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小さな創作(Red)#2

”「一番大好き」よりも、「一番気持ちよかった」”
こんなにも、その言葉が欲しかったなんて。

43歳、管理職。中学1年生になる息子と献身的な妻。
穏やかで平穏な日常であったが、それは、
花の枯れた豪邸のように、何かが足りない生活だった。


妻の出産後から、世の中の多くの夫婦がそうであるように、体を重ね合うことは殆どなくなった。
性欲と愛情は別だという話もあるが、性欲のない愛情は、約束で手を繋いでいるようなものだ。

何年も働いていれば、自分が会社員としてどこまで行けるかくらいわかる。このまま、経理部の課長として、うまくいけば部長くらいで会社員生活を往生できるかもしれない。

今の会社に入る前は、外資系の投資銀行で高給をもらい、働きづめの日々を送っていた。
深夜から派手に同僚と飲み歩き、女性とも相応に遊んでいた。
結局体調を崩して退職したが、あの頃は、人生が全て、自分のものだと思えた。

退職してからというもの、前職である程度の資産を築けたこともあり、仕事に対する野心も失い、男として枯れていくような、そんな消失感があった。

そんな日々に一凛の花を添えたのが、彼女だった。
経理部の数少ない若手女性であり、自分の部下でもある、橋本瑠璃ー。
彼女は独身であったが、所謂不倫だ。
早々に終わらせるべきであるとは、わかっている。もう少しだけその花の蜜を吸いたいー、そのもう少しの繰り返しだった。

彼女と初めて二人で飲みに行ったときに、何となく恋愛の話を振った。
センシティブな時期だったのか、彼女が目に溜めた涙に見とれたその時からだろう、「部下」から「女性」という代名詞に変わってしまったのは。
不思議なことに、その涙を拭いてあげたいとも、自分もこんな風に彼女を泣かせたい、とも思った。


ー”瑠璃ちゃん、今日出社しようかなと思ってるよ。”


彼女にLINEを送った。
こんなことを言うのは不謹慎極まりないとわかってはいるが、コロナ禍で不倫をしているカップルはなかなか苦労しているだろう。

出社する、というのは、二人の中では「今日会いませんか?」という意味だった。

ー”私も、書類整理があるので出社しようかなと思ってました。”

彼女は、僕に合わせて出社する、とは決して言わない。そして、敬語も解いてくれない。
ちょっとした彼女の意地なんだろう。


会社に着くと、人が殆どいない経理部のフロアに、ぽつんと彼女が座っていた。

物憂げに摘まれるのを待っている、青い花のようだと思った。


「おはよう」

「おはようございます、課長」


会社での彼女の表情は、ものすごく硬く、冷たい。


ー19:00ー


そろそろ仕事が終わるというタイミングで、自分からLINEを送る。


ー”19:30に品川駅のいつもの焼き鳥さんでどう?”


いつも決まって、会社からちょっと離れていてかつ、彼女も家に帰りやすい場所で会っている。


ー”いいですよ。”


彼女のLINEはいつも素っ気ない。
携帯を見ていると、彼女が席を立ち、無言で帰っていくのが見えた。
適当な時間を空けて、品川に向かった。


焼き鳥屋に着くと、会社では素っ気ない彼女が、控えめな笑顔で手を振ってくれているのが見えた。


「本当は会社から一緒に来れたらいいですね」


乾杯した後に、こう言った彼女に少し返す言葉を失った。

「冗談ですよ」

そう言って彼女は笑っていた。


彼女と関係を持ち始めたころ、自分は今の奥さんと離婚するつもりもないし、瑠璃さんにもちゃんとした彼氏を見つけて結婚して欲しいと思ってる、という話をしたことがある。
ひどい男だと言われるかもしれないが、それがなけなしの誠実さだとも思っていたし、その頃は本当に、彼女が弱っている期間だけ、支えてあげたいくらいの気持ちだったのだ。


彼女は少し複雑な表情をしながらも、
「もちろんです。私時々、こうやって男性と遊んじゃうことあるんです。」
そう言っていた。


彼女も分かっているのだと思っていた。
僕らの関係は、長い人生の中の刹那の寄り道であって、脇道に咲く花のようなものであると。


「次、いこっか。」

それは従来、ホテルへ行こうか、という意味であった。


「皐月さん、今日は私の家に来ませんか?」


「え、いいけど…いいの?」


「はい。たまにはどうかなって。お金もかかるのも申し訳ないなって。」


彼女の意外な提案で、初めて彼女の家にいくことになった。
タクシーで彼女の家に向かう間、暗い車内のなかで彼女が手をこっそりと絡めてきた。
驚いて彼女の顔を振り返ったけれど、何でもない風に外をぼんやりと眺めていた。


「シャワー浴びますか?」


「そだね、一緒に入る?」


「はい。」


そう言って彼女が静かに抱き着いてきた。
静かに彼女のブラウスの裾から手を滑り込ませ、下着を外す。
すると、彼女が僕のYシャツのボタンを一つずつ外していく。
自分の下半身が熱くなっていくのがわかる。

彼女に服を脱がされるのが結構好きだった。
求めているのは自分だけではない、そんな気持ちになれた。


「汗かいちゃったからここでは嫌です…」


躊躇う彼女をよそに、脱衣所で僕らは体を重ねた。
行為の最中、彼女が泣いているような気がした。
あれは、何の涙だったんだろうー。



「次からは私の家で会いませんか。」


「え、あぁ、そうしようか。」


そう答えながら、踏み込んではいけない一線を、少しずつ浸食していってしまっているような気がした。
しかし、満足げに笑う彼女を見て、もう引き返せなかった。
彼女の家で人目も気にせず肌を寄せられるのは、僕にとっても心地よい時間だった。


ーまだ戻れるか?


非常識の対岸にいるもう一人の僕から、そう問われる。
戻れなくなる前に、彼女とはサヨナラしなければならない。


ーまだ、大丈夫だ。


常識の対岸にいる僕は、そう答えた。

∑(゚ロ゚ノ)ノ