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【短編】そこに生きる結晶

(約12000字)

 まだ来ない――。
 薄い木製の屋根に壁。自然が豊かなこの場所にちょこんと建てられた簡素で小さな小屋の中、いるのは私一人だけ。上司から「異動先で住むアパートを決めてこい」と言われ、最寄り駅からバスに乗ってこのバス停に初めて降り立ってから早一年。一日に停まるバスの数を知ったときは「ええっ!?」と声を上げてしまうくらいに驚いたけど、今ではすっかり慣れてしまった。
 お尻が冷たくなるボロボロの待合椅子には座らずに、代わりにくたびれた黒いトートバッグとビニール傘をそこに置き、椅子の前に立って両足を震えさせながら右手側にある窓に目線を移す。サッシが虫の死骸だらけになっているその窓のガラスの向こう側にある道路。そこだけをひたすらじいっと見つめ、それでもやっぱり変化がない景色。私は思わず「はあ~」と大きな溜め息をついた。
 このバス停に時間通りにバスが来たことはあっただろうか。特に冬は、二十分、三十分遅れることもザラにある。田んぼと民家に挟まれた道路には明け方除雪車が通った形跡。そこに無慈悲に降り積もっていく雪、雪、雪。バスはいつも安全運転で、何よりここは、運転士さんも乗客も、途中で乗り降りするおじいちゃん、おばあちゃんに毎回手を貸すような温かい場所。だからいつも思うよ。この場所には白が似合うんだ。
 けど、けどさあ、

「寒い。寒すぎるよ……!」

 バス停でバスを待つ時間は冬が一番長く感じる。もう吐く息もことごとく白くて、代わりに手と耳は真っ赤になって、『寒い』を通り越して『痛い』だし。雪もただ眺める分には綺麗で良いんだけどなあ。
 人事異動を機にこの場所に初めて足を踏み入れた日も、今日のようにしんしんと雪が降っていた。そのときは雪を見て純粋に興奮した。「うわあっ、雪だあ!」なんて、子どものように心躍らせて、頭の中でミニ雪だるまを作る自分、さらには、窓の外で静かに降る雪を見ながらコタツに入ってみかんを食べて……そんな自分を想像して、とにかくワクワクした。
 しかしそのワクワクは、『雪のある日常』にいとも簡単に壊されてしまった。勤務先まで徒歩で行ける距離のアパートを選び、会社に契約してもらったはいいものの、雪が降ると歩く速度が格段に落ちる。そして滑る、転ぶ、起き上がれない。慣れないうちは危うく遅刻しそうになった。それでも徒歩はまだいい。営業車の運転が怖い。冗談抜きで命の危険を感じるほど怖い。下手にブレーキを踏めない。思いがけないタイミングで思いがけない方向にスリップする。何度雪道で動けなくなって知らない人達に助けてもらったことだろう。そして何度お取引先様との約束の時間に遅刻したことだろう。一年前の二月初旬にここに引っ越してきた私は二月が終わる前に「もう勘弁して」と根を上げた。

 初めて雪が原因でアポイントの時間に遅れた日、私の予想に反してお取引先様はあまり怒っていなかった。異動先で新しく私の上司になった人からもそこまで叱責されず、「雪はこういうものだから諦めろ。命が最優先だから」とあまり表情を変えずにボソッと言われた。
 上司だけでなく、今私が所属している支店の人は皆落ち着いている。そして年齢層が高い。落ち着いていると言えば聞こえはいいけど、全体的にどこか“諦め”の雰囲気が漂っている気がする。明るい人は一人もいない。皆揃って、怒りもしないけど笑うこともない。
 ああ、だから私はここに異動になったのか。
 異動になってから“笑わない”空気の中で仕事をしているうちに私は妙に納得してきた。この場所は私に合っているのかもしれない。私は営業職のわりに営業スマイルが上手くないから。

