見出し画像

雑談・FIREおじさんが経験したインターネット黎明の記

私は一昨年55歳でFIRE(早期退職)に成功した55Fireです。
早期退職、定年退職後の生きがいや人生設計について情報発信しています。
今回は今までの記事と違い、私が若かった頃に経験したことをずらずら書いていこうと思います。


父の回顧録

先日、実家で片付け物をしていたら、本棚から10数年前に亡くなった父が専門雑誌に投稿した原稿が出てきた。定年退職後に請われて書いたものだ。
父は鉱物探査の専門家で1960年代から海外で活躍していた。鉱物資源の探査なので、海外といってもロンドンとかニューヨークといった大都会ではなく、アフリカとか南米、中国の奥地など開発途上国の政情不安定なエリアが仕事場だった。60年代の日本は高度成長が始まりかけた頃で今ほど豊かではなく、多くの人々にとって海外は遠い存在だった。
父の紀行文に書かれている地域は、ペルーのチチカカ湖、中国の楼蘭など今では誰もがパックツアーで行けるところだ。父の文章の中にはグローバル化以前の地域独自の暮らしが活き活きと描かれ、父が仕事という枠を超えて引き込まれていく様子がよく表現されていたので、片付け作業をしばし忘れてしまった。
紀行文が書かれたのは、父の定年退職後のことだ。当時の定年は55歳で、定年のバタバタがひと段落して、落ち着いた頃だと想像すると、父はちょうど今の私くらいの頃に書いたのだと考えることができる。
そこで、私も回顧的な文章を書いてみようと思った。
外見は若いと言われ、やっていることもヤンチャではあるけれど、そんな文章を書いてもおかしくない年頃なのだ。
テーマは「インターネット」にしようと思う。
私の人生はインターネットと共にあると考えてもいいし、多くの人はその黎明期を知らないか忘れているはずだ。
だから駄文を読んでもらえる価値があるとふんだのである。
時期はインターネットが私の生活の中に入ってきた80年台の終わりから2000年くらいまでにしよう。

80年代 大学生

私はバブル絶頂の80年代後半に学生生活を送った。
不動産がサラリーマンの年収の10倍を突破し、夜の銀座では1時間待ってもタクシーが捕まらなかったという話は全く知らなかった。世の中がバブルだったのは後になって知った。覚えているのは就職が売り手市場でひくてあまただったことだけだ。
大学生の頃からパソコンに興味を持ちはじめた。
理由は他愛ないもので、研究室にあるパソコンに先輩たちがタイピングしている姿が知的でかっこよく見えたので自分もやってみたいと思ったのだ。
私は女子学生にモテそうに見えることならなんでもやってみたくなるどこにでもいる大学生だった。
まずやったことはワープロやコンピュータ言語の学習ではなく、ブラインドタッチの練習本を買い求めることだった。
入力が早いと短時間にトライアンドエラーできるので、技術の習得が早くなる。だんだんパソコンを使うとできることが広がることがわかってきて、パソコン関係を仕事にできないかと考えるようになった。

パソコン通信の時代

その頃、インターネットは普及していなかった。その代わりにオンライン環境を提供していたのが、パソコン通信と言われるものだった。
これはNEC系のPC-VAN、富士通系のニフティサーブ、IBM系のPeopleなどがクローズドなネットワークを提供し、会員に有料で電子メールや電子掲示板を提供していた。
会員はネットワークにアナログ電話回線経由で通信ソフトをインストールしたパソコンで接続する。電話回線とパソコンの間は、モデムと呼ばれる信号変換する機器を入れた。それ以前は音響カプラという電話の受話器を被せる形の機器を大きな機材が必要だったが、私が始めた頃は音響カプラは姿を消し(大学の研究室にはあったと思う)、タバコの箱大のモデムに変わっていた。
今と隔世の間があるのが通信速度だ。
当時は1,200bpsか2,400bpsが精いっぱいだった。2,400bpsだと半角英数字が毎秒300文字しか送れない。今のように一般家庭でギガ単位の回線をひき、音声や動画を普通に受信できるなんて当時の私には想像すらできなかった。
そんな環境でもオンラインでチャットしたり、電子メールを送ってパソコンの設定を聞いてみたり、掲示板で当時ハマっていたブラックバス釣りの仲間を集めるのは新鮮な経験だった。
当時、オンラインでコミュニケーションできるツールは電話しかなかったのだ。

