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ちっちゃなごきぶりのべっぴんさんアハ体験


注‼️この記事には映画「太陽がいっぱい」と、昔話「ちっちゃなごきぶりのべっぴんさん」の内容が含まれます。

 8月31日(野菜の日)はもちろん私の母の誕生日で、ケーキを買ってお祝いした。一本だけ立てた蝋燭を吹き消した時、父がぼそりと「蝋燭をみると落語の死神を思い出す」と呟き、すかさず母が「西洋かどっかの昔話かなんかにもあるよね、あれ」と返す。誕生日の感慨とかなくそれ?いま?とか思ったけどまあええです。参加します。
「もともとグリム童話から落語になってたはず」そこから話は、昔話について話が弾み、世界各国に似たような昔話があること、逆に国の特色が強く出ている昔話もあることなどを話しているうちにいつのまにか、小さい頃両親が読み聞かせてくれたアジアの昔話集の話になった。

 この本に収録されている昔話はどれもとても面白い。中でもイランの昔話「ちっちゃなゴキブリのべっぴんさん」は家族全員が大好きだった。なんといっても主人公がゴキブリで、それだけでもかなりの訴求力がある(ゴキブリに親を殺されたタイプの人々にとってはタイトルからしておぞましく、とても読む気になれないであろうことは想像に難くない。よってこの訴求力は極めて限定的な効果を発揮するのではあるが)が、そのゴキブリはなんと年頃の娘(のゴキブリ)と言う設定なのだ。さらにこの娘(のゴキブリ)はべっぴんさん(今日び漫才のツカミですらなかなかお耳にかからない死語)なのである!
 物語は、ゴキブリの娘が父親に嫁入りを勧められるところから始まる。遠い街のお金持ちの旦那が、若い綺麗な娘を大事にしてくれるという噂があり、年老いたゴキブリの父親は生い先短い自分の世話に明け暮れる年頃の娘を不憫に思い、件の旦那様のところへ旅立つように娘に言って聞かせる。
 娘はさっそく念入りに化粧をしてめかしこみ(ゴキブリのおめかしなので当然煌びやかな衣服の素材はりんごの皮や玉ねぎの皮といったいわゆる生ゴミなのだが、透き通った茶色の玉ねぎの皮をショールにしたらひょっとしたらそれはそれはオシャレなのではないかと思わせるような巧みな描写に子供心にときめいた覚えがある)、しゃなりしゃなりと歩いていく。
 道中、八百屋、肉屋、干し草商人といったガサツで荒々しい男たちに口説かれるが、「夫婦喧嘩になったらあんたあたしを何でぶつ?」と尋ねると男たちは口々に「はかりの分銅」「肉切り包丁で」「(おそらく干し草を叩くための)木の棒で」など各々の仕事への矜持を感じさせる答えでべっぴんさんを慄かせる。そもそも夫婦喧嘩で嫁を殴る前提なのがさすが昔話といった倫理観。
 そこへ華麗に現れたのが、オシャレなネズミの旦那である。ネズミは生ゴミで着飾るゴキブリと違いなぜかウールやカシミヤを身につけており、まるで某アニメーターの生み出したキャラクターのようなのだが、さらにはキザったらしい口調でゴキブリを口説いた挙句、ゴキブリのお決まりの質問に「ぼくの細いやわらかなしっぽで。いやいやそれはうそ、ほんとはしっぽの先できみの目のお化粧をしてあげる」と答える。
 この答えに満足したゴキブリは、ネズミの求婚を受けて式を挙げ晴れて夫婦になる。しかし幸せは長く続かなかった。
 ある日ゴキブリは川で洗濯をしている最中に足を滑らせて落下。ネズミに救出されるが冷たい水に長時間浸かったために発熱し、寝込んでしまう。妻のためにカブのスープをつくっていたネズミは、誤って熱々のスープに沈んでしまう。いくら待ってもスープを運んでこない旦那を心配したゴキブリは床を出て、台所へと急ぐ。そこには熱々のスープの中でぷかぷかと浮いたり沈んだりする夫の姿が。ゴキブリはそれをみて大きな悲鳴をあげる。
 この昔話のクライマックスに当たる悲痛なシーンで、読み聞かせをしてくれていた私の母親は必ず本から顔を上げて、悲痛なテーマを歌った。

 数年後、リバイバル上映で観た「太陽がいっぱい」のラストのシーンで、海から引き上げられた死体を見た女の悲鳴が響き渡る。バックに流れていたのは母の口ずさんでいたあのメロディーで、私は約10年越しの答え合わせを果たした。母はスープに浮かんだネズミの死体から太陽がいっぱいを連想したのだ。
 この個人的な思い出を誕生日の席で語ると、母は大笑いしながら「あんたの人生にそんな形で介入してごめんね!」と言った。

 以上が夏の終わりにあった内輪ノリの究極形「我が家ノリ」でした。

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