 異動になる前はここよりもずっと栄えているところに住んでいて、そこは街全体が華やかな雰囲気で、仕事で関わる人は外側の人も内側の人も皆ハツラツとしていて上昇志向で、一分一秒を争っていた。そんな空気に私も馴染めるように頑張って笑顔を作ってみたけれど何回やっても顔が硬くて、何度先輩に「あなた暗いのよ! もっとちゃんと笑って! それともっと明るくいなきゃお取引先様に失礼よ!」と言われたことだろう。そもそもどうして私が営業部に所属になったのか、いまだに分からない。特にやりたいこともなく、「御社で働けるのであれば特に仕事は選びません」みたいな綺麗事を面接で言った記憶はあるけど、それだけで私のような暗い人間に営業をさせるのだろうか。本当に分からない。就活のとき、企業指定のエントリーシートに書かれていた『全国転勤可能』という六文字に丸を付けたことくらいしか思い当たらない。そのくらい、私はちゃんと笑えない。そのせいで今まで幾度となく損をしてきた。

 何をしても無駄になる。何を頑張っても明るくて笑顔が素敵な人間に全部持っていかれる。きっと私みたいな人間は、誰も見向きもしないような端っこで大人しくしているのが一番いいのだろう。プライベートを彩る好きなものが一つもないわけじゃないけど、だからってそれで人生の幅を広げるなんて私には到底無理だし、プライベートでも人生の幅を広げられたり成長出来るのは卑屈じゃない明るい人だけなんだろうし、何か表だって動いたらきっと私は更に卑屈になるだろうから、とにかく私は大人しく地味にしているほうがいいのだ。笑えず、笑わせることも出来ず、人を楽しませることが出来ないのなら、大人しくしていなきゃいけない。楽しませられないならせめて、気分を悪くさせることだけはしないでおきたい。そう思ってなるべく静かにして、余計なことは言わずに、ただひたすら先輩の笑顔のやり方をどうにかして真似しようとしていたら、顔が硬くて、挙句「暗い」と叱られて。

「そりゃそうだよなあ……」

 今度はじいっとではなく、ぼんやりと窓の外を眺め始めた。バスはまだ来ない。昨晩からしんしんと降っていた雪はちらちらと、降る数と速度を落とし、ほんの少しだけ晴れ間が覗き始めた。

「そりゃ、そうなんだよ」

 同じような独り言を繰り返し、性懲りもなくまた溜め息をついた。
 叱られて当然なのだ。「私こういう人間なんで」は仕事上では通用しない。「ちゃんと笑え」って言われたらちゃんと笑わなきゃならない。それは分かっちゃいるけども。
 ねえ、ちょいと求められるコミュニケーション能力が高すぎるんじゃないのかい? どうしてみんな、そんな当たり前のように上手く笑えるんですか? やっぱり私の能力が低いんですか? 能力が低いから、私がやることはこれからも『やっていないのと同じ』になるんですか? それが嫌なら結果を残すしかないんだけど、頭では分かっているんだけど、私はどう頑張っても上手く笑えなくて、ほらまた、明るい誰かに持っていかれて――
 そう悩んでいた矢先に今の支店への異動が決まった。だから考えようによっては運が良かったととらえることも出来る。暗い人間は“笑わない環境”になら上手く溶け込めるから。幸い、異動になってからは「ちゃんと笑え」って言われることはなくなった。上司も、一緒に働く人も、お取引先様ものんびりしていて、それが私にとっては凄くありがたくて、自分で感じる限りではストレス値はずっと下がったように思う。所属エリア規定によってお給料の額も下がったけれど。
 どれだけストレス値が下がった気分になったってやっぱり数字の力は恐ろしい。お給料が下がった分だけ自分の価値も下がったのだと、そう思い込ませるには十分な力を持っていて――
 あーあ。私の頭の中はいつもこう。
 どんなに前向きになろうとしても私はいつだって最終的にネガティブな方向に向かってしまう。それも、ダラダラ、ダラダラと無駄に時間をかけて。本当に無駄だ。私には無駄が多過ぎる。
 バスは、まだ来る気配がない。