90年代 新入社員

初めてのインターネット

大学を卒業して入った会社は当時としてはIT化がかなり進んでいて、一人一台端末があった。もちろんパソコンではなく、ダム端末とかバカ端末といわれる大型コンピュータに接続されるシンプルなものだ。
端末はディスプレイとキーボードがセットになっており、ディスプレイは大型コンピューターからのメッセージとキーボード入力されたキャラクタが表示されるだけだ。パソコンのようにCPUがあって演算処理できるわけではない。自分で何一つ処理することができないので「バカ」なのである。
それでも、端末を使って社内でパソコン通信のように電子メールを送ったり、わからないことを電子掲示板で聞くことができる環境ができていてそれなりに便利だった。電話のように相手の時間を占有することなく好きなタイミングでコミュニケーションがとれる。
しかしそれができるのは社員間のみのはずだった。
新入社員研修の時、メールアドレスを@でIDとドメイン名を区切るインターネット形式にすると、社内だけでなく、社外へ、それも世界中に送信できることを友人から知り、大変な衝撃を受けた。
社内の誰かがゲートウェイを設置し、社内ネットをインターネットへ接続したのだろう。その頃のインターネットは商用化が始まっておらず、DARPA(米国国防高等研究計画局)が設置した学術ネットワークだった。
ためしに米国の友人にメールを送り、程なくして返信を得た時の感動は若い人たちには想像できないと思う。
冒頭で父の話をしたが、海外に長期出張していた父は家族に手紙を出すことがあった。それが船便で到着するのに1ヶ月以上かかった。
たまに父が地球の裏側から電話をかけてくることがあり、私が受話器をとって懐かしさのあまり少々ウルウルしていると
「いいから、早くお母さんを呼んで!」
と少々焦った声で言うのである。
当時、ペルーやブラジルあたりから日本へ電話すると従量課金が莫大だったのである。父は腕時計を見ながら、緊急の要件を母へ伝えたいと焦っていたはずだ。
ところが電子メールを使えば、無料で瞬時に要件を伝えることができるのである。

93年 Windows 3.1

初めての海外通販

多くの人がインターネット元年をWindows 95が発売された1995年だと言うが私にとっての元年は93年だった。
というのは、インターネットを使って初めて海外からパソコンを輸入した経験が大変鮮烈だったからである。
もちろん当時は楽天もAmazonもない。それどころかWWWも登場したばかりで何に使えるのか皆目わからない状態だった。
電子メールで、雑誌に広告を出していたアメリカの企業にカタログを送るよう連絡し、その後、電子メールで欲しい製品の型番と自分のクレジットカード番号を送信したのだ。
信じられないことだが、暗号化なんかしていない。プレーンテキストでカード番号を送ったのである。ちゃんと製品は航空便で届いた。
当時のインターネットは性善説で運営されていて、繋がっている人たちは全て善人だと考えられていたのである。

日本製パソコンを駆逐したPC/AT互換機

また、この時に購入したパソコンについても触れておこう。
当時、IBMとマイクロソフトがWindows 3.1という新しいOSをリリースしたのだが、これがエポックメーキングだった。
このOSの優れたところは、PC/AT互換機というスタンダードに従えば、どこの会社が製造したパソコンでも動作したのである。
(正確に言えばWindows 3.1登場前のDOS\Vと呼ばれるOSでPC/AT互換機がサポートされている)
何がすごいのか、ピンとこないかもしれないが、当時としては画期的なことだった。というのは、当時はNECのパソコンにはNEC用のOSと専用ソフトが必要だった。富士通のパソコンに乗り換えたいと思ったら、ハードからソフトから全て買い直しである。それがWindowsをハードとソフトに噛ませることでハードウェアの差異を吸収するというアイディアだった。
現在、アンドロイド端末であれば、どの会社の端末でも同じアンドロイドアプリが利用できるに似ていると言えばわかりやすいだろうか?
さらに、ハードウェアが規格化されたために、世界中から自分のニーズにあった部品をプラモデルを作るように組み上げれば簡単に自分好みのパソコンが作れるようになった。
価格面の優位性は素晴らしく、私が輸入したパソコンは当時最先端のNEC製品と比べ三分の一程度の価格でほぼ同じ性能だった。
今のパソコンのシェアはHP、Lenovo、DELLがほとんどを占めているが、当時はIBMを除くと日本のメーカーが世界シェアのほぼ全てを支配していた。
しかし、Windows3.1とPC/AT互換という黒船により、日本勢は急速に力を失っていくのである。

