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障害者の訓練のゴールは健常者ではない

持病と障害のあるニンタは、1歳半を過ぎたくらいから、療育を受けてきた。最初は歩くこと。次に食事の練習。それからルールを守って行動すること。集団での遊びや行動に慣れること。自分の言葉で要求を伝えること。感情のコントロール。手先の不器用さを克服すること。体幹の弱さを補うこと。いくら書き出してもキリがないが、そういうことを遊びを通して学んでいくのが療育だ。

実際はどうか知らないが、その療育を細分化したのが「リハビリ」という感じがする。PTは、体幹を使う大きな動き。OTは、手先の小さな動きや、いくつもの動作を同時に行う複雑な運動。STは、言語。ニンタも受けられるチャンスがあれば、出来る限りリハビリも受けさせてもらっている。

出来ることが増えるのは、親として嬉しい。療育やリハビリの成果かな、と思うこともある。けれど、私はときどき疑問に思って、先生に質問することがあった。

「ニンタの発達は、ゆっくりではありますが、少しずつ伸びています。放っておいても、ニンタはニンタのペースで学んでいくと思うのですが、それを療育やリハビリでサポートしていくのは何故ですか?」

私は、こう思うことがあったのだ。ニンタは、ニンタのままでいてはいけないのか?ニンタが訓練を受けるのは、世の中の平均に近付くためなのか?障害者は健常者を目指して努力しなければいけないのか?

先生たちの答えはいろいろだった。そのいろいろと、自分の意見を組み合わせて、今はこう思っている。

障害者は健常者に近付くために努力をするのではない。自分の楽しみを増やすために努力するのだ。

逆に言うと、今のままで楽しければ、訓練などしなくていいと思う。

ニンタはまだ小さいので、訓練に行きたいとか行きたくない、と言ったことがない。行くよ、と言われれば出発だな、と思ってついてくる。行けば、そこそこ楽しんでいる様子もある。だから、とりあえず続けているのだか、もし、行きたくない!と言うようになったら、そこは話し合わないといけないだろうな、と思う。

訓練で、出来ることが増えると、親は何の理由もなく嬉しい。もしくは、出来ることが増えると、親が手伝うことが減って、日常生活が楽になる。

そうなると、親は盲目的にもっともっと、と訓練に走ってしまう気がする。だから、自分でも気をつけなければいけないな、と思う。

私は、自分の子を少しでも健常者に近付けようとしていないか、と。

一番大切なのは、ニンタが自分の人生を楽しいと思うことだ。出来ることが増えて、本人が楽しいならばいいが、無理強いすることは、本来あってはならない。

しかし、問題は少し複雑だ。こどもの習い事の問題にも似ているかもしれない。プロの音楽家になった人から聞く「こどもの頃は練習が嫌で嫌で…でも今となっては親に感謝しています」みたいな話。これが出てくると、何が正解かわからなくなってくる。

そして、習い事と同様に、療育やリハビリに関しては、親によって考え方や熱量が違う。こどもにとって何が良いのか、1つの答えはないようだ。

そこで、やっぱり私は最初の基準に戻ることにしている。ニンタの楽しみが増えるのであれば、頑張ろう。そして、頑張っても出来ないことや、頑張りたくないことがあれば、諦めたっていい。

ニンタは自転車にまだ乗れない。この先も乗れなかったら、私たちは歩くか、車で移動する。ニンタはひらがながまだ書けない。この先も書けなかったら、文字を書くときは代筆を頼む。ニンタに料理をさせたことはまだない。この先挑戦して、成人しても出来なかったら、ヘルパーさんに助けてもらう。

甘やかしていると思われるだろうか。そうかもしれない。でも、私がこう思うのは、ニンタがそうそう簡単に、自分の可能性を手放すとは思えないからだ。

ニンタは今、震える手で懸命にひらがなを書こうとする。「お勉強する?」と聞くと喜ぶ。喜ぶが、実際にやるとうまく行かなくて、泣いたりグチャグチャにしたりする。それでも次の日「お勉強する?」と聞くと喜ぶ。

この先、勉強なんてつまらないと思う日は来るだろう。けれど、自分に可能性が残されているのに、安易に投げ出せるほど、人は自分を粗末にできないのではないか、と思う。

勉強でなくても、趣味でもなんでもいい。何か好きなことを見つけて欲しいと思う。

そういう試行錯誤の中で、どうしても苦手が残ったら、助けてもらおう。

今の私の考えは、そんなゆるいところに落ち着いている。だから、ニンタを導いていくというより、ニンタに伴走しているだけ、ニンタが私を導いているのではないだろうか。

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