「あ。雪、止んだ……」

 ちらちらと降っていた雪が完全に止み、私は何となくバス停から外に出て、どこかから風で飛ばされてきたであろう落ちていた木の棒を手に取った。その棒で、バス停の前に積もった雪に適当に一本、二本……と横線を引いていく。

「なっちゃん! バスまだ来てない?」

 雪に線を引いている途中で聞き慣れた声が聞こえた。声がした方向に顔を向けると、C君が息を切らしながら立っていた。この雪の中、だいぶ急いで来たのだろう。思い切り肩で息をしている。

「うん。まだ、来てないよ」

 私がここにいるってことは来てないってことでしょう、と少々嫌味な言葉が頭に浮かんだけれど口にはしなかった。「まだ来てない」という私の言葉を聞いた瞬間、C君は一気にぱあっと表情を明るくさせ、そのあと安堵の表情を浮かべた。そして、「セーフ」と言い、キラキラとした目で私に笑いかけてきた。そんな曇りのない笑顔を向けてこられたら、脳内にストックしてあるどんな嫌な言葉も失くしてしまうのが人間のさがってもんじゃないのかい? ねえ?

「良かったあ~! 俺今から用事あるのにうっかり寝坊しちゃってさあ」
「大丈夫。ここんとこ“遅れ二十分”が一番早いから」
「いや、俺もバス遅れるかな、とは思ってたんだけど、万が一時間通りに来たらって思ったら焦った、焦った!」

 C君は明るい表情のまま私と会話をした。そして彼は見た目だけでなく、声まで明るい。C君はお金を貯めて海外でバックパッカーやりたいとか何とかの未来に希望溢れるそれはそれは明るく元気な若者で、ここには期間工としてやってきたらしい。彼は普段寮に住んでいて、私と同じく地元民じゃなくて、マイカーも持っていない。C君がこの場所に引っ越してきた半年前から、私は彼とこのバス停で何度か会うようになった。ここに住む数少ない二十代前半という共通点もあって、バスの待ち時間、そして本数とルートが限られているバスで乗り合わせているあいだ、私達は自然と会話をするようになった。

「間に合って良かったね。てゆうか、寝坊って何? もうすぐお昼なんだけど。昨日夜勤だった?」
「いや、夜勤じゃねえんだけど、ちょっと昨日の夜から朝の三時くらいまで部屋で宴会やっててさ~」
「朝三時まで? 相変わらず元気だねえ」
「まあな! なっちゃん、どっか行くの?」
「私? ちょっとフラッと買い物に……」

 私はそこで何となく言葉を飲み込んだ。こういうときって「フラッと」と表現してもいいのだろうか。ここでは買い物が出来る街中に出るまでに三十分はバスに揺られなきゃならないから。いや、この雪じゃもっと時間かかるか……

「へえ~、買い物か。いいね!」
「今日はいつも以上に雪が積もっているし、下手したら片道一時間はかかるかな……」
「どうだろうな。俺さ、ここからバスで街に出るときの車窓からの景色、結構好きなんだよね。帰りはわりと寝ちゃうけど。あはは!」
「分かる。私も一人でバスに乗ってるときは外ばかり見ちゃう。よく分からないけど、懐かしい気持ちになるの」
「な! 今日はそれを一時間楽しめるかもしれねえな!」

 C君は会話の内容も漏れなく明るい。私がネガティブな方向に持っていきそうだった会話をポジティブな方向に転換させた。彼はいつもこんな感じだ。たまに仕事の愚痴をこぼすことはあるけど、それでも最後には明るい方向に持っていき、いつも笑って会話を終える。
 きっとこういうスキルがある人が、人を楽しませて、人に必要とされるのだろう。そして、私のような人間から悪気なく何もかも持っていくのだ。いや、悪気はなくても当然だ。明るくて笑えて楽しませられる人は、何も悪いことをしていないんだから。
 お天道様のような笑顔を向けるC君から思わずサッと目をらしてしまう。劣等感と嫉妬で渦巻く本心を悟られないように目線を自分の足元にやり、私は再び木の棒で雪に横線を引き始めた。