Mig25戦闘機と秋葉原

PC/AT互換機の世界的な普及は秋葉原の街を変えた。それ以前の秋葉原は家電と電子部品の街で、電子部品は戦後の闇市のような裏通りに一坪ショップが無数にあった。今でもどことなくアングラな匂いが残るのはその雰囲気が残っているためである。
少し話がズレるが70年代、Mig-25戦闘機緊急着陸事件という冷戦下の日米・ソ連が一発触発になる事件があった。ソ連防空軍のベレンコ中尉が訓練中のサハリン空域から離脱し、日本の領空侵犯後、函館空港に強行着陸し、搭乗していたベレンコ中尉が亡命を申し出たのである。
中尉が操縦していたMig−25は機密の塊であり、米軍は喉から手が出るほどその機体が欲しかった。日米は機体を即時返還せず分解して中身を調査することにした。それに反発したソ連が機体破壊のために函館に特殊部隊を送り込んでくるかもしれないと言われた。結局それはなかったが、分解の結果、当時としてはすでに時代遅れであった真空管が機体制御に使われたことがわかった。そしてその真空管はスパイが秋葉原で入手したものだという噂がまことしやかに語られたのである。
ビルのフロアに真っ直ぐな幅1メートルもない通路。通路の両側は暗い裸電球の下、たくさんの一坪ショップが無数の真空管、抵抗器、トランジスタを所狭しと並べて売っている。通路は買い求める人がびっしりで冬で暖房もないのに暑いぐらいだ。その中を大柄なロシア人が本国から知らされた定格を持つ真空管を鋭い眼光で探している。そんなスパイ小説ばりの情景を想像してゾクゾクしたものだ。
実際、当時の秋葉原は何が出てくるかわからないカオスのようなところだったのだ。
この電子部品の街に、突如出現したのがパソコンのパーツショップだ。PC/AT互換機の普及で誰でも部品さえあればお気に入りのパソコンが作れるようになったためである。
この頃、私は子供が生まれ、子供のを背負いながら秋葉原の街を安くて性能のいいパーツを求めて徘徊したのを覚えている。同僚には「子連れの自作マニア」とからかわれたものである。

職場に少しずつネット環境が

Windows 3.1が発売されると、職場に少しずつパソコンとネット環境が入りはじめた。一人一台というわけでなく、フロアに一台とか、島に一台とかそんな感じだった。
そのころのパソコンでネット環境を構築するのは至難の技だった。自宅ではモデムとパソコンを接続するだけだったが、これでは回線速度が遅すぎて業務に適さない。
通信処理をパソコンのCPUから分離し、速度を向上させるために別のハードウェアを装着する方法が一般的になりはじめた。ネットワークカードと呼ばれるものをISAバスに装着し、社内のネットワークケーブルに接続する。
ケーブル自体が今の1000BaseTのように柔らかくて取り回しの効くものではなかったし、基幹線はまるでホースのように太かった。
ネットワークカードだけで当時10万円以上したとおもう。現在はマザーボードに標準搭載され、無線LANも当たり前になっているので、ネットワークカードだけに高額な出費がいるというのは信じられないことだと思う。
誰もが困難にぶつかるのが、ネットワークカードを動作させるためのドライバソフトウェアの設定だ。
当時のOSは640Kbyteのメモリしか扱えない。その制限の中でドライバソフトをメモリにロードするのがとても大変なのだ。特に日本語環境では、日本語入力をするためにIMEというソフトウエアもメモリにロードしておく必要があり、これとドライバが頻繁に干渉するのである。
動作させるために、OS起動時に読み込まれる設定ファイルに呪文のようなコマンドを書いていくのが大変面倒だった。
Windows 95以降、プラグアンドプレイというデバイスを装着するとOSが勝手に設定をやってくれる技術が開発された。今ではあの時の苦労は遠い昔話である。

ISDNの高速回線

OSや端末側の環境が整うのと同時に回線環境も変化があらわれた。
回線スピードが飛躍する通信サービスがあらわれたのだ。飛躍と言っても現在のスピードと比較すればノミのジャンプくらいなものだ。
それはISDNと呼ばれるサービスで通常のアナログ回線をデジタル回線と見立てて使えるサービスである。このサービスを使うと64kpbsで接続することができた。モデムは14.4kbpsくらいが限界であったので、約5倍になる。
ISDN自体は以前からあるサービスだったが、一般家庭で使うためにはNTTの電話回線工事と高価な専用機材(DSU/TAなど)が必要なことがネックだった。ところが95年の冬にNTT-TE東京が5万円を切るMN128というターミナルアダプターを提供したのである。私はクリスマス前に秋葉原で並んで購入した記憶がある。これを入手すれば回線工事だけではるかに快適なネット環境が手に入れられるのである。
工事ができて使えるようになったのは年が明けてからだと思うが、工事の人が「市内でISDNを使うのはコンビニとお宅だけです」と語っていたのが忘れられない。

