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自転車の修理終わって遡る 矛先向けた相手について

先日、こんなツイートをした。

私の自転車はもうオンボロなんだけど「ココ修理しても次にココ壊れるから、もう買い替えた方がいい」と自信を持って断るA店と、深く考えずにこちらのリクエスト通りに修理するB店。

どちらが良い自転車屋さんなのか答えが出ない。

B店になおしてもらって、とりあえず元気に走る。

自転車屋さんであれば、それは好みの問題で、Aが良い人はAに行くし、Bが良い人はBへ行く。

そして、これは何かに似てるな、と思った。あれだ、あの一件だ。似ているけれど、でもずっと深刻で、しんどい経験だった。

四年ほど前のことになる。2番目の子、ニンタは知的障害と持病があり、食事制限もあるので、保育園探しは大変だった。

やっと決まった保育園では、給食を出してもらえなくて揉めた。主治医からは「イモ類以外のおかずは食べて良い」と指示が出ていたけれど、保育園は「絶対に給食は出さない」の一点張り。この保育園を、保育園Xとする。

保育園Xとは、何度も話合いをしたけれど、のらりくらりとした理屈を繰り返されるばかり。そして、話合いの最中に、何度も大声で怒鳴られることがあって、こちらが精神的に参ってしまった。最終的には、間に入ってくれた役所の勧めで、給食を出してくれる保育園に転園という事になった。

もう済んだことなのに、私はこの問題を忘れることが出来ない。どうすべきだったのか、どうしてあんな目にあわなければいけなかったのか、もう今からでも保育園Xに復讐したいような気持ちになってしまう。しないけど。

いや、でも。保育園Xだけの問題じゃない。もう一つ、こちらを保育園Yとする。保育園Yからは、電話で見学申込みをした段階で、「個別対応が必要なお子さんは入園出来ませんので、見学も来ないでください」と言われてしまったので、顔も合わせていない。

保育園XもYも、障害者差別解消法ではアウトなんだけれど、どっちがよりアウトか、と考えると。

今にして思えば、見学を断った保育園Yだと思う。

保育園Xとのやりとりは、思い出すと今でも喉がぐっと詰まるような重いものだった。でも、時が経ち、冷静になって考えてみると、私達と何の関わりもない保育園Yの方がより罪深いのではないかと思えてきた。

保育園Yは、あまりにもあからさまな断り方だったので、仮に入園したとしても、苦労するのが目に見えていて、こちらからお断りだと思ってすぐに候補からはずした。

でも、それこそが、保育園Yの狙いだったのかもしれない。わざと最初からひどい対応をして、障害者が近寄りたくないような雰囲気を作る。障害者に関わらなければ何も問題は起こらない。私はその思惑通りに動かされた一人だった。

障害者差別解消法違反ではないか、と思ったときの相談窓口というものがある。私は保育園Xと揉めたとき、そちらに相談をしたが、形ばかりの注意があっただけで、何も変わらなかった。

だから、保育園Yに見学を断られたことを相談しても、特に変わらなかったと思う。

あんまり機能していない制度である。残念ながら。

私の希望としては、障害者差別解消法違反があった場合は、その内容と施設名を即座に公表してほしい。

そうでなければ、この法律の抑止力はない。

そして、「障害者に関わると損をする」と思われないように、入園後に違反した保育園Xよりも、門前払いした保育園Yにこそ、強い指導やペナルティを科すべきだと思う。

保育園Xが入園を許可したがゆえに責められて、保育園Yが“逃げ得”のようなことになると、障害者が敬遠される世の中になりかねない。

なんだか、書いていて嫌な言葉が多いな、と思う。

揉めるとか、関わると損をするとか、逃げ得とか。

障害者ってそんな存在なんだろうか。

実際の所、最終的に私達を受け入れて、給食を提供してくれた保育園とは、揉めることは一度もなかった。

保育園の労力としては、給食の献立で私が「食べられない」と指定したメニューを除いてから提供すること。足りないカロリーの分は、おかずを一品か二品持参した。

もちろん、手間だろうと思う。他にもアレルギーや嚥下障害のパターンもあるだろうし、いろんな子に対応しているとキリがないから、全部お断りにしてしまえ、と思う気持ちはわからなくはない。

でも逆に、出来ることは全部やる、と決めたら、衝突する労力は激減する。

障害者から敬遠されるように仕向けたり。
個別対応をどうやって断るか画策したり。
詭弁を使って話合いをごまかしたり。
保護者に非難されたり泣かれたり。
障害者差別解消法違反で注意されたり。

そういう争いがなくなる。

その代わりに、感謝の言葉が残る。

障害者とはなるべく関わりたくない、なるべく上手く逃げようと思っている人が、残念ながら居る。君子危うきに近寄らず?危うき?本当に?

逃げたり拒絶するのもエネルギーがいるし、障害者は消えてなくならない。そして私のように、権利を諦めない者もたくさんいる。今は建前だけかもしれないけれど、時代は変わろうとしている。

受け入れて、もし問題が起こったらまたその時は一緒に考えればいい。それは障害者から逃げ続けるより、よっぽど健全で精神的な負担の少ない作業だと思うのだけれど。

きれいごと。でも、私はそう思う。

冒頭にお話した私の自転車は、まだ元気に走っている。予想通り、近いうちに他のパーツが壊れるかもしれないけれど、私は修理してくれた自転車屋さんBに感謝している。

修理を断った自転車屋さんAは、経験上、こんなオンボロ自転車には関わらない方が無難だと思ったのかもしれない。或いは、修理してもまたすぐに壊れて、私が損するであろうと、本気で親身になって断ってくれたのかもしれない。真相はわからないけれども。

断った自転車屋さんAは、経験値が高いとかプロ意識があるとか、そういう評価もできる。安易に修理を引き受けた自転車屋さんBは、考えが浅いのかもしれない。

でも、私は修理してくれた自転車屋さんBの方が好きだ。次に何かあったら、修理してくれた方の自転車屋さんBに行く。関わってくれた人の方へ行く。

関わってくれた人が、良いものを得る、そういう世の中であってほしいと思っている。







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