見出し画像

幸せ競争

私は自分が住んでいる地域が好きだ。静かだし、こどもの遊ぶ公園もたくさんある。近所付き合いも多少あって、いい人がたくさん居る。

そんなにいい場所だと思うのに、最近不穏な想像をしてしまった。もし、ここが実は紛争地帯だったら。近所だけではなく、友人もそうだし、親戚もそうだ。プライバシーという名の堅牢な扉があって、見えないけれど、でも中身は。

なぜ、そんな暗い考えがよぎってしまったのか。きっかけは、一番上の子、5年生のいっちゃんの勉強をみていた時だった。いっちゃんは勉強が不得意ではないが、出来ればやりたくない、というフツーの子で、今のところ塾には行っていない。

中学になったら、さすがに塾に行かせるか、と塾の見学に行った。小学校の間は私が見てやるかな、とドリルも買ってみた。しかし、本人にやる気がないのだ。まだ将来の目標もない子に勉強をさせるなどということは、なかなか無理難題を押し付けているんだな、と思う。

勉強だけではない。何か趣味や特技があれば人生の助けになるだろう、と習い事を探すこと。健康のためにと、バランスの良い食事を作ること。早寝早起き、ゲームやネットはやり過ぎないよう注意すること。縄跳びや逆上がりができるように練習に付き合うこと。子育てしている多くの人が、あれやこれやと子の為に心を砕いている。

それは、なんのために?自分のこどもが幸せになるために。どうかこの厳しい社会で、うちの子だけは生き残ってほしい。幸せと感じる人生であってほしい、と願うから。

…それってなんだか怖いかもしれない。この平和な住宅街に並ぶ、どの家でも、自分の家族だけが幸せになるための努力が続けられていて、プライバシーの名のもとに、何も見えないけれど、みんな手持ちの武器をせっせと磨いているのだろうか。

努力とか、好きなことを見つけるとか、健康維持とか、ものすごく前向きな行動のはずなのに、それが結果的に誰かを蹴落とすことになるのだとしたら、これは生存をかけた戦争だ。

もしも、本当にそうなのだとしたら、世の中の方が間違っている。こどもの幸せを願うことが、他の誰かの不幸につながるのなら、私はそんな戦いからは降りたい。

こどもって、今目の前の事しか見えていない。大人は少しだけ先に起こることがわかるから、先回りしてあれこれ心配する。私は、こどもを導くようなことが不得意なのに、人並みにやろうとしていて、でも出来なくて、疲れてしまって、住宅街が紛争地帯に見えてしまった。

極端過ぎる。落ち着け、落ち着け、私。

もともと、私はこどもを自分の思い通りにどうこうしよう、という考えはなかったし、たくさんある育児本や教育本も敬遠していた。こどもは、自分でやりたいことを見つけ、勝手に成長していくのだと思っていた。

しかし。それは親自体が刺激的な存在であったり、活動的な人物である場合だけなのかもしれない。土日にゴロゴロしているだけの両親では、何の手本にもならない。それなら、誰か良い師を見つけてやらなくては…。勝手にあせる親、やる気のないこども。え、他の家はどうしてるの?みんなこんなことしてるの?目的は何?それって怖くない?

テスト勉強が嫌過ぎて「なんで勉強するんだろう」「どうして私は勉強が嫌なんだろう」と一日中考えて過ごしてしまう学生のようだ。

子育てが下手過ぎて、世の中のせいにしようとしている。

自分のこどもの事を信じなさい、という言葉が好きだった。でも、こどもは勝手に塾や習い事を探してこないし、なんなら一日中You Tubeを見て過ごす。そのこどもを信じて放っておくって、なかなかできることじゃないんだなあ、と思う。

私はこどもに何をしてやれるんだろう。人を蹴落とせと教えるのではなく、自分が幸せと思える道をみつける助けになりたい。

そうすると、結局矛先は自分へ向かうわけだ。私が幸せに生きている姿を、見せてやること以外にないのだよ、と。






サポートいただけると励みになります。いただいたサポートは、私が抱えている問題を突破するために使います!