95年 Windows 95

一般的にはWindows 95がインターネット普及の起爆剤となったと言われているが、そうではないと考えている。それはこれから書いていこうと思う。
Windows 95の発売の盛り上がりは今でも覚えている。それ自体では何も生産できない縁の下の力持ちのようなオペレーティングシステムが秋葉原や電気店だけでなく、家具の量販店からコンビニにまで並べられたのである。

インターネット機能のないOS

Windows 95は発売当初、インターネット機能が搭載されていなかった。こう書くと驚かれるかもしれないが、インターネットの必須アイテムであるブラウザがOSに含まれていなかったのである。
当初、ビル・ゲイツは今後のネットワーク利用は、インターネットでなく前述したようなパソコン通信になると見ていた。そのためWindows 95リリースと同時にマイクロソフトネットワーク(msn)というネットワークサービスを公開した。世界中にアクセスポイントを用意し、どこにいてもネットアクセスできるようになっていた。
インターネットを使いたい場合は、Microsoft Plus!という別売パッケージを購入する必要があった。
ところが、94年にリリースされたネットスケープナビゲータは多くの人々の心を掴みつつあった。
無償で使えることに加え、ハイパーリンク形式のわかりやすい文書構造はいつでも好きな場所へジャンプできる。ブラウザの普及とともに多くの情報がWWW(World Wide Web)に掲載されるようになった。
ブラウザで世界中の情報に気軽にアクセスできる喜びと、その情報が加速度的に増えていく驚きは今でも忘れることができない。
当時、帰宅するすぐに愛用のMacを立ち上げ、ネットスケープナビゲータでNTTのページにアクセスするのが日課だった。
まだ検索エンジンがない時代だったので、NTTのボランティアスタッフが手作業で検索ページを作成してくれていたのだ。日本中のWWWサイトの一覧は日に日に長くなっていき、最初は数分で一覧できる量だったのがあっという間に徹夜しないと見ることができない量に成長していったのだ。
この状況を見たビル・ゲイツの対応は早かった。次世代ネットワークはパソコン通信でなくインターネットだと理解し、ネットスケープナビゲータに競合するインターネットエクスプローラーを無償提供したのだ。この対策によってネットスケープナビゲータは2000年までに存在感がなくなり、同時にマイクロソフトは独禁法をめぐる司法省との長い戦いのタネをまくことになったのだ。

21世紀へ

パソコンからモバイルへ

こうして思い出してみると90年代のインターネットというのはパソコンユーザーのためのネットワークだったと考えられる。
マイクロソフトはWindows 95ののち、より安定したWindows XPをリリースし、覇権を確立させていく。
しかし、世紀末の年、NTTドコモよりiモードがリリースされた。この従量課金制のサービスはパソコンがなくてもガラケーさえあれば誰でも簡単にネットへアクセスできたのだった。
当初、私はこのサービスは普及しないと踏んでいた。というのはパソコンに比べて参照できる情報量が少ないことと、参照はできていても情報の作成には向いていなかったからだ。しかし、普及しないという予想は当たらなかった。世間の多くの人たちは、ガラケーの小さい画面で表示される情報が見えれば十分だったのだ。
Iモードは急速に拡大し、AppleのI Phone普及の下地を作った。インターネットの主役はパソコンからモバイルに変わっていったのである。

次はどこへ広がるか?

インターネットは地球全体を覆い、軌道上の数万にも達する通信衛星に及んでいる。やがてネットは月や火星へも伸びていくだろう。イーロン・マスクが実現しようとしているのはまさにそれだろう。
惑星にまで伸びたネットには無数の端末が接続される。パソコンやスマホのように人間が直接利用する端末よりも膨大な数の端末が接続される。家電、航空機、船舶、自動車など人間が生み出すあらゆる道具がネット接続され、私がモデム経由でパソコン通信をやっていた頃とは比較にならないデータ量が交換され続けられる。
テラ、ペタといった単位のデータは瞬時にAIが処理し、危険予知をしたり最適なルートを見つけたりし、私たちの生活はより便利になるはずだ。
少なくとも私が生きているうちにそれは実現されると思う。
とても楽しみだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?