服装、体臭、癖をお互いに繋いだ手からインプットしている。半分同じ遺伝子を持ったそっくりさではなく、別々の肉体を持つ人間であるということが認識できなくなるバグを引き起こしたかのように、あんこちゃん親子は一緒にいる。あんこちゃん親子の日常を目の当たりにするたびに、私はお母さんのお腹から出てこなくてよかったと思う。一人の位置にもう一人は必要ないし、他人を自分の領域に侵入させたら、離れるのは容易ではないから、別個体は距離をある一定以上取らなければいけない。お母さんと侵入し合うこと、私は許さない。
 ドアが力いっぱい開け放たれて一花の息子くんが部屋に入ってきた。鍵がないのをプライバシーなんて持たない小さい子によって時折、実感する。一花は私と同じヒキコモリ二世なので、息子くんはヒキコモリ三世にあたる。世代それぞれに価値観が違うのか、三世には独特の色というのがあるのかよくわからないが、私とは違うということだけは確かだ。「おばちゃん、ポテチとかないのん?」「えっポテチって、自分ちで支給された分を食べなよ」欲しい物を職員に申請すれば、三食以外の食品は二週間に一度、物品は一カ月に一度のペースで世帯ごとに支給されることになっている。「テレビのおじちゃんはくれったもんよ」「え。くれった?」「おん。食べやあちゅうて」「食べさせてくれたってこと? いやいや、ねだっても食べ物はあげられないよ」息子くんはむくれた。そして、柔らかい頭に私の言葉は届きません、といった態度でぐるぐると部屋を歩き回る。母が怯えだすからやめてほしい。もう少しきつく注意しようか迷う。遠くでもういいかいと声が聞こえ、それに対し、もういいよと返事をした。初めて聞くような方言を繰り出す息子くんはもういいよだけはそのまま言うのだなと思った。どだたたと小さい子の走る音とドアを開閉音が響いている。「聞いちょったよりも、もんないのう。おかんはちおちゃんのこんは趣味がたんまりちゅうてたけんど」正確に意味を拾えているか不安になるほどに息子くんの訛りがきつい。「息子くん、その言葉遣いどうしたの。何かの影響かなんかかな。一花は標準語しか使ってなかったはずだけど」本土にはいろんな種類の方言があるのだと教えられたことがある。しかし、人が方言を沢山使ったところを見聞きしてこなかったのでどうしても面食らう。「息子くん友達と遊んでるとこなんだよね」「気になるっちゃば、おばちゃんもかてったろか」そう言いながら息子くんはぐいっと私の手首を引っ張った。「みいつけた。タッチ。はい次の鬼な」「おん。おばちゃんもかてってよかね?」「いいよお」方言と標準語でお互いにやり取りをしているが、一つも躓かないで通じ合っている。小さい子たちの順応性の高さはやや気持ち悪いとさえ言える。「息子くん。一花はどうしてるのかな。部屋?」「ういっちゃあかんこ見るってば出てったとね」方言の意味をわざわざ尋ねるのは酷に思えたので、そっかとだけ言った。個室を遊び場にするのはやめさせて難易度は下がるが、広い共有スペースに誘導した。テレビの前は居眠り老人数人の呼気が漂っている。もういいかい、まあだだよを七往復して私は息子くんぐらいの年のときにまあだだよを職員に向かって言ったのを思い出した。思い出さなかった。クッションの潰れた椅子に腰かけ、髪で顔を隠した。見つかって早く終われ。足音を拾えるように耳に神経を集中させる。若い男の話し声が聞こえ、女が二人返事をした。私たちが来る前から座っていた同世代の男女三人組。居心地が良いとは決して言えない共有スペースでくっついているのが声量からわかる。男が話しの軸で、女のターンはどちらも短い。「あっおかん」息子くんがくるりと向き直った瞬間にそう言ったように聞こえた。私は隠れるのも忘れてとっさにその先を見た。一花が隣の男の乳首をつねっている。どうして気付かなかったのだろうか。共有スペースに来たとき、息子くんが伏せたとき、椅子に座ったとき、盗み聞きしていたとき。いくらでも三人組の一人が一花だと気付くタイミングはあったのに。なぜ今。先に私が気付くんじゃなくて、息子くんが気付いた。共有スペースでかち合った。私は冷静さを欠いた状態で息子くんを廊下に連れだした。「あれはね。多分」「けでんするっちゃわかるけんど、おらはしっちょうから。でえじょうぶでえじょうぶ」「……え。んああ、彼氏がいるって前から知ってたからどうもしてないのか」「慣れたっちゃけん、そがいにショックじゃねぇのう」ケロッとした表情にこちらが傷つきそうになる。「普段からずっと彼氏といるの。育ててもらうっていうか、面倒は誰に見てもらってるの。本人に聞くのもあれかも知れないけど」「ほうじゃのう、そこらのじいちゃんばあちゃんにかてってもろてるだに。すんげえ食おしてもろてるよ、いっせつ」ただの推測でしかないが、一花はほとんど毎日彼氏と過ごし、その間中、子供が好きな老人たちに息子くんを預けているのではないだろうか。老人たちの中には訛りのきつい地域から島に引っ越してきた人が少なからずいて、方言が息子くんにうつっている。つまりは、それほどの時間を息子くんは他人と過ごしていることになる。例え一花が息子くんを一緒にいることがあっても、私が遊びに行ったときのようにソシャゲをして、双方喋らずに暇潰ししているのかもしれない。でなければ、息子くんが標準語を喋らない理由がつかない。私は可哀そうになって息子くんとしこたま遊んだ。だが本当のところは一花が私とは遊んでくれない嫉妬で狂いそうになっただけだった。部屋に戻って母に縋った。母に頭を撫でてほしかった。初めてママなんて呼んじゃって困らせたくなった。だけど、母はまた私の名前を忘れていた。訂正する気にもなれず、またつけてほしいとも言えなかった。いや、本当は言えたはずだ。本当の親子なら。私も子供を欲しがるべきか迷った。母や一花の気持ちにならなければ、それらを真っ向から軽蔑し、存在を消すような行動に自分が出かねないと思った。霊安室の向かいに掲げられた公衆電話を見上げた。天井間近にくっついた棚の上の電話に手を伸ばす必要がある。届くはずがない。私はあまりにも小さい。ダンボール箱を職員からもらって積み上げた。受話器を取る前にすることがある。看板に書かれた本土にあるバイトの電話番号を押すこと。掛けたら絶対に相手は出る。本土の人間と繋がる。私は人生で初めてもしもしって言う。

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