「なっちゃん、その横棒って何書いてんの?」
「これ? 五線譜」
「五線譜? 楽譜?」
「うん」

 C君は興味深そうに私が雪に書いた五線譜を見つめ始めた。彼のその様子をなるべく視界に入れないように、五本の横線の上から重ねるように縦線と丸も付け足していく。

「それ、誰の曲? クラシックの人?」
「ううん。こんなの誰の曲でもないよ」
「ええ!? ということは、もしかしてなっちゃん、曲作れんの?」
「まさか」
「でも今、書いてんじゃん」
「書いてるけど……私が雪に書いた楽譜なんていつかは消えてしまう。だから、どうでもいいの。無いのと同じ。これはただの無駄な時間潰しだから」
「無いのと同じ? 何言ってんの?」
「え?」
「メロディーはここにあるんだろ? だから雪の上にも書けてるんじゃねえか」

 C君はピンと伸ばした人差し指の指先でそっと私のおでこに触れてきた。急に感じた彼の体温に私は驚き、条件反射のように勢いよく彼の手を振り払った。

「だから曲なんて作れないってば!! これは適当にそれっぽく書いただけなの!! メロディーが浮かんだってそれをすぐに正確に楽譜に書き起こすなんて出来ないし!」
「ふーん。なあ、今良い顔してたよ」
「は!? 良い顔?」
「うん。楽譜書いているときのなっちゃん、俺が知っているなかで一番良い顔をしてた」
「そ、そりゃ、どうも……。ありがと……」

 良い顔って何だ? 褒められている、で合っているのだろうか? さっき勢いよく手を振り払ってしまった手前、C君の顔をちゃんと見ることが出来ない。私はC君と目を合わせないまま、両側の口角を何とか上げてお礼を告げ、今度は気まずさを隠すために、また木の棒を動かし始めた。

「なっちゃんってさ、笑うのあんまり得意じゃないよな」
「……ごめん」
「けど、無理して笑わなくてもいい空気を作るのは得意だよな」

 楽譜を書く手が止まった。気づいたら、C君の顔を見ていた。彼は明るい笑顔で私の目の前に立っている。
 何だそれ。あなた今、笑っているじゃない。

「なっちゃんには、たのしさはないけどらくがある。あ、そういや、どっちも同じ字を書くんだな」
「同じ……」
「あーあもう!! 人生ってなかなか上手くいかないよな!」
「え?」

 C君は急に大きな声を出し、そのあと深呼吸をした。そして彼は私の前で初めて、今にも泣きそうな笑顔を見せた。
 ねえ、何なんだよ、その顔は。あなた今、無理して笑っているじゃない。

「なっちゃん、楽しいときだけじゃなく、生きるのが嫌になったときも逆に笑えてこない?」
「……」
「ねえ?」
「……」
「あれ? なっちゃん?」
「さあ」
「さあ?」
「そんなの、分からない。私は生きるのが嫌になったことなんて一度もないから。落ち込むことはしょっちゅうあるけど」
「そっか」
「うん。それに、私元々そんなに笑わないし」
「そうだよな。ごめん」
「ううん……」

 私はどんな顔をすればいいのか分からなくなって、あちこちに視線を動かした。C君が少しだけ笑った声が聞こえた。彼は背負っていたリュックから何かを取り出し、それを私の手に握らせた。またしてもいきなり伝わってきたC君の体温でさらに泳いでしまった視線を必死になって落ち着かせ、何とか自分の手のひらに集中する。
 私の手の中には、お湯に溶かすタイプの緑茶スティックが五本あった。

