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競争が協奏に変わるとき

半年の間に 、同じ曲を同じホールで 三度も聞くことができた。 曲はモーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 k364」である。

この曲は、バイオリンとビオラが競い合って 演奏するように書かれており、 演奏者の腕前の優劣がまともに出てしまう、演奏者にとっては大変厄介な作品である。 また、このことから、これを協奏交響曲とは言わずに競争交響曲という人もいるくらいである。 モーツァルトが、どうしてこのような企てをしたかは定かでない。

二度目に聴いたニューヨークを本拠地に活躍するオルフェウス室内管弦楽団の演奏は、図らずも後ろの席の女性が呟いた「私の好きな曲だったのに」というため息混じりの一言に尽きる内容であった。ソロの バイオリンに対してビオラが力不足で全然勝負にならなかったのである。

三度目に聞いた東京交響楽団の演奏はというと、どれもうまかった。バイオリンの戸田弥生さん、ビオラのブルーノ・パスキエさん、そして東響のバック、お互いが拮抗し、どれも申し分のない演奏であった。 しかし感動は得られなかった 。オルフェウスには無かった競争の世界が繰り広げられたというのに、これは一体どうしたことだろうか。 最初に聴いたあの感動的なドレスデンとは何かが違っていた。

1998年の11月末に聴いた最初のドレスデン歌劇場室内管弦楽団の演奏では、オルフェウスと同様バイオリンとビオラのソロを楽団員から起用していた。 バイオリン・ソロは同楽団の副コンサートマスターのイェルク・ ファスマン さん 、ビオラ・ソロは同楽団のソロヴィオラ奏者の セブスティアン・ヘルベルクさん である。

彼らは普段から音楽作りを共にする仲間である。そこでの演奏はファスマンさんの素晴らしい演奏にヘルベルクさんがそれ以上の演奏で応えれば、ファスマンさんは、またそれ以上の演奏で応えようとする。まさにお互いがお互いの良さを引き出し合って高まっていくような演奏であった。

その様子はあたかも競争の様相を呈するが、勝敗を感じさせない。 あるゴールに向かって同時に到達する事で感動を共有しようとしているかのようであった。もし、二人が競争の域で止まっていたなら、感動を伴わない、ただ技術的に優れた演奏で終わっていたことだろう。

このことから 、音楽の喜びは 過酷な競争を経た 後に来る勝負なしの世界にこそ存在する、と言えるのではないだろうか 。そこには勝者もいなければ、敗者もいない。お互いがただただ高まっていくばかりである 。そうした二人のまさに息の合った演奏は、競争から協奏へと変わり、聴衆を完全に魅了した 。CD の完売は、当然の帰結だったのである。

協奏とは、最初から合わせて得るものではなく、過酷な競争を経て初めて得られるものである 。過酷な競争の後に、本当の思いやりがあり、優しさがある 。そして力を合わせることの真の姿もそこにある。そのように、モーツァルトは競争を通して協奏の意味を伝えようとしたのではないだろうか。

東響の演奏は確かに過酷な競争を繰り広げはしたが、その先に進むことができなかった 。あのような協奏は付け焼き刃でできるものではない。普段から、切磋琢磨しながら音楽作りを共にする仲間とじっくり時間をかけてこそできる芸当だろう。今度は是非、東響のメンバーだけによる競争から協奏へと変わる感動的な演奏を聴かせて欲しいものである。(1999)

(See you)