「なっちゃん、コレ家で飲んで。頭スッキリして体も温まるから」
「もらっていいの?」
「もちろん。本当は、今日会っても何も渡さず何も変わらないままスッと消える予定だったんだけど」
「え?」

 C君は今度は本当に泣きそうな顔を見せてきた。本当に、今にも涙がこぼれ落ちそう。彼に何か言いたいけれど胸がきゅうっと締め付けられて、全然言葉が出てこない。だからもう、勘弁してってば。こんなときにも私は役に立てないのか。勘弁してよ、もう……。
 泣きそうになっていたC君は、急に何かを決断したように表情をキリッとさせ、目に力を宿らせた。

「あのさ、なっちゃん」
「何?」
「俺、今日でなっちゃんとお別れなんだ。親父が久しぶりにまたおかしくなってて……、それでついに暴れ出してもう手が付けられなくなったって姉ちゃんから電話があってさ。だから、今からバスに乗って駅まで行って、そこから空港まで行って地元に帰る」
「えっ……!?」
「姉ちゃん謝ってばっかでさ。いつもこうなんだ。自分は悪くねえのに俺に気ぃ使って『また電話してごめんなさい』って。この前の電話で泣いてたからきっともう限界が来てるんだよ。だから早く帰らねえと。俺が行けば姉ちゃん泣き止むから」
「……」
「だから、明日からもう会えない。お別れだ」

 私は動揺でさらに言葉が出なくなった。頭が混乱する。
 C君からは、たまに仕事の愚痴を聞くことはあっても、家庭の事情の話なんて聞いたことなかった。「また」おかしくなったってどういうこと? 「ついに」ってことは、それまで何回もお父さんに関しての電話があったってこと? それと、お母さんは? お母さんはどうしてるの? 
 聞けない。
 今、どうするのが一番良いのかなんて分からないけど、さっきC君は何かを“決めて断つ”顔をしたように見えたから、そんな人に対して限られた時間で私が気になることを急いで聞くのはやめたほうがいい気がする。
 C君に言いたいことと聞きたいことはきっと今から山ほど出てくるんだろうけど、もうすぐお別れなんだとしたら、別れる瞬間まで彼が話したいように話してもらいたい……けど、けどさあ!
 そんなすぐに気持ちの整理がつくかよ!! この状況で私、どうしたら一番冷静でいられるんだろう? どうしたら――
 気づいたらC君はいつもの明るい表情に戻っていた。

「そうなんだ……。今日で地元に……」
「うん。だから仕事も急遽辞めた」
「へえ……。それは大変だったね」
「まあな~。ただ、思っていたよりもずっと辞めるのが楽だったから、その点では良かった。それで昨日、この『日常の雪景色』を見ながら一人で最後の晩餐会をやってたんだ」
「日常の……雪景色?」
「うん。で、そのあと部屋片づけてたらいつの間にか寝ててさ。いや~、目ぇ覚めたときはホント焦った。今日ここから地元の空港まで飛行機三本しか飛ばないから昼の時間帯のやつ逃したら次二本とも夜になるんだよ。おまけにここのバスも本数少ないし、この雪で駅に着くまでいつもよりも時間かかるだろうから、お目当ての飛行機に乗るには絶対今から来るバスに乗りたかった。もしバスが時間通りに来てたら乗り過ごして確実に恐ろしい額のタクシー代が飛んでたわ。良かったあ〜」
「へえ、そっかあ……。ねえ、私、ちょっと用事思い出したから今日は買い物には行かない」
「え?」
「だから一緒にバスには乗らないけど、ここで、あなたのお見送りだけ……したい」
「……」
「だめかな?」
「ううん。ありがとう。嬉しい」
「良かった。あ、あの!」
「ん?」
「平凡な言い方しか出来ないけど、体に気を付けてね」
「はあ? 何だよ。ムカつくな」
「ムカつく!?」

 私が動揺した声を出した瞬間、大きなブレーキの音がして、目の前にのびる車道の遠くのほうにバスが見えた。雪でスピードが遅くなっているとはいえ、おそらく一分も経たずにバス停に到着するだろう。
 C君は私に少し顔を近づけて目を合わせ、不満そうな顔をした。

「平凡が俺の一番欲しいものだって何で分かったんだよ? なっちゃんはいつもこうだ。ムカつく」
「ええっ? いや、それはあの、分かっていて言ったわけではなくて! だからムカつかないで――」
「俺、なっちゃんと話す時間好きだったよ」
「え……?」
「時間がない。なっちゃん、俺の本心だと思うところ、もっかい自分で繰り返して」
「ええっ!? えっと、ええっと。じゃあ今の、私と話す時間が好きだった、ってやつ?」
「やっぱり全部分かってんじゃん」
「……!」
「正解だ。なあ、俺ずっと、無理して笑わなくてもいい時間が欲しかったんだ」
「……。へえ、そっかあ……」
「本当に、とても好きな時間だった」
「……そう。それはどうもありがとう。あ、あのね、実は私も……」
「ん?」
「私も、あなたとは半年くらいのお付き合いだったけど、とても楽しかった」
「また『あなた』って言った」
「えっ?」
「なっちゃんは、この半年で一回も俺の名前を呼んでくれなかった」
「……」
「その代わりすげえ良い顔を見せてくれた。じゃあな、バイバイ! 元気でな!」

 再びブレーキの音がした。雪を考慮し時間をかけて止まったのか、バスは停留所よりもだいぶ前に停車している。C君は、私が知っているなかで一番良い笑顔で私に手を振ったあと、停まっているバスに向かって歩き出した。また、ちらちらと雪が舞い降りてきた。
 私は最後にどんな言葉をかけていいのか分からずに、C君の背中に向かって「お茶大事に飲むね!!」と大きな声で言った。C君は立ち止まった。だけど私のほうには振り向かずに、小さく震えた声で、「ありがとう。楽になった」とだけ言い、また歩き出した。
 私はC君がバスに乗るのを見届けることなくうつむいた。そして、下を向いたまま黙ってバスが走り出すのを待った。最後まで上手く笑うやり方も笑わせるやり方も分からなかったけど、もうあなたの顔は見ちゃいけない、バスの中にあなたの顔を探しちゃいけないって、それだけは分かるから。
 うつむいて、どこに向ければいいのか分からない視線をまた手のひらに集中させた。再び降り出した雪が私の手に触れ、溶けて、消えてなくなっていく。
 あ。
 今、バスが動き出した。
 ああ、これで本当に、本当に、行ってしまった。もう会えない。雪が私の体温に触れては消える。また触れては消える。その繰り返し。私は自分の手のひらに溶けていく雪を黙って見続けた。
 そりゃ寂しくはなるけど涙なんか出ないよ。だって、何を哀しむことなどあるのだろう。私が自分からバスには乗らないって言ったのだ。これは自分が選択した結果なのだ。
 期間工であるあなたの名前を一度も呼ばなかったのは、いつかは消えるって知っていたから。名前を呼んでそれに応えられたなら、出会ってすぐの頃に生まれた面倒な情がたちまち膨れ上がってしまう。そう、分かっていたから。だけど、あなたを番号で呼ぶあなたの職場のように大勢のうちの一人にすることも出来なくて、だから「あなた」なんて、ほかの誰にも使わない呼び方で呼んでいたの。夢中にもなれず無下にも出来ず、いつか離れる日が来るのが怖くて、その感情を押さえつけるように自分の頭の中でさえ、別の名前で呼んできたの。あなたからのプレゼントが、溶けてなくなってしまうもので良かった。連絡先を交換していなくて、本当に良かったよ。

 雪が“ちらちら”から“しんしん”に変わり、私はバス停の小屋の中に入り、トートバッグと傘を持って、そのままアパートに帰った。

 ワンルームのアパートに帰り、荷物を片付けてから、ローテーブルの上に置いてあった電気ケトルを持ち、キッチンに立ってお湯を作り始めた。
 C君からもらった緑茶スティック五本をそれぞれ重ならないように並べ、そのうちの一本を手に取り、粉末をマグカップに入れた。電気ケトルの注ぎ口から徐々に白い蒸気が出始めた。やがてカチッという音が鳴り、緑茶の粉末が入っているマグカップにお湯を注ぎ始めると、私の頭の中にC君の顔や、声や、今まで二人で話した内容が蘇ってきた。
 お湯を注いだマグカップから、温かい空気が上がってくる。スプーンでお湯を軽くかき混ぜる。だんだんと若葉のような色に変わっていく。
 またC君の顔が浮かぶ。色んな顔が浮かぶ。そして消える。
 
 私は見えなかった。あなたも見せなかった。吐き出してしまいたいことや本当は誰かに知ってほしくてたまらないこと……、あなたがあなたの意思によって必死で隠している深い感情は、私が想像出来る以上のものなのかもしれない。もしあなたが“それ”に苦しんでいるのなら、あなたの“それ”の上に雪が積もって、雪と一緒に溶けてしまったらいいのに。そしたら、その頃には澄み渡っているでしょう?
 祈るなんてがらじゃないけど、どうか、そこに雪が降ってほしい。誰も簡単にさわることが出来ないように。誰にも無理矢理足跡を付けられないように。
 どうか澄み渡らせて、ただ、静かに――。

「あ……」

 全部、溶けた。消えた。消えてしまった。そこにはもう、粉末の形跡などどこにもない。混ざり合ってしまった。緑茶はスプーンで混ぜたときの余韻をまだ少しだけ残していて、クルクルとした動きを見せている。私はマグカップを持って、ローテーブルの上に静かに置き、私自身もテーブルの前の座椅子に静かに座った。今まで、祈ることなんて一生ない、祈るくらいなら何か動いたほうがマシ、って思っていたけど、祈らずにはいられない瞬間ってあるんだな。
 初めて知った――。

「なっちゃんには、たのしさはないけどらくがある……」

 C君に言われた言葉をそっくりそのまま口に出したあと、そっとマグカップを持ち、緑茶にゆっくりと口をつけた。そこには甘さも優しさも華やかさも存在しない。じんわりと染み込んでいくのは『凛』の味。頭の中がだんだんスッキリしていく。

「あーあ、行っちまったよ、あの人は……ってね。ホント人生ってスムーズにはいかないよねえ。熱いし!」

 続けて飲むにはまだ熱すぎた。私は一旦マグカップをテーブルに置き、立ち上がってカーテンを開けた。窓の結露で外の景色が見えない。結露用に用意してあるタオルで窓を拭くと、ようやく外がどんな状況なのかを確認出来た。音なく、絶え間なく、そして容赦なく雪が降っている。思わず苦笑いをして空を見る。

「こんなの、どう頑張ったってどうしようもないでしょ」

 小町鼠こまちねずの空から降りてくる無数の結晶達。それらが作る凛とした景色には、諦めて弱音を吐かせる力がある。小さな花びらが舞っているように、色を変えてしまった夜が空から星を降らせているかのように、美しく幻想的に見せるけれど、それは私達に現実を思い知らせたあとも変わらず無慈悲に降り続く。どこまでも儚くて壮大で、そして、静かで甘くない孤高の凛。どう足掻あがいてもかなわない厳しい自然を前にして自分の小ささを思い知る。その諦めが私の気持ちを楽にした。
 万能なんて一生無理で当然だ、って。
 ここに引っ越して来てからも相変わらず上手く笑えていないけど、それならそれで、その代わりに寒く冷たい世界に住むならどうやって楽を感じられるかを考えてみよう。
 まずコタツを買えばいい。そしてそこでみかんを食べればいい。それでたまには日常の雪景色を見ながら、部屋でぬくぬく出来る有り難みを噛み締め、お酒を飲んでダラダラすればいい。
 私はそれでいい。どこに行っても「かなわない」と思う人はいるだろうけど、どうやったら気持ちが楽になるのか、どこに行っても考えよう。

 私はまた座椅子に座り、ローテーブルの上に置いてある卓上カレンダーを一枚めくった。
 赤い丸で囲んだ日付、その下に『引っ越し』と赤文字で書いてある。正直のんびりとしたこの場所にはもう少し長く住んでいたかったけど、それは人事異動を断る理由としては弱すぎる。だから、もうここを離れなければならない。
 初めてこの地に降り立った日のことを思い出した私は、前向きから後ろ向きに変わりそうな気持ちを落ち着かせようと、さっきよりも少し温度が冷めていることを期待して再びマグカップに手を伸ばした。
 私も同じ。
 この場所を離れるのはC君だけじゃない。私もあのバス停にはもうすぐ行かなくなる。それがC君のほうが早かったって話で、そこに哀しみなどあるものか。遅かれ早かれ私達はこうなっていたのだ。それに、最後に彼は「ありがとう」と言ったのだ。そのあとに「楽になった」と言ったのだ。そこに哀しみなどあるものか。哀しみなど――

「ある……かっ……! ううっ……!!」

 マグカップを持つ手が震えてきた。震えちゃダメだ。この手が震えたら奏でられないだろう? 勢いよくティッシュペーパーを取った。手の震えと目と鼻が落ち着くまで、何枚も取った。途中で取り方が下手になったから、テーブルの上には何枚もの白が散らばった。
 五分ほど時間が経って手が震えなくなったあと、ゆっくりと呼吸をして温かい緑茶を一口飲んだ。体の隅々まで染みわたる凛の味と、視界に入るテーブルの上の白、白、白。
 ねえ、あなたにはきっと白が似合う。だって、混ざらなかったら凛として、混ざり合ったらどんな色でも柔らかくするじゃない。
 だから、だからね……

知尋ちひろ、ありがとう」

 なるべく音が出ないように、ゆっくりとマグカップをテーブルに置き、散らばったティッシュペーパーを丁寧に箱に戻した。再びカレンダーの丸印の日に目線を移す。
 次の異動先は毎年夏に暑さでニュースになる地方都市らしい。きっとそこにも、こことは違う生きる結晶があるのだろう。笑うのはやっぱり得意じゃないけど、この先どう頑張っても求められる表情が出来なかったらそのときは生きる場所を変えて、合う場所で生きていこう。どうしても、誰かが持っていて自分が持っていないものだけを追いかけちゃいそうになるけど、万能なんて一生無理だから。
 タン、タン……。タン、タン……。
 机の上には適当に好きに浮かび上がらせた透明な鍵盤。体の深いところから肩、肩からひじ、肘から手首にかけて想いが流れ、指の先からタンタンタンと音が鳴る。柔らかい風で真っ白な雪が舞うようにふわりと腕を動かして、ふと目線を横にやる。結露を拭いた窓から見える凛の世界。視点を前に移したら、そこに映るのは一切加工のない自分。今までの自分がなかったら、今この頭のなかにあるものは存在していなかった。ネガティブにも後ろ向きにも、意味はあるのかもしれない。
 奏でている途中で手を止め、右手で頭を指差して、「ふふっ」と笑う。これまでの人生のなかで一番柔らかい笑顔だ。この笑顔は頭がほぐれた証拠なの。

「メロディーは全部、ここにあるんだよ」


*****


(以下、あとがき)



創作鍋について考えていたら急に季節に合わせた物語を作りたくなって作りました。ちなみに作り手は寒いときは甘い飲み物がやたらと飲みたくなるのですが、熱い日本茶をゆっくり飲むのも良いよなあと思いました。四年前に行った白川郷にまた行きたい。
一万字超えているんですけど最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

とても嬉しいです。ありがとうございます!!